竜王が愛した騎士

緋倉 渚紗

序章 焔の夜 ―終わりのはじまり―

 焔が降りしきる空の下、リュシアンは静かに玉座から立ち上がった。竜王の象徴たる白き鎧が、月光をやわらかく掬いあげる。幾千の夜を越えてなお、その姿には揺るぎない気高さがあるかのようだった。月の鱗を思わせる白銀の髪が微かな風に揺れ、黄金の瞳が暗闇をわずかに照らす。

 その清らかな立ち姿の奥に宿るのは、もはや恐怖でも焦燥でもなく――。

「また、この時が来たか」

 小さく落とされた言葉は、暗闇が広がってゆくように、諦観だけが滲む。何度でも、慣れることなどないように。

 外では、遠くから剣戟の音と人々の叫びの混ざった喧騒が響いている。瓦礫を踏む足音、倒れた兵の呻き、城門の崩れる音――すべてが遠い夢のように霞んで聞こえていた。

 王の立つ場所だけが、静謐に閉ざされ、まるでここだけが、世界から切り離されているかのように。

 彼女はゆっくりと一度瞬きをすると、傍らの騎士へと瞳を向けた。

 唯一、王の側で剣を抜くことを許された騎士。

 王の騎士にして――王の剣。

 フィリア・ノール。

 華奢ながらしなやかな肢体に銀の鎧を纏い、その灰の瞳は暗闇の奥――王の痛みそのものを見据えているかのよう。

 震える息遣いとは裏腹に、剣を握る手は揺らがない。淡い紅色の髪が炎のきらめきを受けて、静かに揺れていた。

 残された時間はわずかであり、外の剣戟も、遠くの喧騒も、刻々と迫っている。それでもリュシアンは静かに瞳を閉じ、息を吸い込む。しかし、開かれた瞳には、もう冷徹の影しか映らなかった。

「――わたしが愛した騎士よ」

 王の声には温度がなかった。まるで感情というものを置き忘れたように、ただ事実を告げる声。呼ばれた瞬間、フィリアは膝をつき、王の前に跪く。

 幾度も繰り返されたこの瞬間――絶対的な忠誠を誓う姿は、どれほど見慣れても、胸を締め付ける。

 小さく息を吸い込むと、冷酷にも聞こえる声で答えた。

「わたしのためにその命を、……今ここで捧げておくれ」

 静寂が訪れる。

 世界全てが、ふたりの呼吸だけになった。

 ゆっくりとフィリアは顔を上げる。そこには恐れも迷いもない。あるのは、主への想いと――覚悟。


「陛下の御心のままに……。この命、いかようにも」

 

 リュシアンはゆっくりと微笑み、剣を見据えるフィリアを静かに見つめた。彼女もまたリュシュアンを見つめる。そこには言葉では語られない感情が交差する。それは忠誠を超えた、理解の誓いだった。

「――竜王様のご命令であれば、喜んで捧げましょう」

 華やかで可憐な声が玉座に響き、あたりの空気は一瞬止まった。

 フィリアはゆっくりと静かに刃を抜く。鞘を離れる金属の音は、祈りのように静かだった。彼女の剣は、夜明け前の湖面のように澄み渡り、そこに映るのは、己ではなく――ただ王の影。

 迷いはない。

 忠誠とは、思考ではなく、呼吸だ。

 刃先が喉元へ寄り添ったとき、それでもフィリアの指は震えなかった。彼女にとって死は、王に捧ぐ最後の仕え方なのだ。

 リュシアンの命令。それは、疑う余地などない絶対。

 彼女の決意を塗り固めていく。

 そのときリュシアンの手が、ほんのわずかに動いた。

 伸ばせば届く距離。止めれば救える距離。だが手は宙で凍りつき、指先に宿った温度を、無理矢理呑み込む。感情は、喉の奥で石のように沈ませた。

 刃が喉元へ触れた瞬間、フィリアはふと――笑った。

 淡く、痛みを溶かすような微笑。

「王が望むなら、わたしは喜んで」

 声にならない誓いが、その微笑みに宿っていた。

 リュシアンの黄金の瞳が一瞬だけ揺れる。だが、揺らぎはすぐに消え失せた。


 響くのは――一閃の、乾いた音だけ。

 

 鈍い音が石の間に落ち、紅の滴が弧を描いて飛んだ。それはリュシアンの頬までかすめてゆく。

 鮮血は淡く光を反射し、玉座の荘厳さを一層際立たせた。

 そして静寂が王座に降り積もる。

 王は動かない。

 微動だにしない。

 それが愛の証であるかのように。

 ゆっくりと時が流れてゆく。

 フィリアの身体が完全に動かなくなったのを確かめるように、リュシアンはほんの少しだけ瞬きをした。

 長い呼吸が肺の奥を軋ませる。息を吐き切っても、胸の痛みは消えない。その痛みこそが、呪いの証。どれだけ抗っても、結末は変わらない。

 どの選択を選ぼうと、どの未来へ歩もうと愛した騎士は、いつか必ず血に沈む。最後にはフィリアの華は必ず散るのだった。

 だからこそ。

 せめて、苦しむ前に終わらせたかった。

 奪い続ける運命に抗うために。

 フィリアを守れない自分を許さないために。


 ──そして、またやり直すため。


 虚無の玉座に黒く影が伸びる。リュシアンの影が竜の形を彩ってゆく。

 愛した者を失い、世界を焼き、すべてが白に還る――その理不尽は、幾度目の巡りでも変わらない。竜王の印が手の甲で微かに光った。まるで、同じ歴史を繰り返すリュシアンを嘲笑うように。

 世界が白に染まるたび、その光は消え、また次の夜に備えるかのように眠りにつく。愛する者を守るため、繰り返されるこの試練の意味を、誰が知るだろうか。

 世界は音を失い、炎も煙もすべてが白に染まった。遠くの喧騒、瓦礫の崩れる音、人々の叫び――それらはすべて記憶の彼方に霞む。


 そして――再び、始まりの日。

 

 ――玉座の間にはリュシアンだけが立ち、静まり返った世界を見下ろす。崩れ落ちる城の音も、遠い記憶のように霞み、空気は冷たく澄んでいた。

 彼女はゆっくりと鎧を撫で、胸の奥に宿る痛みを押し殺す。

 何度、この夜を繰り返したのだろう。

 何度、この声で愛しい者を殺したのだろう。

 幾千の夜を越えても、果てに待つのは、静かな絶望。

 しかし、それでも立ち続ける。

 燃え尽きた玉座の間で、忠誠の剣を手にして。

 静かに息を吐き、空虚な笑みを浮かべた。

「……もう、何度目だったかしらね」

 笑う唇は、ひどく脆い。

 そのすべてが、リュシアンだけの記憶として、淡く揺れている。


 この国の頂に立つ者は、竜王と呼ばれる。

 人の王にして、竜の血を継ぐ者。繁栄と破滅の両輪をその掌に抱く存在。

 かつてこの地に舞い降りた古の竜「アヴァリス」を討ち倒した者にのみ、その名が与えられた。

 竜を倒した者は同時に、竜に見初められる。

 加護と呪い――二つの印を受け、世界を巡らせる宿命を背負った。アルヴェリア王国の歴史は、竜王の血脈によって紡がれている。

 だが、人々は知らない。

 竜王の王座は祝福の玉座ではなく、孤独と絶望を背負う玉座であることを。竜の加護は、同時に終焉の印でもあることを。

 今日も世界は巡る。

 幾度この国が滅びを迎えようとも、竜の加護がある限り再び始まりの日が訪れる。竜王が絶望し、愛する者の命を失うたびに――この国は再び生まれ変わる。

 これは、数多ある竜王の歴史に記された、ひとりの王の物語。誰にも知られず、誰にも語られず、ただ時の果てに囁かれる伝承。

 彼女の名は――リュシアン・アルヴェリア。

 白銀の髪は月光を束ねた竜の鱗のように、黄金の瞳は古き竜の魂を映す。その瞳に一度射抜かれれば、心の奥まで覗かれてしまうと言われた最後の竜王。

 そして彼女の傍らには、常にひとりの女騎士がいた。

 名を、フィリア・ノールという。

 卑き身分から竜王に仕える身となり、やがて彼女の影となった騎士。

 主と従、王と騎士――二人の姿はやがて伝承に変わり、語り継がれる。

 

 ――竜王、九つの月を越えて愛を知る。

 愛は血に、血は命に、命は夜に還る。

 されど、その夜の果てに、竜王は眠り、騎士は笑う。

 誰も知らぬ夜の果てに、竜王は何を見たのか。

 そして、彼女の愛した騎士はいずこへ消えたのか。

 その答えを知るのは、最後の竜王と、彼女が愛したただ一人の騎士のみ。

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