『トールの沈黙 ―雷神の覚醒―』

もこともこ

第1話

プロローグ:熱のない光

2026年1月16日、17時02分。新宿駅、南口。

それは、冬の乾いた空気の中に紛れ込んだ、微かな金属の味から始まった。

雑踏の中で足を止めた佐藤は、舌の奥に広がる奇妙な感覚に眉をひそめた。理系大学時代の実験室で嗅いだ、電離した空気の臭い――オゾン臭。

「……何か変だ」

その直後、視界の端で「異変」が視覚化された。

頭上の巨大なデジタルサイネージが、一瞬だけチェレンコフ光のような青白い光を放ち、次の瞬間、まるで断頭台の刃が落ちたように、すべての色彩が消えた。

新宿の喧騒を支えていた重低音――電車の走行音、エスカレーターの駆動音、そして数万人のざわめき――が、真空に吸い込まれたかのように消失する。

静寂。そして、遅れてやってきたのは、何百ものブレーキが同時に悲鳴を上げる、鼓膜を劈くような金属摩擦音だった。

地下から噴き出したのは、パニックの悲鳴ではなく、冷たく湿った**「沈黙」**だった。人々の手にあるスマートフォンの画面が、同期したかのように一斉に「圏外」を表示し、その青白い光だけが、石像のように固まった群衆の顔を照らし出している。

見えない汚染の「感触」

「停電……? いや、これ、スマホも死んでるぞ」

隣のサラリーマンが、狂ったように画面をスワイプしている。佐藤は反射的に、胸ポケットの線量計に手をやった。内調の分析官として、常に身につけている小型のデジタル機器。

液晶画面には、**「0.12μSv/h」**と表示されていた。平常値だ。

だが、佐藤の指先は震えていた。

線量計は反応していない。しかし、先ほどのあの青い発光と、舌に残る金属味。

「アルファ線だ……」

透過力の弱いアルファ線は、厚い衣服や機器の外装を通り抜けない。だから線量計は黙っている。だが、もしアメリシウム241の微粒子が、換気扇の気流に乗ってこの雑踏に散布されていたとしたら。

人々が呼吸するたびに、目に見えない「火種」が肺の奥深くへと吸い込まれていく。それは核爆発のような派手な破壊ではない。**「静かな被曝」**による、社会そのものの呼吸停止。

政治の静止:公示前夜

「総理、内閣府のメインサーバが物理的に溶解しています」

同じ時刻、永田町の首相官邸。

非常用電源に切り替わった赤褐色の照明の下で、秘書官の声が震えていた。

柳総理は、窓の外を見た。数分前まで宝石箱のように輝いていた東京の夜景が、今はただの黒い影となって沈んでいる。

「溶解だと? 過電流か」

「いえ……サーバールームの冷却系に、高濃度のラジウム溶液が混入された形跡があります。熱交換器が腐食し、内部から焼き切れたようです。復旧の目処は立ちません」

柳は、手元の解散届の書類を見つめた。

明日の公示。日本が「自立」を求めて進むはずだった選挙。

だが、今起きているのは、目に見える敵との戦争ではない。アメリシウム、トリウム、ラジウム――。かつて科学が夢見た「未来の材料」が、今、日本の神経系を一本ずつ焼き切っていく、超限戦の幕開けだった。

「……解散は中止だ。いや、中止することすら、国民に伝えられないのか」

闇の中で、柳の言葉だけが虚しく響いた。

その時、官邸の古い固定電話が、一度だけ、不気味な音で鳴った。

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