第7話「身体が刻む不協和音」
植物園での一日を境に、俺の心は確実に蓮へと傾いていった。
彼が店に来ると、自然と顔がほころぶようになった。彼と話す時間は、一日のうちで何よりの楽しみになっていた。
アルファへの恐怖が消えたわけではない。灰都にされたことの傷が癒えたわけでもない。でも、蓮だけは違う。そう思いたかった。
心の変化とは裏腹に、身体は奇妙な悲鳴を上げ始めていた。
長年、強力な抑制剤を服用し続けたせいだろう。周期が完全に狂ってしまっていた。本来なら、とっくにヒートが来ていてもおかしくない時期なのに、その兆候は一向に現れない。
その代わり、微熱や頭痛、原因不明の倦怠感が続くようになった。
『身体が、薬に慣れきってしまってるんだ』
無理やり自然の摂理を捻じ曲げてきたツケが、今になって回ってきている。
専門の医者に行くべきなのは分かっていたが、怖かった。オメガであることを改めて突きつけられるのが。そして、まともな身体ではないと診断されるのが。
その日、俺は朝から酷いめまいに悩まされていた。視界がぐにゃりと歪み、まっすぐ立っているのさえ辛い。それでも、店を開けないわけにはいかなかった。
「藍沢さん、顔色が……」
閉店間際にやってきた蓮は、カウンターに凭れかかる俺を見て、すぐに駆け寄ってきた。
「大丈夫です。いつものことなので」
「いつものこと、で済ませていい問題じゃないだろう」
彼の声には、鋭い非難の色が滲んでいた。こんなに強い口調の彼は初めて見る。
「病院には行ったのか」
「……行っていません」
「なぜだ」
答えられなかった。本当の理由なんて、彼に言えるはずがない。
俺が黙っていると、蓮は深いため息をついた。
「すまない、責めているわけじゃないんだ。ただ、心配で……」
彼はそう言うと、俺の額にそっと手を当てた。ひんやりとした大きな手が、熱っぽい肌に心地いい。
その瞬間だった。
くらり、と世界が揺れた。
蓮の指先から、彼のフェロモンが流れ込んでくるような錯覚。深い森の香りだ。いつもは心を落ち着かせてくれるその香りが、今日に限っては、俺の身体の奥底に眠っていた何かを、暴力的に揺り起こした。
「……っ!」
腹の底から、熱いものがせり上がってくる。身体中の血液が沸騰するような、抗いがたい衝動。
これは、ヒートの前兆だ。
今まで薬で押さえつけてきた本能が、蓮のフェロモンに触発されて、無理やり目を覚まそうとしている。
「藍沢さん?」
心配そうに俺をのぞき込む蓮の顔が、やけに艶めかしく見えた。彼の唇、首筋、その全てが俺を誘っているように感じる。
まずい。このままでは、理性が保てなくなる。
「触らないでください!」
俺は蓮の手を、力いっぱい振り払っていた。
蓮は驚いたように目を見開いている。彼の優しい瞳を、俺は酷い形で裏切ってしまった。
「すみません……今日は、もう、帰ってください」
声が震える。彼をこれ以上、ここにいさせてはいけない。俺が、俺でなくなってしまう前に。
「藍沢さん、一体……」
「お願いです、帰って!」
ほとんど叫ぶような声だった。
蓮は、何か言いたそうに唇を開きかけたが、結局、何も言わずに黙って店を出ていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、俺はその場に崩れ落ちた。
「はっ……はぁ……っ」
呼吸が荒くなる。身体の内側から、業火に焼かれるような熱が込み上げてくる。
なんで、今なんだ。
よりにもよって、彼の前で。
俺は震える手で、バックヤードに置いてある鞄を探った。中には、緊急用の、特に強力な抑制剤が入っている。もう何年も使っていない、最後の切り札だ。
シートを破り、錠剤を口に放り込む。水もないまま、無理やり嚥下した。
薬が効くまで、どれくらいかかるだろう。
床に蹲り、自分の身体を抱きしめる。
蓮を傷つけてしまった。彼の優しさを、踏みにじってしまった。
自己嫌悪で涙が滲む。
身体が刻む不協和音は、俺の心をもバラバラに引き裂いていくようだった。
蓮の悲しそうな顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
もう、彼はここに来てくれないかもしれない。
そう思うと、身体の熱よりも、心の凍えるような寒さの方が、ずっと辛かった。
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