第8話「決壊する理性の堤」

 緊急用の抑制剤は、一時的に嵐を鎮めてくれた。身体の奥で燃え盛っていた炎は、分厚い氷の下に無理やり閉じ込められたようだ。しかし、その代償は大きかった。翌日から、俺はこれまで経験したことのないほどの倦怠感と吐き気に襲われ、ベッドから起き上がることさえままならなくなった。


 店には『体調不良のため、しばらく休みます』という張り紙を出した。蓮に会うのが怖かった。あの時の俺の酷い態度を、どう説明すればいいのか分からなかった。それ以上に、また彼の前で発情してしまうかもしれないという恐怖が、俺を縛り付けていた。


 三日が過ぎた。

 食事もろくに喉を通らず、ただただベッドの上で、悪夢と現実の境を彷徨うような時間を過ごしていた。

 このまま、誰にも知られずに、消えてしまえたらいいのに。

 そんなことばかりを考えていた。


 その日の午後、アパートのドアをノックする音が聞こえた。

 居留守を使おうとしたが、ノックは執拗に続く。


「藍沢さん、いるんだろう。橘だ」


 蓮の声だった。心臓が跳ね上がる。どうして、ここが。

 そうだ、以前、彼に体調を崩した時に、アパートの前まで送ってもらったことがあった。


「開けてくれ。君が心配なんだ」


 ドア越しに聞こえる彼の声は、切実だった。

 無視することはできなかった。俺は、ふらつく足でなんとか玄関に向かい、鍵を開けた。


 ドアを開けると、そこには案の定、心配そうな顔をした蓮が立っていた。


「……どうして」


「店のシャッターがずっと閉まったままだから。電話も繋がらない」


 そういえば、携帯の電源もずっと切ったままだった。


「……すみません、ご心配を」


「いいから、中に入れさせてくれ。君、立っているのも辛いだろう」


 有無を言わさず、蓮は俺の肩を支えて部屋の中に入ってきた。そして、俺をベッドに座らせると、手早く部屋の窓を開けて空気を入れ替え、買ってきたらしいスポーツドリンクの蓋を開けて俺に手渡した。


「のめるか」


「……はい」


 俺はこくりと頷き、冷たい液体を喉に流し込んだ。乾ききった身体に、水分が染み渡っていくのが分かる。


 蓮は俺の向かいの床に腰を下ろし、じっと俺の顔を見ていた。その視線が、痛い。


「何があったのか、話してくれないか」


 静かだが、有無を言わせない響きがあった。


「あの時、君は普通じゃなかった。俺が何か、君を傷つけるようなことをしたんだろうか」


「違う……そうじゃないんです。あなたが悪いんじゃなくて、俺が……」


 俺が、オメガだから。

 その言葉が、喉まで出かかって、止まった。

 言えない。この人に、自分の醜い性を知られたくない。軽蔑されたくない。


「俺の身体は、少し、普通じゃないんです。だから……時々、感情の制御が、できなくなる」


 嘘と本当を混ぜこぜにした、苦しい言い訳。

 蓮は、俺の言葉を黙って聞いていた。信じてくれただろうか。


「そうか」


 彼は、ただそれだけを言った。

 そして、ゆっくりと立ち上がると、俺のベッドのそばに膝をついた。


「それでも、俺は君のそばにいたい」


「え……?」


「君がどんな問題を抱えていようと、関係ない。君が俺を拒絶しても、俺は君から離れない」


 彼の灰色の瞳が、真剣な光を宿して俺を捉える。

 その瞳に見つめられていると、氷の下に閉じ込めていたはずの熱が、再びじわりと溶け出してくるのを感じた。

 ダメだ。ダメだ。離れないと。


「来ないで……」


 俺は後ずさろうとしたが、背中にはもう壁しかない。


「なぜだ」


「あなたがいると、俺は……俺じゃ、なくなってしまう」


 蓮のフェロモンが、濃密になっていく。深い森の香り。それはもう、安らぎの香りではなかった。理性を溶かし、本能を剥き出しにする、危険な媚薬。

 緊急用の抑制剤は、もう効かない。薬の力で押さえつけられていた反動で、これまでで最も強烈なヒートが、津波のように押し寄せてきていた。


「あ……ぁ……っ!」


 身体の芯が、燃えるように熱い。視界が赤く染まり、思考が麻痺していく。

 目の前にいるアルファが欲しい。この人に抱かれたい。

 そんな、オメガとしての本能的な欲求が、羞恥心も恐怖も全て消し去っていく。


「藍沢さん……!?」


 俺の豹変に、蓮が息をのむのが分かった。

 俺は、もう限界だった。

 決壊した理性の堤から、濁流のように本能が溢れ出す。


「……助けて……蓮、さん……」


 懇願するような、か細い声。

 それが、俺が人間として発した、最後の言葉だった。

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