『放課後の軍師』~学園三国志ミステリー~

リコウ

第1話 黄巾の乱・校門突破の戦い

高校生活とは、青春を謳歌する輝かしい舞台などではない。


それは限られたリソースと評価(カースト)を奪い合う、終わりなき群雄割拠の戦場だ。


私の名前は佐藤俊樹。


この春、私立龍鳳高校に入学したばかりの、取るに足らない一年生だ。


この学び舎という名の戦場で、私は目立たず、誰とも争わず、ただ静かに状況を俯瞰する「観測者」であろうと心に決めていた。


乱世において、最も長生きするのは英雄ではない。名もなき文官だ。


そう信じていた。あの日までは。


​四月半ばの、生温い風が吹く月曜日の朝だった。

通学路の坂を上りきった私は、正門前で異様な光景を目にして足を止めた。


そこには、登校してきた数百人の生徒たちが、門を通り抜けることができず、巨大な人の塊となって立ち尽くしていたのだ。


​門が閉ざされているわけではない。


教師が立ちはだかっているわけでもない。


それなのに、誰も前へ進めない。まるで目に見えない結界が張られているかのようだ。


時計の針は予鈴の五分前を指している。このままでは遅刻は免れない。


私は溜息をつき、眼鏡の位置を直しながら、最後尾からその「障害」の原因を冷静に分析した。


​・状況の観察

正門の中央に、十数人の大柄な男子生徒たちが横一列に並んでいる。

彼らは全員、柔道着の上に学ランを羽織り、腕には黄色いタオルやバンダナを巻いている。

彼らは無言だ。しかし、その強烈な威圧感と、獲物を狙うような視線で、登校してくる一般生徒を睨みつけている。


​・障害の正体

彼らは物理的に道を防いでいるわけではない。人と人の間には、通ろうと思えば通れる隙間がある。

しかし、その中心にいる大男――柔道部の主将である三年生、「剛腕の張」と呼ばれる男が醸し出す空気が、生徒たちの足をすくませている。


「通れるものなら通ってみろ。ただし、俺たちの顔を覚悟しておけよ」


そんな無言の圧力が、見えない城壁となって門を塞いでいた。


​私は記憶の引き出しを開け、この状況に合致する史実を検索した。


腐敗した政治、民衆の不満、そして黄色い布を掲げた反乱軍。


​「……まるで、黄巾の乱だな」


​私が思わず独り言を漏らした、その時だった。


​「面白い例えね。あなたには、単なる不良の嫌がらせが歴史上の暴動に見えるの?」


​隣から、鈴を転がすような、しかしどこか冷ややかな声が聞こえた。


反射的に振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。


長い黒髪に、射抜くような強い瞳。


制服の着こなしは完璧で、立ち姿には微塵の隙もない。


同じ一年生のようだが、彼女の周りだけ空気が張り詰めている。


私は彼女を知らない。だが、その圧倒的な存在感は、彼女がこの戦場における「将」の器であることを雄弁に物語っていた。


​彼女は腕を組み、黄色いバンダナの集団を見つめながら独りごとのように続けた。


​「彼らはただ立っているだけではないわ。恐怖という名のバリケードを築いているのよ。これを突破するには、力押しではダメ。先生を呼べば、彼らは『ただ朝の挨拶運動をしていただけ』としらばっくれるでしょうね」


​彼女の分析は的確だった。


教師が介入すれば、彼らは散るだろう。だが、その後に待っているのは、告げ口をした生徒への陰湿な報復だ。


だから誰も動けない。誰も声を上げられない。


彼女はこちらを見ようともせず、ただ前方を見据えて言った。


​「ねえ、そこの三国志オタクさん。あなたなら、この『黄巾の乱』をどう鎮圧する?」


​突然の問いかけに、私は眉をひそめた。


なぜ見ず知らずの私に話を振るのか。


関わりたくはなかった。


平穏無事な高校生活を送るのが、私の至上命題だったからだ。


しかし、腕時計を見る。あと三分。


このままでは遅刻が確定し、私の内申点という名の兵糧が尽きる。それは避けねばならない。


​「……策なら、ある」


​私は短く答えた。


彼女が初めてこちらを向き、興味深そうに目を細めるのが視界の端に見えた。


私の目には、既に敵陣の綻びが見えていた。


剛腕の張たちが作っている完璧に見える陣形。


だが、そこには彼ら自身も気づいていない、致命的な「死角」が存在していたのだ。


​私はカバンから一冊のノートを取り出し、ページを破り取ると、ペンでさらさらと短い文章を書いた。


そして、近くにいた大人しそうな男子生徒――同じクラスの田中だ――に声をかけた。


​「田中、悪いけど協力してくれないか。遅刻したくないだろ?」


​田中はおどおどしながらも、藁にもすがる思いで頷いた。


私は彼にメモを渡し、小声で指示を出した。


「これを読んで、あの『黄色いバンダナの一番端にいる男』に、聞こえるか聞こえないかの声で伝言してくれ。『後ろの列で誰かが言っていた』という体裁でな」


​田中は恐る恐る人混みをかき分け、門の端へ向かった。


私はその様子を、名も知らぬ女子生徒から少し離れた位置で観察する。


​私が仕掛けたのは、三国志においても多用された

『流言飛語(りゅうげんひご)の計』だ。


大軍を動かすのに、必ずしも武力は必要ない。


必要なのは、たった一つの「情報」だ。


​田中が端の部員に何かを囁いた。


その瞬間、部員の顔色が変わったのが遠目にも分かった。


彼は慌てて、隣の先輩部員に耳打ちをする。


その伝言ゲームは、瞬く間に門の中央にいるリーダー、剛腕の張へと伝播した。


​張の太い眉がピクリと動く。


彼は門の前で腕を組んで仁王立ちしていたが、急にソワソワと落ち着きをなくし、周囲をキョロキョロと見回し始めた。


そして、あろうことか背後の校舎の方を気にし始めたのだ。


​隣にいた女子生徒が、感心したように息を漏らした。


「……何をしたの?」


「彼らがここを封鎖している理由は、単なる示威行為じゃない。おそらく『誰か』を待っているんだ。対立している他校の生徒か、あるいは自分たちを処分しに来る生活指導の鬼教師か」


「ええ、そうね。その警戒心を利用したの?」


「彼らにとって、正面からの説教は怖くない。だが、退路を断たれて逃げ場を失うのは怖い。包囲殲滅されるという恐怖は、軍隊をパニックに陥らせる基本だ」


​私は田中にこう伝言させていた。


『生活指導の佐々木先生が、竹刀を持って裏門から回り込んでいるらしい。挟み撃ちにする気だ』と。


​私の読み通り、張は焦り始めた。


「おい、裏門を確認してこい! 挟まれたら終わりだぞ!」


彼の怒号が飛ぶ。


完璧だった「人の壁」が、指示によって動き出し、陣形が崩れた。


中央に、人が一人通れるだけの隙間ができる。


​「今だ」


​誰かが叫んだ。


混乱に乗じて、生徒たちが雪崩のようにその隙間へ殺到する。


一人が動き出せば、もう止まらない。


数百人の生徒の流れは濁流となり、黄色いバンダナの集団を押し流していく。


剛腕の張は、生徒たちの波に飲まれながら、呆然と立ち尽くしていた。


自分がなぜ負けたのか、理解できていない顔だ。

​私は人混みに紛れながら、その間抜けな姿を一瞥し、小さく呟いた。


​「――策に、溺れたな」


​こうして、私立龍鳳高校における最初の戦い、『校門突破の戦い』は、誰にも知られることなく私の勝利で幕を閉じた。


はずだった。


​昇降口で靴を履き替え、教室へ向かおうとした私の前に、一人の影が立ちはだかった。


先ほどの女子生徒だ。


彼女は壁に背を預け、まるで私がここを通ることを予期していたかのように待ち構えていた。


周囲の喧騒が嘘のように、彼女の周りだけ静寂が支配している。


​「見事な手際だったわ。三国志オタクさん」


​彼女は私に近づき、逃げ場を塞ぐように目の前に立った。


甘い香りが鼻孔をくすぐるが、その瞳は肉食獣のように鋭い。


​「偶然です。それに、オタクじゃありません」


「嘘ね。あの状況で『流言』を使って敵を自滅させるなんて、普通の高校生の発想じゃないわ」


​彼女は私を壁際に追い詰めると、不敵な笑みを浮かべて手を差し出した。


​「私は玲花(れいか)。一年A組。この学園の頂点(テッペン)を獲る女よ」


​玲花。その名前は、私の記憶に刻まれることになる。


私は観念して、差し出された手を見つめた。


関わりたくない。逃げ出したい。


しかし、私の本能が告げていた。この女からは逃げられないと。


​「……佐藤俊樹。一年C組です」


「トシキ、いい名前ね。今日からあなたは私のものよ」


「はい?」


「私の『軍師』になりなさい。拒否権はないわ。もし断れば……さっきの流言の犯人があなただって、あのゴリラみたいな先輩にバラすから」


​彼女は悪魔のように微笑んだ。


それは、私の平穏な高校生活が崩壊し、三国志になぞらえられた奇妙で過酷な三年間の戦いが幕を開けた瞬間だった。

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