彼女の薬指がガラ空きだと、僕の会社が倒産する
田中不燃
薬指
「薬指って、英語でなんていうか知ってる?」
知らなかったし、そうやって暗に婚約を迫る
南青山のリストランテ。純白のテーブルクロスの上で、伊織の左手の人差し指がトントンとリズムを刻んでいる。
そのリズムはBPM120。苛立ちのサイン。
野田はテーブルの下で隠し持ったスマホに視線を走らせる。画面には、野田が経営する「fortune&wise」のリアルタイム株価チャート。案の定、5分足のローソク足が、彼女の指のリズムと完全に同期して、赤色の陰線を刻んでいた。
トン。一株あたりマイナス五十円。
トントン。マイナス百円。
時価総額にしておよそ三億円が、たった今の「退屈だ」という意思表示だけで消え失せた。
「……ねえ、聞いてるの?」
「き、聞いてるよ。英語だろ? ええと、メディカル・フィンガーとか?」
野田が適当に答えると、伊織の眉がピクリと動いた。同時に、テーブル上の左手が、ワイングラスの脚を強く握りしめる。
野田の背筋が凍る。 ――
ブブブ、とスマホが振動した。証券口座からの
「薬指、かぁ、考えたこともなかっ」
「私のリング・フィンガー、どうして空っぽなのかしら」
伊織は左手を顔の高さまで持ち上げ、ヒラヒラと振ってみせた。薬指には何もない。空虚だ。
その「空っぽ」というジェスチャーを、市場はどう判断したか。見るまでもない。AIたちはそれを「将来的な成長期待の剥落」と判断し、
なぜ、こんなことになったのか。
理由は単純。野田の会社が開発した市場予測AI『マモン』は、優秀すぎたのだ。
あらゆる経済指標、気象データ、SNSのトレンドを学習させた結果、AIは「fortune&wise」の株価を決定づける究極の
それは、CEOである野田の精神状態。
そして、その野田の精神を支配する、恋人・伊織の機嫌である。
AIは、世界中のどんな経済ニュースよりも速く、伊織の「左手の微細な挙動」をカメラやウェアラブルデバイス経由で監視し、そこから〇・五秒後の未来を予測して、
「……慎太郎くん?」 伊織の声が一段低くなった。
まずい。
このまま彼女が「別れ話」でも切り出そうものなら、その手のアクションがトリガーとなり、
野田は覚悟を決めた。「伊織、その……手を見せてくれないか」
「え?」
「手相だよ。最近勉強してて」
野田は震える手で、伊織の左手を両手で包み込んだ。
温かい。そして、柔らかい。
だが野田の脳内では、《接触確認。相場の乱高下要因を物理的に拘束。これより相場の
「失礼いたします。メインディッシュの『仔羊のロースト、瞬間燻製仕立て』でございます」
ウェイターがうやうやしく銀の
「わあ、美味しそう! ……ねえ、慎太郎くん。そろそろ離してくれる?」
伊織が左手を引く。野田は、万力のような強さでそれを握りしめたまま首を振った。
「だめだ」
「は? どうして? 食べられないじゃない」
「離したくないんだ。今の君の……手の温度を感じていたい」
「いや、ちょ、ちょっと、店員さんが見てるから!」
伊織が恥じらって身をよじった。
その振動がウェアラブル端末経由でAIに伝播する。スマホの画面上で、チャートがピクリと跳ねた。
ここで左手が解放され、ナイフを握って「切断」という破壊的なアクションを行えば、AIはそれを「資産の
絶対に、彼女にナイフを持たせてはならない。野田は瞬時にリスク計算を完了し、最適解を弾き出した。
「僕が食べさせるよ」
「えっ」
「君の手は、僕が温めておく。君はただ、口を開けていればいい」
「……えええ? い、いや、ちょ」
野田は右手だけで器用にナイフを操り、仔羊の肉を一口大に切り分ける。
「ほら、あーん」
「も、もう……今日はいったいどうしたの……?」
伊織がおずおずと口を開き、肉を頬張る。
咀嚼。嚥下。そして、恍惚とした表情。
おいしい、と彼女が微笑んだ瞬間。
『
『株価、前日比プラス転換まで回復』
(よし……! 読み通りだ!)野田は心の中でガッツポーズをした。
彼女の「満足感」と「左手の静止」が組み合わさることで、AIはこれを「盤石な経営基盤」と評価したのだ。
しかし、ブラックスワンは、唐突に飛来する。
「――でもさ」
二切れ目の肉を咀嚼しながら、伊織がふと真顔に戻った。
「慎太郎くんの会社、最近どうなの?」
「えっ」
「なんかさ、テレトーの番組で見たの。AIベンチャーの競争が激しいって」
「ああ、まぁ、それはね」
「慎太郎くん、……将来のこと、ちゃんと考えてくれてる?」
核心を突く問い。
野田の背中に冷たい汗が伝う。
その動揺を察知したのか、伊織の左手が野田の手のひらの中でモゾモゾと動き始めた。
拘束への抵抗。不信感の芽生え。
チャートの放物線が、頂点からカクンと下を向く。
「か、考えてるよ! 当然だろ!」
「口だけならなんとでも言えるよ。……私ね、思うの」
伊織の声のトーンが下がる。彼女の瞳からハイライトが消え、とんでもなく冷ややかな光が宿った。
野田は、その表情に見覚えがあった。リーマンショックの朝、ニュースキャスターが浮かべていた絶望の表情と同じだ。
「慎太郎くんって、いつもそうやってその場しのぎで、私の機嫌取ってるだけじゃない?」
「ち、違う! これは高度なリスクヘッジで……」
「離して」
「待ってくれ、今離すと大変なことに……!」
「離してって言ってるの!!」
ブンッ!
伊織が強引に左手を振り払った。その遠心力は凄まじかった。振り払われた左手は勢いよく空を切り、テーブルの上の空になったワイングラスをなぎ倒した。
ガシャァァァン!
破砕音。飛び散るガラス片。
静まり返るレストラン。そして、野田のポケットで、スマホが死に際のセミのように激しく振動し続けた。
見なくてもわかる。
左手の激しい拒絶と破砕音。これをAIは「事業継続困難」「破綻確実」と判定したに違いない。数秒で数億円が消し飛ぶ感覚。
「……帰るね」
伊織が冷たく言い放ち、バッグを掴んで立ち上がろうとする。
彼女が出て行けば、いよいよその「退室」というアクションで、株価はストップ安に張り付き、明日には上場廃止が決まるだろう。
システムのエラーを修正するには、
あの左手を、二度と暴走しないように、物理的かつ社会的に「固定」するための、最強の
野田は弾かれたように顔を上げた。思考回路がショートし、AIの論理だけが残った。彼はテーブルの上のナプキンリングを掴むと、立ち去ろうとする伊織の前にスライディングで回り込み、床に膝をついた。
「待ってくれ!!」
「どいてよ!」
「結婚してくれ!!」
店内が、再び静まり返った。
野田は、伊織の震える左手を掴み、その薬指に、リングを強引にはめ込んだ。
その瞬間、世界が静止した。
「……なにこれ、どういう展開?」
伊織の表情が、怒りから驚きへ、やがて、慈愛に満ちたものへと変わる。
スマホの画面では、暴落していたチャートがV字を描いて急上昇し、天井知らずの幸福な曲線を描き始めた。
市場は均衡を取り戻したのだ。
個人の利己心と、他者への同感が、完璧なバランスで調和していく。
あまりに美しい、
「……ああ」
野田は光に包まれながら、その完璧なシステムの完成に涙した。
「これだ。これこそが、世界を導く原理なんだ……」
†
「――起きなさい、朝ですよ」
母の呼ぶ声で、彼はハッと顔を上げた。
目を開けると、そこはレストランではなく、カークカルディの実家の書斎だった。 窓の外からは、冷たい北海からの風が吹き込んでいる。
目の前には書きかけの原稿と、羽ペン。
そして、読みかけのヒュームの哲学書。
「……夢」
アダム・スミスは、額の汗を手の甲でぬぐった。心臓が早鐘を打っている。
なんだか、恐ろしいほどにリアリティのある夢だった。光る板、目まぐるしく変わる数字、そしてあの恐ろしい女の「左手」。
彼は震える手で羽ペンを取った。夢の中で彼が掴みかけた真理。
人間は『
だが、それでも。
人々が自分の利益のために勝手に行動しても、社会は崩壊しない。むしろ、あたかも何らかの
あの女の左手が、そうであったように。
「……導かれるのだ」
彼は『国富論』第四編の原稿用紙の余白に、こう記した。
――彼らは、自分自身の利益を追求することで、
(了)
彼女の薬指がガラ空きだと、僕の会社が倒産する 田中不燃 @hescapricious
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