番外編「王様の一人遊び」

 橘蓮は、物心ついた時から、欲しいものは何でも手に入れてきた。

 金も、地位も、名誉も。望めば、全てが彼のものになった。

 だが、彼の心は常に満たされていなかった。まるで、ジグソーパズルの、一番大事なピースが欠けているような、そんな虚しさを常に抱えていた。


 彼が、藍沢湊という存在に出会ったのは、全くの偶然だった。

 取引先への手土産を買いに、秘書が用意したリストにあったデパートではなく、気まぐれで車を降り、路地裏で見つけた小さな花屋に立ち寄ったのだ。


 ドアを開けた瞬間、蓮は息をのんだ。

 雨上がりの、湿った土と花の匂い。その中に、ひときわ甘く儚い香りが混じっていた。

 そして、カウンターの奥にいた、彼。

 色素の薄い髪、大きな瞳、華奢な身体。まるで、ガラス細工のような青年だった。

 彼の周りだけ、空気が違うように感じた。俗世から切り離されたような、静謐な空気が流れていた。


 一目で分かった。

 彼が、自分の欠けていたピースだと。

 抑制剤を使っているのか、フェロモンは微かだったが、それでも蓮のアルファとしての本能は、彼こそが自分の「運命」だと、やかましく叫んでいた。


 その日から、蓮の「一人遊び」が始まった。

 毎日、仕事の合間を縫って、彼の店に通う。

 彼が、アルファに対して強い警戒心を抱いているのはすぐに分かった。だから、焦りは禁物だ。ゆっくりと、彼のテリトリーに、自分の存在を馴染ませていく。

 まるで、臆病な小動物を手なずけるように。


 彼の些細な変化を見つけるのが、日々の楽しみになった。

 最初は、目も合わせてくれなかった彼が、少しずつ、こちらを見るようになった。

 事務的だった挨拶に、微かな感情が乗るようになった。

 その一つ一つが、蓮にとっては、どんな大きなビジネスを成功させるよりも、価値のあることだった。


 彼が体調を崩した時は、心臓が凍るかと思った。

 泣きながら、アルファが怖いと告白された時は、胸が張り裂けそうだった。

 彼をそんな風に傷つけた、過去のアルファへの憎悪で、我を忘れそうになる。

 だが、それを顔には出さない。今、彼に必要なのは、怒りではなく、絶対的な安心感だと分かっていたからだ。


 植物園に誘ったあの日。

 初めて、彼が心からの笑顔を見せてくれた。

 曇りガラスの向こう側から、ほんの少しだけ、素顔を覗かせてくれた。

 蓮は、あの瞬間の彼の顔を、一生忘れないだろうと思った。


 そして、運命の夜。

 ヒートで苦しむ彼を、腕に抱いた時。

 蓮は、自分の理性を保つのに、全神経を集中させなければならなかった。

 甘く熟した果実のようなフェロモンが、彼の思考を麻痺させる。今すぐにでも、このか細い身体を組み敷き、自分のものだと刻みつけたい。

 そんな、獣のような衝動と、必死で戦った。


 彼を傷つけたくない。彼の信頼を、裏切りたくない。

 その一心で、蓮は夜を明かした。

 腕の中で、安心しきった顔で眠る彼を見ながら、蓮は誓った。

 必ず、この手で彼を幸せにしてみせる、と。


 藤堂灰都という男が現れた時は、生まれて初めて、殺意というものを覚えた。

 自分の権力を使って、社会的に抹殺することなど容易い。だが、そんなことをすれば、湊が心を痛めるだろう。

 だから、法に触れない、ギリギリの範囲で、彼が二度と湊の前に現れられないように、あらゆる手を打った。

 全ては、愛する人を守るためだ。


 そして、今。

 蓮の腕の中には、彼の指輪をはめた湊が、穏やかな寝息を立てている。

 ようやく、手に入れた。

 世界でたった一つの、かけがえのない宝物。

 彼の、全て。


 蓮は、湊の額にそっとキスを落とした。


『もう、どこにも行かせない』


 それは、独占欲に満ちた、王様の静かなつぶやき。

 しかし、その声は、どこまでも優しく、深い愛情に満ちていた。

 長かった一人遊びは、ようやく終わりを告げた。

 これからは、二人で、永遠に続く幸せな物語を紡いでいくのだ。

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