戦争にはゴブリンを
ケンシロウ
1
輸送車両を降りると、ボルカ二等傭兵は泥に足を突っ込んで、新品のブーツは茶色に染まった。基地はたばこと油の臭いとエンジン音を立てて煙を吐き出しながら、一つの機能に向かって駆動していた。帰還した兵士は、負傷していれば医療テントで軍医の手術を受け、戦闘可能であれば次の戦闘に備えて食事と睡眠を取り、戦況の変化は頭脳である指揮官に集約されて作戦を練り直させ、命令となって兵士を戦場へ送り返していた。ゴブリンがせわしなく行きかい、数少ない人間がその丸まった背中をまたぐようにして横切るのだった。眠気はすっかり飛んだ。戦場に来たのだと少年たちは思った。彼はポーチを軽く叩いて装具を確認した、小銃、手榴弾二個、ナイフ、水筒は半分、携行糧食はまだ封が切られていない。初出撃にありがちな過剰な装備であったが、手は小刻みに震えていた。
伍長が点呼をして整列を呼びかけると、彼は誰よりも素早く列について背筋を伸ばした。
「ピーマン共がおいでなすったぜ」どこからか声が聞こえた。
兵舎の外壁に同化していた四十歳ほどの人間兵士が数人、ギラギラした目で傭兵の列を眺め、意地悪い笑みを浮かべていた。少年たちは、被差別者が最も差別的な場所で生きていくために心得ているある手段を講じた。つまり、目を伏せ、ことが過ぎるのを待った。
「誰だ、誰が言った!」ボルカは列を出た。「ノッポの野郎、もう一度言ってみろ!」
男たちは顔を見合わせると吹き出した。「ああ、俺だが」彼の二倍はある男が小銃を両手に持ったままゆっくりと立ち上がった。他の数人も男に合わせて立ち上がった。男はたばこを吸うと、煙を彼に吹きかけた。
「この野郎――」
彼が言いかけた時、伍長がもめごとに気づいた。「列に戻れ! 到着早々問題を起こす気か」
「しかしこいつが俺たちを侮辱したんです!」ボルカは伍長を見上げた。
「本当か」伍長は他のゴブリンの方を向いた。
誰もが下を向いたまま何も言わなかったが、少し経つと一人が「ええ、本当です」と言った。ボルカは素早く伍長に向き直った。
「お前も、自分の仕事をしたらどうなんだ」
「了解しました」男は例の意地悪い笑みを浮かべたまま、再び壁に消えた。
「これで満足か」
「それだけですか、罰して下さい。あの野郎は――」そう言って彼は黙っている隊を見つけると、押し黙った。誰も彼を助勢しなかったし、そのそぶりを見せなかった。隊の少年たちは、彼を非難したり睨んだりしていなかったが、そこにはこれから世話になる上官を不機嫌にしたこととゴブリンの印象を悪くしたことを咎める圧力があった。これ以上何かを言うと、戦場で仲間に見殺しにされるかもしれない、と彼は伍長に従った。
車両不足につき前線へは徒歩で向かうことになった。前に仲間の背中、後ろに疲れた顔、左右にどこまでも続く代わり映えのしない荒野を眺めながら、しかし砲声だけが着実に少しずつ大きくなり、地面が震え始め、戦場が近づいていることを彼らは悟り始めていた。重装で何十キロも歩いてきた彼らは言葉一つ話さなかったが、前線が近づくにつれ口数が増えていった。彼らは、どれだけの敵兵を倒すつもりか、自分の方がより良い作戦を考えられる、勲章をいくつもらうつもりか、といったことを競い合うようにして語り合っていた。みんなが笑っていた。注意されると黙ったが、しばらくするとまた笑いが漏れた。
しかし、前線に到着して、骨を震えるほど砲声が大きくなった時には、誰も会話をしていなかった。前線勤務を終えた仲間に「エルフによろしく」と言われたが、誰も何も応えなかった。有刺鉄線や爆弾を持って塹壕へ入って行くと、土の臭いに混じって、チーズのような臭いがした。初めは不思議であったが、担架で運ばれる負傷兵とすれ違うと、誰もがそのわけを理解した。それは「無人地帯」で横たわっていて、膨張しながら、無数の蝿を集め、鼠を肥え太らせていた。
塹壕は、機関銃や手榴弾で一斉に制圧されないようジグザグに掘られていて、後ろには侵入を防ぐ補助壕が層をなして配置されていた。内部は常にぬかるんでいて、多くの兵士が泥に足を滑らせた。塹壕は後方からの攻撃に弱いため、敵に回り込まないように、北はシルヴァナール海峡、南は中立国フォルデラまで、開戦から二か月で八百キロメートルもの長さにあっという間に伸びていった。
彼らはそれぞれの塹壕へ送られ、欠員の補給として投入された。新兵二人は「骨鳴り通り」での監視に回され、ボルカは待機となった。待避所には土嚢のベッドがあり、みなそこで休憩をしていた。彼の隣では、頭の大きな男がポケットから親指ほどの聖像を取り出して、自分の唇でほとんど隠れてしまうくらい小さなその聖像に慎重にキスをして眠りについたところだった。髭を剃っている者もいた。彼は泥だらけの塹壕では場違いなくらい清潔で、「死に顔が汚いとみっともないからな」と笑った。分隊長を除いてこの隊で唯一の人間は、隅で体を折り曲げて寝ていた。
炊事兵が仕事を運んできた。豆と油と鉄の混じったにおいが立ち上り、どこからかため息が漏れた。彼は前線で初めての仕事にとりかかった。まずは豆のスープを飲んだ。豆はほんのり甘いが、舌に残る独特の青臭さがあった。火を使えないこの場では、スープは体をさらに冷やした。パンは妙に酸っぱく、あっという間に口の中でぼそぼそと崩れた。
「エルフの新兵器だ」ポーカーをしていた男が言った。
「その……戦況はどうなんです?」ボルカは歯に挟まった豆の皮をほじくりながら先輩らを見回した。
「最悪だ。一向に良くならねぇ」
「そんな……」
「ああ、たばこ二十本も取られちまってな」
「え、違いますよ。この戦争ですよ」
「戦争……? ハッ……そうだったな。ラル、こいつが戦争の話をしたいんだとよ」
「状況は、悪くはないが、良くもない。前線は前進と後退と停滞を繰り返している。塹壕ができた当初と比べれば五キロ程後退しているが、来月にはそれだけ前進していないとも言えない」
「だとさ」
この時、近くに着弾したらしく、地震のように、塹壕が崩壊しそうなほどに揺れた。
「何してんですか、油売ってないでさっさと戦いましょうよ!」ボルカは立ち上がった。
「静かにしろ、待機命令だ。無駄死にしたいのか」
ボルカは静かになると寝床についた。隣では、鼠が寝袋でパンをかじっていた。
「この野郎!」
「うるせぇ、今考えてるんだ!」
ボルカはすっかりやることをなくしてしまった。腹が膨れて眠くなった彼は、目を閉じた。
同じ頃、別の塹壕の潜望鏡には敵兵の前進が映っていた。
「さあ出ろ、新人共! もたもたしてると蹴り飛ばすぞ!」
次の更新予定
2026年1月20日 18:00
戦争にはゴブリンを ケンシロウ @kenshirow
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