正義の残像
@raputarou
正義の残像
第一章 灰色の朝
雨が降っていた。いつも雨だ。この街では。
私——桜井ミノルは、濡れた歩道を歩きながら、そんなことを考えていた。四十二歳。かつては検察官だった。今は、ただの無職。いや、正確には「元検察官」という肩書きを持つ、社会不適合者だ。
三年前、私は正義を信じていた。法を信じ、システムを信じ、自分の仕事を誇りに思っていた。だが、ある事件がすべてを変えた。
「桜井先生、お久しぶりです」
声をかけてきたのは、古い友人——弁護士の高橋ケンジだった。五十代、白髪混じりの髪に、疲れた目をした男。
「高橋か。久しぶりだな」
「コーヒーでも、どうですか」
私たちは、近くの喫茶店に入った。古びた店だが、静かで落ち着く。この街で数少ない、まだ人間らしさが残っている場所だ。
「実は、相談があって」高橋が切り出した。「あなたの力を借りたい」
「俺はもう、検察官じゃない」
「分かっています。でも、あなたにしか頼めないんです」
高橋は、一枚の写真を取り出した。そこには、若い男性が写っていた。二十代後半、真面目そうな顔つき。
「彼は、田中ショウタ。私の依頼人です」
「何の容疑だ?」
「殺人罪」
私は、眉をひそめた。
「彼は、国会議員の秘書でした。議員の汚職を告発しようとしたところ、逆に殺人の濡れ衣を着せられたんです」
「国会議員......誰だ?」
「西村タダオ。与党の重鎮です」
その名前を聞いて、私の心臓が跳ね上がった。西村タダオ——三年前の事件に関わった人物だ。
「詳しく聞かせてくれ」
高橋は、事件の概要を説明した。
田中ショウタは、西村議員の秘書として働いていた。だが、ある日、議員が大手建設会社から違法献金を受け取っている証拠を発見した。田中は、それを検察に告発しようとした。
だが、その直前——田中のアパートで、一人の女性の死体が発見された。西村議員の愛人だった女性だ。
状況証拠は、田中に不利だった。アパートには田中の指紋があり、凶器のナイフも彼のものだった。
「これは、嵌められたんです」高橋が力説した。「西村が、田中を黙らせるために仕組んだんです」
「証拠は?」
「それが......ないんです」
高橋の表情が、暗くなった。
「だから、あなたに調べてほしい。真実を見つけてほしい」
私は、しばらく考えた。
西村タダオ——あの男と、また対峙することになるのか。
三年前、私は西村の汚職事件を追っていた。だが、上からの圧力で捜査は打ち切られた。私は抗議したが、聞き入れられなかった。そして、私は検察を辞めた。
あれから三年。西村は、さらに権力を増していた。
「分かった」私は答えた。「引き受けよう」
高橋の顔に、安堵の色が浮かんだ。
「ありがとうございます」
その夜、私は田中ショウタに会うため、拘置所を訪れた。
面会室に現れた田中は、痩せ細り、目の下にクマができていた。
「桜井さん......ですか」田中が、弱々しく言った。
「ああ。高橋から話は聞いた。お前は、無実なんだな」
「はい......信じてもらえないかもしれませんが」
「信じる。だが、証拠がなければ、お前を救えない」
私は、真っ直ぐ田中を見た。
「すべてを話してくれ。西村の汚職について」
田中は、ゆっくりと話し始めた。
西村タダオは、国土交通委員会の委員長として、公共事業の予算配分に大きな影響力を持っていた。そして、その権力を利用して、特定の建設会社——「東邦建設」から献金を受け取っていた。
総額、三億円。
その見返りに、西村は東邦建設に有利な入札情報を流し、巨額の公共事業を受注させていた。
「証拠の書類は、どこにある?」
「私のアパートに隠していました。でも......」
田中の顔が、蒼白になった。
「逮捕された時、部屋を捜索されました。書類は、消えていました」
「誰かが、持ち去ったのか」
「おそらく、西村の手下でしょう」
私は、拳を握りしめた。
やはり、西村は証拠隠滅を図っている。
「もう一つ、聞きたい。殺された女性——西村の愛人について」
「彼女の名前は、佐々木アヤコ。三十代の女性でした」
田中が続けた。
「実は、彼女も西村の汚職を知っていたんです。そして、私と同じように、告発しようとしていた」
「それで、殺されたのか」
「おそらく」
私は、事件の全体像が見えてきた。
西村は、自分の汚職を暴こうとする者を、次々と排除している。佐々木を殺し、田中に罪を着せた。
完璧な犯罪——のように見える。
だが、必ず綻びがあるはずだ。
「分かった。必ず、真実を明らかにする」
私は、田中に約束した。
拘置所を出た後、私は一人で考えた。
どうやって、西村の罪を証明するか。
証拠は消され、証人は殺された。
だが、諦めるわけにはいかない。
その時、携帯が鳴った。
非通知番号からだった。
「もしもし?」
『桜井ミノルか』
低い、変質された声だった。
「誰だ?」
『田中の件から、手を引け。さもなくば、お前も佐々木のようになる』
電話は、切れた。
私は、携帯を握りしめた。
脅迫——
ということは、私は正しい道を進んでいる。
西村は、焦っている。
私は、微笑んだ。
そして、次の一手を考え始めた。
だが、その時——
背後から、誰かが私を襲ってきた。
第二章 権力という名の暴力
鈍い痛みが、頭を貫いた。
私は、地面に倒れた。視界が、霞む。
だが、意識を失う前に、襲撃者の顔を見た。
黒いスーツ、サングラス——明らかに、プロだ。
「これ以上、詮索するな」
男は、低い声で言った。
そして、去って行った。
私は、しばらく地面に倒れたままだった。通行人が何人か通りかかったが、誰も助けようとしなかった。この街では、よくあることだ。見て見ぬふりをする。関わりたくない。自分の身が大事だ。
ようやく起き上がり、私はアパートに戻った。鏡を見ると、頭から血が流れていた。だが、大したことはない。こんな傷、慣れている。
シャワーを浴び、傷を手当てした。そして、ベッドに横になった。
天井を見つめながら、私は考えた。
西村は、本気だ。私を消すつもりでいる。
だが、それは逆に言えば——私が真実に近づいている証拠だ。
翌朝、私は高橋に連絡を取った。
「昨夜、襲われた」
『何!? 大丈夫ですか!?』
「ああ。だが、西村は本気だ。我々も、本気で戦わなければならない」
『どうしますか?』
「まず、佐々木アヤコについて調べる。彼女が何を知っていたのか」
私は、佐々木の身辺調査を始めた。
彼女は、西村の秘書だった。いや、正確には「愛人兼秘書」だ。西村の私生活を支え、裏の仕事も手伝っていた。
だが、ある時から、彼女は西村に疑問を持ち始めた。違法献金、不正入札、そして——もっと暗い秘密。
私は、佐々木の友人——水野サキという女性に話を聞くことができた。
「アヤコは、最後の方、怯えていました」水野が言った。「西村に殺されるって」
「なぜ、そう思ったんですか?」
「西村は、アヤコに口止めをしていました。もし喋ったら、家族を殺すと」
水野の目に、涙が浮かんだ。
「でも、アヤコは正義感が強い人でした。黙っていられなかった」
「それで、告発しようとした」
「はい。でも......」
水野は、言葉に詰まった。
「殺されてしまった」
私は、水野の手を握った。
「必ず、犯人を捕まえます。アヤコさんの無念を晴らします」
水野は、弱々しく微笑んだ。
「お願いします」
その後、私は東邦建設の内部事情を調べ始めた。
だが、すぐに壁にぶつかった。東邦建設は、完璧に口を閉ざしていた。社員は誰も話そうとしない。
権力に逆らえば、どうなるか——みんな知っている。
だが、私は諦めなかった。
そして、ついに一人の内部告発者を見つけた。
東邦建設の元社員——吉田タカシだった。
吉田は、五十代の疲れた男だった。会うなり、彼は言った。
「私は、もう失うものがない。だから、話します」
吉田は、東邦建設と西村の癒着について、詳しく証言した。
献金の方法、不正入札の手口、そして——賄賂の受け渡しの場所。
「証拠は、ありますか?」
「あります」
吉田は、USBメモリを取り出した。
「これに、すべての記録があります。献金リスト、入札情報、西村とのやり取りの録音——」
私は、USBを受け取った。
これで、西村を追い詰められる。
だが、吉田は暗い顔で続けた。
「ですが、気をつけてください。西村は、権力者です。彼を敵に回せば......」
「分かっている」
私は、吉田の心配を理解した。
だが、私にはもう、引き返せない。
その夜、私はUSBの中身を確認した。
そこには、吉田が言った通り、すべての証拠があった。
西村タダオと東邦建設の癒着——
三億円の違法献金。
数十件の不正入札。
そして、驚くべきことに——他の政治家たちの名前も記されていた。
これは、西村だけの問題ではない。
政財界全体に広がる、巨大な汚職ネットワークだ。
私は、深いため息をついた。
これは、想像以上に大きな問題だ。
だが、だからこそ、暴かなければならない。
翌日、私は高橋に会い、証拠を見せた。
高橋は、USBの内容を見て、顔色を変えた。
「これは......すごい」
「ああ。これで、田中を救える。そして、西村を法廷に引きずり出せる」
だが、高橋は不安そうだった。
「桜井さん、これは危険すぎます。西村だけでなく、多くの権力者を敵に回すことになる」
「分かっている」
「本当に、やりますか?」
私は、高橋を真っ直ぐ見た。
「やる。これが、俺の正義だ」
高橋は、しばらく黙っていた。
そして、深く頷いた。
「分かりました。私も、協力します」
私たちは、検察に証拠を提出する準備を始めた。
だが、その夜——
私のアパートに、再び襲撃者が現れた。
今度は、一人ではない。三人だ。
「桜井ミノル、最後の警告だ。証拠を渡せ」
男たちが、拳銃を構えた。
私は、冷静に答えた。
「断る」
「では、死ね」
男が、引き金を引こうとした。
だが、その瞬間——
ドアが蹴破られ、警察官たちが突入してきた。
「動くな! 警察だ!」
男たちは、拘束された。
私は、安堵の息を吐いた。
警察官の中から、一人の女性が現れた。
「桜井さん、大丈夫ですか?」
彼女は、警視庁捜査一課の刑事——中村アキコだった。
三十代、鋭い目をした、優秀な刑事だ。
「中村刑事......なぜ、ここに?」
「高橋弁護士から連絡を受けました。あなたが危険だと」
中村は、微笑んだ。
「そして、私も西村を追っています」
「君が?」
「はい。佐々木アヤコ殺人事件——私が担当しています」
中村は、真剣な顔になった。
「田中ショウタは、無実です。私も、そう確信しています」
「では、一緒に戦ってくれるか?」
「もちろんです」
こうして、私たちのチームが結成された。
元検察官の私、弁護士の高橋、そして刑事の中村。
三人で、巨大な権力に立ち向かう。
だが、その時、私の携帯が鳴った。
高橋からだった。
『桜井さん、大変です! 吉田タカシが......死にました!』
「何!?」
『自殺......ということになっています。でも、明らかに他殺です!』
私は、拳を握りしめた。
西村は、証人を消し始めた。
次は、誰が狙われるのか——
第三章 真実という名の刃
吉田タカシの死体は、自宅マンションの浴室で発見された。
手首が切られ、浴槽には血が溜まっていた。
警察は「自殺」と断定した。だが、中村刑事が現場を調べると、不審な点が見つかった。
「手首の切り傷が、不自然です」中村が説明した。「自殺なら、もっと浅く、ためらい傷があるはず。でも、吉田の傷は一撃で深く切られている」
「他殺、か」
「間違いありません。ですが、上層部は自殺で処理しろと命令しています」
中村の目に、怒りがあった。
「西村の圧力ですね」
「おそらく」
私は、窓の外を見た。
灰色の空。相変わらず、雨が降っている。
この街は、いつも雨だ。汚れを洗い流すように。だが、どんなに雨が降っても、この街の汚れは消えない。
「我々には、まだUSBの証拠がある」私は言った。「吉田の死を、無駄にしてはいけない」
「はい」
その日の午後、私たちは検察庁を訪れた。
だが——
「申し訳ありませんが、この証拠では起訴できません」
担当検事——岡田ヒロシは、冷たく断った。
「なぜだ!」私は、机を叩いた。「十分な証拠があるじゃないか!」
「証拠の出所が不明です。そして、提供者の吉田タカシは死亡している。法廷で証言できません」
岡田は、事務的に答えた。
「さらに、西村議員は有力な政治家です。こちらも慎重にならざるを得ません」
「慎重? 臆病の間違いだろう!」
「桜井さん」岡田が、私を睨んだ。「あなたは、もう検察官ではありません。立場をわきまえてください」
私は、言葉に詰まった。
そうだ。私は、もう検察官ではない。
ただの、無職の男だ。
権力もない。地位もない。
だが——
「俺には、まだ正義がある」
私は、岡田を真っ直ぐ見た。
「お前たちが動かないなら、俺が動く」
岡田は、何も言わなかった。
ただ、冷たい目で私を見ていた。
検察庁を出た後、高橋が言った。
「どうしますか? 検察が動かなければ......」
「メディアだ」
私は、答えた。
「証拠を、マスコミに公開する」
「ですが、それは......」
「危険なのは分かっている。だが、他に方法がない」
中村も、頷いた。
「私も、賛成です。真実を、国民に知らせるべきです」
私たちは、信頼できるジャーナリスト——新聞記者の前田ユカリに接触した。
前田は、四十代の女性で、社会問題を追い続けてきた記者だった。
「これは......すごいスクープですね」
前田は、USBの内容を見て、目を輝かせた。
「西村タダオだけでなく、多くの政治家が関わっている。これが公になれば、政界が揺れる」
「掲載してくれますか?」
「もちろんです」
前田は、力強く頷いた。
「ですが、一つだけ。私の上司——編集長が許可するかどうか」
「説得してください」
「やってみます」
翌日、前田から連絡があった。
『編集長が、掲載を拒否しました』
「なぜだ!?」
『新聞社の大株主に、西村と関係の深い企業があるんです。政治的圧力がかかりました』
私は、絶望した。
検察もダメ、メディアもダメ——
どこを向いても、西村の影響力が及んでいる。
権力とは、こういうものか。
真実を握りつぶし、正義を踏みにじる。
だが、私は諦めなかった。
「ネットだ」
私は、決意した。
「ネットで、証拠を公開する」
「ですが、それは違法では......」中村が心配そうに言った。
「違法かもしれない。だが、これが最後の手段だ」
私は、匿名のブログを立ち上げた。
そして、USBの内容——西村タダオと東邦建設の癒着、三億円の違法献金、不正入札の証拠——を、すべて公開した。
翌朝、ブログは瞬く間に拡散された。
SNSで、何十万とシェアされた。
『これ、マジ!?』
『西村、終わったな』
『政治家は全員腐ってる』
コメントが、殺到した。
そして、主要メディアも、無視できなくなった。
テレビ、新聞、雑誌——
全てが、西村タダオの汚職疑惑を報道し始めた。
「やった......」
私は、安堵の涙を流した。
ついに、真実が明るみに出た。
だが、その夜——
私のアパートに、一人の男が訪ねてきた。
ドアを開けると、そこには——
西村タダオ本人が立っていた。
六十代、白髪の、威厳のある男。
だが、その目は、冷たく、狂気に満ちていた。
「桜井ミノル......君のおかげで、私の人生は終わった」
西村が、低い声で言った。
「だから、君の人生も、終わらせる」
西村は、拳銃を抜いた。
そして、私に向けた。
「さらばだ」
引き金が、引かれた。
銃声が、部屋に響いた。
第四章 正義の代償
痛みはなかった。
私は、目を開けた。
床には、血が流れていた。だが、私の血ではない。
西村タダオが、倒れていた。
そして、ドアの前には——
中村刑事が、拳銃を構えて立っていた。
「桜井さん、大丈夫ですか!?」
中村が、駆け寄ってきた。
「ああ......君が、撃ったのか?」
「はい。正当防衛です」
中村は、西村の拳銃を確認した。
西村は、まだ息があった。
「救急車を......」中村が、通報した。
だが、西村は弱々しく笑った。
「無駄だ......もう、終わりだ」
西村が、血を吐きながら言った。
「桜井......君は、正義のために戦った。だが、分かっているか? 正義には、代償が伴う」
「何が言いたい」
「君は、これから地獄を見る。権力と戦った者の末路を」
西村の目が、閉じた。
そして、動かなくなった。
救急車が到着したが、西村タダオは既に死亡していた。
翌日、マスコミは大騒ぎになった。
『西村タダオ議員、拳銃を持って元検察官を襲撃、射殺される』
『汚職疑惑の国会議員、最期の凶行』
ニュースは、連日この事件を報道した。
そして、検察も動き始めた。
西村の死後、次々と関係者が逮捕された。
東邦建設の社長、違法献金に関わった政治家たち——
巨大な汚職ネットワークが、崩壊していった。
そして、田中ショウタも、無罪となった。
証拠が揃い、彼が冤罪だったことが証明されたのだ。
「ありがとうございます、桜井さん」
田中が、涙を流しながら言った。
「あなたのおかげで、私は自由になれました」
「いや、俺は当然のことをしただけだ」
だが、私の心は晴れなかった。
西村の言葉が、頭から離れない。
「正義には、代償が伴う」
その意味を、私はすぐに知ることになった。
数週間後、私のもとに一通の手紙が届いた。
差出人は、検察庁だった。
開封すると、そこには——
『証拠の違法取得および守秘義務違反の容疑で、取り調べを行います』
私は、容疑者になっていた。
吉田から受け取ったUSBは、違法に取得されたものだった。
そして、それをネットで公開したことは、守秘義務違反に当たる。
法律上、私は犯罪者だった。
「これが......代償か」
私は、苦笑いした。
正義のために戦った。真実を明らかにした。
だが、その手段は、法に反していた。
皮肉なものだ。
元検察官が、法を破って正義を実現する。
取り調べの日、私は検察庁に出頭した。
担当検事は、岡田ヒロシだった。
「桜井さん、あなたは法を破りました」
岡田が、厳しい口調で言った。
「認めますか?」
「認める」
私は、正直に答えた。
「だが、後悔はしていない」
「後悔していない?」
「ああ。法を破ったことは認める。だが、それ以外に方法がなかった」
私は、岡田を見た。
「お前たちが動かなかったからだ」
岡田は、何も言わなかった。
ただ、複雑な表情をしていた。
「桜井さん」岡田が、ため息をついた。「あなたの気持ちは、分かります。だが、法治国家では、法を守らなければなりません」
「法を守って、正義が実現しないなら、その法は間違っている」
「それでも、法は法です」
私たちは、しばらく沈黙した。
やがて、岡田が言った。
「ですが、今回は起訴を見送ります」
「何?」
「西村タダオの汚職が明らかになり、多くの国民があなたを支持しています。ここであなたを起訴すれば、検察への不信感が高まる」
岡田は、苦い顔をした。
「政治的判断です」
私は、複雑な気持ちだった。
結局、法ではなく、政治で決まるのか。
「ありがとう」私は、皮肉を込めて言った。
岡田は、何も言わず、ただ頷いた。
検察庁を出た後、私は高橋と中村に会った。
「良かったですね、起訴されなくて」高橋が、安堵の表情で言った。
「ああ......だが、これで良かったのか」
私は、空を見上げた。
相変わらず、灰色の空。雨が降りそうだ。
「正義とは、何なのか。法とは、何のためにあるのか」
私の問いに、誰も答えなかった。
ただ、風が吹いていた。
その夜、私は一人で酒を飲んだ。
安いウイスキーを、ストレートで。
正義を実現した。だが、満たされない。
西村は死んだ。田中は救われた。汚職は暴かれた。
だが、私の中には、虚無感だけが残った。
「結局、俺は何をしたんだ」
私は、グラスを見つめた。
琥珀色の液体が、揺れている。
正義のために法を破った。目的は正しかったが、手段は間違っていた。
では、どうすればよかったのか。
法を守って、西村を野放しにすべきだったのか。
それとも——
答えは、出なかった。
翌朝、私は前田記者から連絡を受けた。
「桜井さん、インタビューを受けてくれませんか?」
「何の?」
「今回の事件について。国民は、あなたの言葉を聞きたがっています」
私は、少し迷った。
だが、引き受けた。
私の考えを、伝えたかった。
インタビューは、前田の事務所で行われた。
カメラの前に座り、私は質問に答えた。
「桜井さん、あなたは正義のために戦いました。どう思いますか?」
「正義......」私は、言葉を選んだ。「正義とは、難しいものです」
「難しい?」
「ああ。誰もが、自分の正義を持っている。だが、それが本当に正しいかは、分からない」
私は、続けた。
「西村タダオにも、彼なりの正義があったのかもしれない。国を豊かにする、経済を発展させる——そのために、多少の不正は必要悪だと考えていたのかもしれない」
「ですが、それは間違っています」
「そうだ。間違っている。だが、西村はそう思っていなかった」
私は、カメラを見た。
「人は、自分の信じる正義のために生きる。だが、その正義が他者を傷つけることもある。では、どうすればいいのか」
「法があります」前田が言った。
「法......」私は、苦笑いした。「法は、正義を保証しない。法は、ただのルールだ」
「では、何が正義を決めるんですか?」
私は、しばらく黙った。
そして、答えた。
「誰も決められない。だから、人は苦しむんだ」
インタビューは、そこで終わった。
放送された後、私のもとには賛否両論のメッセージが届いた。
『桜井さんは英雄だ』
『いや、法を破った犯罪者だ』
『正義とは何か、考えさせられた』
『結局、何が言いたいのか分からない』
様々な意見。
だが、それでいいと思った。
答えなど、ない。
人それぞれが、考えるべきだ。
数ヶ月後、私は新しい仕事を始めた。
法律事務所のアドバイザーとして、冤罪被害者を支援する仕事だ。
給料は安いが、やりがいがある。
ある日、事務所に一人の若者が訪ねてきた。
「桜井さんですか?」
「ああ」
「僕、あなたに憧れて、法律家を目指すことにしました」
若者の目は、希望に輝いていた。
「正義のために、戦いたいんです」
私は、少し微笑んだ。
「正義か......難しい道だぞ」
「分かっています。でも、やりたいんです」
私は、若者の肩に手を置いた。
「なら、一つだけアドバイスする」
「何ですか?」
「正義を追い求めるな。ただ、目の前の人を助けろ」
若者は、少し戸惑った顔をした。
「正義という大きな概念は、人を迷わせる。だが、目の前で苦しんでいる人を助けることは、シンプルだ」
「そうですか......」
「そして、その積み重ねが、もしかしたら正義と呼ばれるものになるかもしれない」
私は、窓の外を見た。
今日は、珍しく晴れていた。
灰色の空ではなく、青い空。
「だが、保証はない。正義など、幻かもしれない」
若者は、真剣な顔で頷いた。
「分かりました。それでも、頑張ります」
「なら、応援する」
若者が去った後、私は一人でコーヒーを飲んだ。
苦いコーヒー。だが、悪くない。
人生も、こんなものだ。
苦いが、悪くない。
第五章 正義の残像
それから一年が経った。
私は、相変わらず法律事務所で働いている。
冤罪被害者を支援し、弱者の味方として生きている。
給料は安いが、心は満たされている。
ある日、高橋弁護士が訪ねてきた。
「桜井さん、久しぶりですね」
「ああ。元気そうだな」
「おかげさまで。実は、報告があって」
高橋は、嬉しそうに言った。
「田中ショウタが、国会議員に立候補するそうです」
「本当か?」
「はい。彼は、政治の腐敗と戦いたいと言っています」
私は、微笑んだ。
「そうか。良いことだ」
「あなたのおかげですよ」
「いや、田中自身の決断だ」
その夜、田中から電話があった。
「桜井さん、お久しぶりです」
「ああ。立候補、本当か?」
「はい。あなたに救われて、考えたんです。自分も、誰かを救いたいって」
田中の声には、力があった。
「政治家になって、腐敗と戦います。二度と、西村のような人間を生まないために」
「頑張れ」
「はい。必ず、当選します」
電話を切った後、私は窓の外を見た。
夜の街。ネオンが輝いている。
この街も、少しずつ変わっていくのかもしれない。
田中のような人間が増えれば。
だが、私は楽観していなかった。
権力は、人を変える。
田中が、本当に清廉を保てるかは分からない。
人間は、弱い。
誘惑に負け、妥協し、やがて腐敗していく。
それが、人間の本質だ。
だが——
それでも、戦い続けなければならない。
完璧な正義など存在しない。
完璧な人間も存在しない。
だが、少しでも良い社会を目指して、努力し続ける。
それが、人間にできる唯一のことだ。
数ヶ月後、選挙が行われた。
田中ショウタは、見事に当選した。
最年少の国会議員として。
「桜井さん、見ましたか!?」高橋が、興奮して電話してきた。
「ああ、見た。良かったな」
「これで、政治が変わります!」
「そうだといいな」
私は、冷静だった。
一人の議員が当選したくらいでは、何も変わらない。
だが、それでも——
小さな希望だ。
その夜、私は中村刑事と久しぶりに会った。
「桜井さん、お疲れ様です」
「中村刑事も。最近、どうだ?」
「相変わらず、忙しいです。でも、やりがいがあります」
中村は、微笑んだ。
「あの事件以来、私も変わりました」
「どう変わった?」
「正義について、深く考えるようになりました」
中村は、グラスを見つめた。
「警察官として、法を守ることが正義だと思っていました。でも、あなたを見て、気づいたんです」
「何に?」
「法を守ることと、正義を実現することは、必ずしも一致しないって」
中村の目には、迷いがあった。
「では、私たちは何を基準に生きればいいのか」
私は、少し考えてから答えた。
「自分の良心だ」
「良心......」
「法も、正義も、完璧じゃない。だから、最後は自分の良心に従うしかない」
「ですが、それでは主観的すぎます」
「そうだ。主観的だ。だが、他に方法はない」
私は、中村を見た。
「人は、最後は孤独だ。誰も、答えをくれない。自分で決めるしかない」
中村は、深く頷いた。
「分かりました」
私たちは、しばらく沈黙の中で酒を飲んだ。
そして、中村が言った。
「桜井さん、あなたは後悔していますか?」
「何を?」
「西村を追い詰めたこと。彼は、死にました」
私は、グラスを見つめた。
「後悔......」
正直に言えば、分からなかった。
西村は死んだ。私の手で——間接的にだが。
彼にも、家族がいただろう。友人がいただろう。
その人たちは、悲しんだはずだ。
「後悔しているかもしれない」私は答えた。「だが、やり直せても、同じことをするだろう」
「なぜですか?」
「それが、俺の選んだ道だからだ」
私は、中村を見た。
「人は、自分の選択の結果を背負って生きる。後悔しても、逃げられない」
「重いですね」
「ああ。だが、それが人生だ」
その夜、私は一人で帰路についた。
雨が降り始めた。
やはり、この街は雨が多い。
傘も差さず、私は歩いた。
雨に打たれながら、私は考えた。
正義とは、何だったのか。
西村を倒して、世の中は変わったのか。
答えは、ノーだ。
世の中は、そう簡単には変わらない。
汚職は、まだ存在する。
格差は、まだ広がっている。
弱者は、まだ苦しんでいる。
だが——
それでも、私は戦った。
それでも、田中は立ち上がった。
それでも、若者たちは希望を持った。
小さな変化。
微かな光。
それが、私たちにできることだ。
家に着き、シャワーを浴びた。
鏡に映る自分を見た。
四十三歳。白髪が増えた。顔には、皺が刻まれている。
だが、目は——
まだ、生きている。
まだ、戦える。
私は、鏡に向かって呟いた。
「正義など、幻かもしれない」
「だが、それを追い求めることは、幻じゃない」
「俺は、これからも追い求める」
「正義の残像を」
翌朝、事務所に行くと、新しい依頼者が待っていた。
「桜井さんですか? 助けてください」
若い女性だった。涙を流している。
「何があったんですか?」
「夫が、冤罪で逮捕されました」
私は、椅子に座り、彼女の話を聞いた。
また、新しい戦いが始まる。
正義のために。
いや、違う。
目の前で苦しんでいる人のために。
それが、私の選んだ道だ。
正義という言葉は、曖昧で、不確かで、時に人を惑わせる。
だが、目の前の苦しみは、確かだ。
その苦しみを、少しでも和らげること。
それが、私にできることだ。
窓の外では、また雨が降り始めた。
灰色の空、冷たい雨。
だが、いつか——
この雨も止むだろう。
そして、青空が見えるだろう。
その日まで、私は戦い続ける。
正義の残像を追いかけて。
完璧な正義など、存在しない。
だが、それでも——
人は、正義を求める。
それが、人間だ。
弱く、愚かで、矛盾に満ちた——
だが、それでも前に進もうとする。
それが、人間の美しさだ。
私は、依頼者に向かって言った。
「分かりました。お手伝いします」
女性の顔に、希望の光が灯った。
「ありがとうございます!」
私は、微笑んだ。
そして、新しいファイルを開いた。
また、長い戦いが始まる。
だが、私は恐れない。
なぜなら——
私には、まだやるべきことがあるから。
正義を実現することではない。
ただ、目の前の人を助けること。
それが、私の使命だ。
雨は、降り続けている。
だが、私の心は——
少しだけ、晴れていた。
数年後、私は還暦を迎えた。
六十歳。だが、まだ現役だ。
事務所には、若い弁護士たちが増えた。
みんな、正義のために戦いたいと言ってやってくる。
私は、彼らに同じことを言う。
「正義を追い求めるな。目の前の人を助けろ」
そして、付け加える。
「だが、忘れるな。お前たちが助けた人々の総和が、もしかしたら正義と呼ばれるものになるかもしれない」
若者たちは、真剣な顔で頷く。
そして、それぞれの戦いに向かっていく。
私は、彼らの背中を見送る。
そして、思う。
未来は、彼らのものだ。
私の時代は、終わりつつある。
だが、それでいい。
世代は、交代する。
古いものは去り、新しいものが来る。
それが、自然の摂理だ。
ある日、田中ショウタが事務所を訪ねてきた。
今や、彼は与党の有力議員になっていた。
「桜井さん、お元気ですか?」
「ああ、何とかな」
「実は、相談があって」
田中は、真剣な顔で言った。
「政治改革法案を提出しようと思っています。企業献金の全面禁止、政治資金の透明化——」
「良いことだ」
「ですが、党内に反対が多くて」
田中の顔に、疲れが見えた。
「政治は、難しいです。理想通りにはいかない」
「当然だ」私は答えた。「政治は、妥協の産物だ」
「でも、それでは......」
「完璧を求めるな」私は、田中を見た。「少しでも前進すれば、それでいい」
田中は、しばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「分かりました。できる範囲で、頑張ります」
「それでいい」
田中が去った後、私は一人で考えた。
理想と現実——
その間で、人は苦しむ。
だが、それでも前に進まなければならない。
完璧な世界など、存在しない。
だが、少しでも良い世界を目指す。
その努力を、諦めてはいけない。
夜、私は久しぶりに西村タダオのことを思い出した。
彼は、悪人だったのか。
確かに、汚職を犯した。人を殺した。
だが、彼にも正義があったのかもしれない。
歪んだ正義。間違った正義。
だが、彼なりの信念。
「結局、誰が正しかったのか」
私は、呟いた。
答えは、出ない。
おそらく、永遠に出ない。
だが、それでいい。
答えのない問いを、問い続けること。
それが、人間の証だ。
私は、ベッドに横になった。
目を閉じると、様々な顔が浮かんだ。
西村、田中、佐々木、吉田、高橋、中村——
そして、私が助けてきた、無数の人々。
みんな、それぞれの人生を生きている。
それぞれの正義を抱いて。
「正義の残像......」
私は、最後に呟いた。
そして、眠りについた。
夢の中で、私は青空を見た。
灰色ではない、青い空。
雨ではない、晴れた空。
いつか、この街にも——
そんな空が訪れるだろうか。
分からない。
だが、信じたい。
人間の可能性を。
未来の希望を。
そして——
正義の残像を。
正義の残像 @raputarou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます