三月九日

日夏

第1話 三月九日

有名な卒業ソングが耳に入ってきて、ふと私は足を止めた。

人が多く行き交うスクランブル交差点のその向かい側。

ビルの一番高いディスプレイに、大きく映し出されたアーティストは、Tシャツにジーパン姿で、客のいないステージでギター一本とマイク一本を頼りに歌っていた。


やけに地味に、私の目には映る。

けれど、懸命なその歌声と、その歌詞に、心打たれる人は多いのだろう。

日付が題名で印象的なその歌は、今の私に、言葉のひとつひとつが降りそそいで沁み込んでいく。


信号が、青に変わっても、その歌が終わるまで足を踏み出すことができなかった。



私の左手首には、真新しい腕時計がある。

文字盤が二つついている、少し珍しいタイプだ。

小さい文字盤が私のいる日本に、大きい文字盤が彼のいるイギリス、ロンドンに時間が合わせてある。

四年に一度巡ってくるうるう年は今年にはなくて、だから、正式な私の誕生日とは言えないけれど、昨日、二月の最終日、国際便で送られてきたのだ、私の誕生日プレゼントが。

時計の時間は、贈られてきたときからこの時間に合わせてあった。


一年ぶりの、彼からのプレゼントだった。


彼とは、家が向かい同士で、同い年。生まれたときから一緒にいた。

いわゆる幼馴染という間柄で、それが変わったのが、五年前。

中学卒業と同時、彼が私にくれたのは、初めての恋人と、初めての別れだった。

彼は、日本のジュニアスポーツ界では有名なテニスプレーヤーだった。

プロのテニスプレーヤーとして世界で活躍したいと、一人イギリスに留学していった。


去年の彼の誕生日、クリスマスプレゼント、そして今年のバレンタイン。

過ぎゆく日々の中で、一方通行の私の贈り物と手紙は、まるで私の心そのものみたいに思えた。


三日に一度のメールは週に一度となり、一ヶ月ごととなり…ついには前回からのメールは三ヵ月が経とうとしていたときだった。

時計とともに送られてきた手紙には、私への誕生日のお祝いの言葉と、今まで連絡ができなかったことへの謝罪と、彼の誕生日とクリスマスプレゼントのお礼と、大手の契約を結ぶことになった朗報と、それから、もう少しだけ待っていてほしいという願いが書かれていた。


もともと口数は少なくて、普段のメールだって短かかった。

そんな彼が、こんなにも綴ってくれた思いを大切にしたい。


自由奔放な兄からは、『時計なんて縛るものを贈ってきて』と不機嫌に呟かれたり、大学の友人からは、『合コンくらい付き合ってよ』と不満の声もあるけれど。

私の心は、それらの言葉には乱されない。


彼も、同じラインの時計を買ったという。

大きい文字盤を日本に、小さい文字盤をロンドンに。

たとえ住む場所は離れていても、お互いに同じ時を刻んでいるという実感をくれる。


好きだとか愛しているだとか言われたことはないけれど、手紙の最後に書かれていた言葉は、私にとってそれ以上のものだった。


片時も忘れずに想う、だって。


私はなんて幸せなのだろうか―――――。



流れる卒業ソングは、別れのものではなくて、これからの未来をつなぐ歌で、同調する私の胸の内に、温かいものが広がっていく。


曲が終わると同時、私は一歩を踏み出す。


ビルとビルの隙間からは、温かな日が差している。

沈んでいくより手前の、昼間の太陽と夕方の夕日の間の色をしている。

澄んだ青空に薄紫とオレンジのコントラストが綺麗にかかって、視界が涙でぼやける中、優しく私を包んでくれる。


歩きながら、左手首を耳元に近づけてみる。

喧騒の中、しっかりと、今彼がいるあの場所で、時を刻む音が、優しく耳に届く。


規則正しく、やむことなく。


ねぇ、君にも、届いていますか?

今、私がいるこの場所で、時を刻んでいる音が、届いていますか?

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三月九日 日夏 @hinatsu_novel

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