第10話「過去からの亡霊」
蓮の献身的な介抱のおかげで、俺のヒートは数日で完全に収まった。彼はその間、会社を休んでずっと俺のそばにいてくれた。食事を作り、汗をかいた俺の身体を拭い、ただ静かに寄り添ってくれた。
彼は一度も、俺に指一本触れようとはしなかった。ただひたすらに、俺という存在を守り、慈しんでくれた。
身体が回復するにつれて、俺の心も少しずつ前向きになっていった。
蓮に、全てを話そう。
俺がオメガであることも、過去に何があったのかも。それを知った上で、彼が俺をどう思うのか。それが怖くないと言えば嘘になる。でも、この誠実な人に対して、もう嘘や隠し事はしたくなかった。
ヒートが明けて五日目の朝。俺はようやくベッドから起き上がれるようになった。
リビングに行くと、蓮がコーヒーを淹れてくれていた。
「おはよう、湊。気分はどうだ?」
「……おはようございます。もう、すっかり」
蓮がごく自然に俺を名前で呼ぶことに、胸が温かくなる。
「蓮さん。あの、話が……」
俺がそう切り出した時、インターホンが鳴った。
こんな朝早くに誰だろう。俺は訝しみながら、モニターを覗き込んだ。
そこに映っていた顔を見て、俺は全身の血の気が引くのを感じた。
藤堂灰都だった。
「……なんで」
声が震える。どうして、彼がここに。この場所を知っているはずがない。
「誰だ?」
蓮が、俺のただならぬ様子に気づいて尋ねる。
「……知り合い、です」
答える声は、自分でも情けないほどにか細かった。
インターホンが、再び鳴る。今度は、ドアを叩く音も混じっていた。
「湊!いるんだろ、開けろよ!」
横暴な声。昔と少しも変わっていない。
蓮の目が、すっと細められた。彼が、俺と灰都の関係に気づいたのは明らかだった。
「俺が出る」
「ダメです!」
俺は咄嗟に蓮の腕を掴んだ。
灰都に、蓮の存在を知られたくない。この聖域を、あの男に踏み荒らされたくない。
「大丈夫だ。君はここにいなさい」
蓮は俺の手を優しく外し、静かに玄関へと向かった。
俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打っている。
ドアが開く音。そして、灰都の驚いたような声が聞こえた。
「……あんた、誰だよ。なんで湊の部屋から出てくんだ」
「君こそ、誰だ。朝早くから、人の家の前で騒ぐのはやめてもらおうか」
蓮の声は、いつも俺に向けるものとは全く違う、冷たく低い声だった。アルファとしての威圧感が、ひしひしと伝わってくる。
「はっ、こいつの新しい男か?ずいぶんいいアルファ捕まえたじゃねえか、湊も」
下品な笑い声。その言葉が、俺の胸をナイフのようにえぐる。
「……湊を出せよ。あいつは、俺のオメガだ」
「聞き捨てならないな。彼は君のものではない」
「なんだと?俺とあいつは運命の番だったんだぞ!一度番った相手は、一生もんなんだよ!」
違う。番の関係は、お前が一方的に壊したくせに。
言いたいことはたくさんあるのに、恐怖で足がすくんで動けない。
「過去の話だろう。今の彼は、君とは何の関係もない」
「うるせえな!湊!出てこい!」
灰都が、無理やり部屋に押し入ろうとする気配がした。
その時、空気が凍るような、凄まじい圧が放たれた。蓮のフェロモンだ。それは森の香りなどではなく、獲物を前にした頂点捕食者の、獰猛な威嚇そのものだった。
「……っ!」
灰都が息をのむ音が聞こえる。格の違いを、本能で悟ったのだろう。
「もう一度言う。彼から離れろ」
「……ちっ」
灰都の舌打ちが聞こえ、乱暴な足音が遠ざかっていく。
嵐が、過ぎ去った。
やがて、蓮が静かにリビングに戻ってきた。彼の表情は硬く、いつもの穏やかさはない。
「……すまない、怖い思いをさせた」
「いえ……ありがとうございます。助けて、もらって」
沈黙が、重くのしかかる。
聞かれるだろう。あの男は誰なのか、と。俺は、覚悟を決めて口を開いた。
「あの人は、藤堂灰都。俺の……大学時代の、元番です」
俺は、途切れ途切れに、全てを話した。
運命の番だと信じていたこと。卒業間際に、家柄を理由に一方的に捨てられたこと。そのせいで、アルファが怖くなったこと。
蓮は、ただ黙って俺の話を聞いていた。相槌も打たず、表情も変えずに。
それが、逆に怖かった。彼は、どう思っただろう。汚らわしい過去を持つオメガだと、軽蔑しただろうか。
全てを話し終えた時、俺は俯いて、彼の審判を待っていた。
「……そうか」
長い沈黙の後、蓮は静かに言った。
「辛かったな」
その声は、どこまでも優しかった。
非難も、同情も、憐れみもなかった。ただ、俺の痛みを、そのまま受け止めてくれるような、温かい声だった。
気づけば、俺は泣いていた。
蓮は、そっと俺の隣に来ると、壊れ物を抱きしめるように、優しくその腕の中に包み込んだ。
「もう大丈夫だ。俺が、君を守るから」
過去からの亡霊は、まだ俺の周りをうろついている。
でも、今はもう一人じゃない。
この人の腕の中が、俺の唯一の安息の場所だった。
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