愛音
数年後、私は妊娠した。妊娠が発覚した時は玲が泣いて喜んでくれた。私ももらい泣きした。日に日に大きくなるお腹に期待を膨らませる。玲はよく私のお腹に耳を当てて、子どもの様子を伺っている。そんな彼がとても愛おしかった。
出産時、予定より時間はかかってしまったが、何の問題もなく産まれてくれた。玲は立会い出産を希望したため、私が辛い時、ずっと近くに居てくれて、大丈夫だよって言ってくれた。だから頑張れたと思う。
子供は女の子だった。名前は愛音(おと)。音を楽しんで、愛して欲しいという気持ちを込めた。愛音は順調に成長し、天真爛漫な女の子に育った。子供用のピアノを買ってあげると、まだ音はめちゃくちゃだが、とても楽しそうに鍵盤に触れている。その光景を見て、私も玲も自然に笑顔になった。
玲もプロのピアニストとして場数を踏んでいた。少しずつ大きな会場でも演奏できるようになり、ファンもついているようだ。だが最近元気がないようにみえる。疲れているだけかもしれないが、昔は毎日欠かさずにピアノに向かっていたのに、今では3日に1回、1週間に1回と、その頻度は目に見えて減っていた。
「玲、ちょっといい?」
愛音とおもちゃで遊んでいた玲に話しかける。
「ん?どうした?」
「余計なお世話だったらごめんね。……最近ピアノを弾くことが減ったよね。何かあった?」
「……なんでもないよ。疲れてるだけ。」
「……そう。」
玲の顔は本心を隠しているように見えた。だが、ここからは立ち入ってくるなと境界線を貼られたように感じ、私にはどうすることも出来なかった。
ある日のコンサート当日。今日は先輩ピアニストの前座で弾くと言っていた。なのになかなか起きてこないので起こしに行ってみると、布団にくるまっていた。
「玲ー。今日は前座で弾くんでしょ?時間大丈夫?」
「……」
返事が返ってこなかった。仕方ないので布団を剥ぎ取ってみると、丸く蹲っている彼の姿があった。
「……どうしたの?体調でも悪い?」
「…………」
彼は何も話してくれなかった。
「……今日はコンサート行けないって伝えとこうか?」
「……」
彼は無言で頷いた。
「……今日はゆっくり休んでね。」
その状態が何度も続いた。コンサートの日になる度に玲は部屋に籠った。
「……玲、何か手伝えることはある?」
部屋の外から声をかける。部屋の中からは物音1つしない。
「……大丈夫、なんでもないよ」
「……そう。」
家の雰囲気がどんどん悪くなっていくのを感じた。玲がピアノから遠ざかっていく。そう思うととても悲しくなった。今までの人生の節目には必ず玲のピアノがあったから。それに玲がコンサートに行かないと、本当に仕事が無くなってしまう。今まで努力して手に入れたプロのピアニストという座をこのまま無くしたら、彼は後悔してしまうかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、再び彼の部屋の前へ訪れた。
「……玲、部屋、入れてくれない?」
玲の部屋のドアがゆっくり開き、中から少しやつれた玲が出てくる。
「……なに」
「玲、……そろそろコンサートとか行ってみない?このままだと本当にピアノの仕事無くなっちゃうよ?」
「……俺だって……俺だって色々あんだよ!愛華はプロじゃないからわかんないだろうけどさ!」
玲の荒らげた声に驚いて言葉を失う。
「もう……もうきついんだよ。キツくてこわい。ステージに立つのも、評価されるのも。ミスをすれば直ぐに見放される。少しのミスも許されない。プロだから。」
玲の声は震え、拳をきつく握っていた。顔は今までに見たことがないほど悲しい顔だった。
「俺だって最初は頑張ったさ。愛華や愛音にかっこいい姿を見せたかったし、観客の声援も嬉しかった。でも、それを失うのが怖いと感じてしまった。失いたくない。そう思うほど、手が思い通りに動かなくなった。……最初は少し音を外す程度だった。観客にもバレないくらい。でもそれじゃダメだ。俺にとっては失敗だった。それで……段々できなくなっていって、俺はピアノから逃げた。」
そういいながら自分の手を見つめ、目に涙を浮かべる。
「……愛華には、、こんな情けない姿見せたくなかった。ずっとかっこいいままの俺を見せたかった。……ごめんな。こんなに弱いやつで。愛華に似合う男になれなくて。」
彼は涙を流しながら言葉を続ける。私はどうしたらいいのか分からなかった。確かに私はプロになった経験がないので、彼の気持ちを100%理解するなんて出来ない。ただ寄り添ってあげたかった。そんなことさえ出来なかった自分が嫌になる。
「……ごめんね、玲。今まで気づいてあげられなかった。」
私も泣き出してしまう。これからどうしたらいいんだろう。2人ともどうすることも出来ずその場に立ち尽くす。
その時、微かにピアノの音が聞こえた。そこに曲なんて存在しなかった。ただ鍵盤を叩く音と笑い声が聞こえるだけ。でも、そこには音を楽しむという意味そのものがあった。
「……愛音?」
ピアノの置いてある部屋に向かうと、愛音が玲のピアノの椅子に座り、鍵盤を叩いていた。キャッキャッと声をあげながら笑顔で。
「まま!ぱぱ!」
こっちを振り向いた愛音が、私たちに手を伸ばす。まるで一緒に弾こうと言っているかのように。私と玲はその光景を見て泣いていた。愛音はその事に気づいたのか、その小さな体で一生懸命こっちまで走って、
「だいじょうぶ?どこかいたいいたいの?」
と心配そうに見上げてくる。
「……大丈夫だよ。愛音のピアノ凄いなぁって思ってね。」
「おと、ピアノすき!」
「私もピアノ好きよ。もちろん愛音も大好き。」
そう言って抱きしめる。まだ5歳にも満たない小さな体に救われたように感じた。
「……愛華、さっきはゴメンな。いろいろぶちまけて。」
「……ううん。私も玲のことちゃんと考えられてなかった。」
玲は少し吹っ切れたような顔をしている。その顔に安心した。
「まま、ぱぱ、いっしょ、やろ!」
そう言って愛音は私たちの手を引っ張りピアノの元へ行かせる。そのまま愛音を挟んで3人で椅子に座る。愛音は相変わらず楽しそうに鍵盤を叩く。玲は鍵盤を見つめたまま動かない。私はそんな彼を不安そうに見つめる。そんな彼の手を愛音が掴む。
「ぱぱ、前みたいに弾いて!ぱぱの音ってキラキラしてるの。おと、その音がすき!」
「……ありがとうな愛音。じゃあ愛音も一緒に弾くか」
「うん!」
そのまま2人で鍵盤を叩き始める。ハチャメチャなのは変わらないが、玲が楽しそうに引いているところを久しぶりに見れて、とても嬉しかった。
「ままのお歌も聴きたい!」
「じゃあ歌っちゃおうかな!」
そのまま玲と2人で愛音の好きな歌を沢山演奏する。愛音は手拍子をしたりたまに一緒に歌ったりして、楽しそうだった。この時がいつまでも続けばいいのに。そう感じてしまうほど、この瞬間がかけがえのないものとなった。
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