差し出された手を、私は噛んだ

あおがね瑠璃

差し出された手を、私は噛んだ


上下の顎を貫く冷徹な剣の感触よりも、

フェンリルの意識を苛んでいたのは、

数千年も前に飲み干したはずの、

あの男の右腕の熱だった。


岩塊「ギョッル」に縛り付けられた肉体は、

すでに凍てつく風と一体化し、

痛みすら忘却の彼方にある。


だが、

記憶という名の檻だけは、

あの日、あの数分間の出来事を、

永遠に反芻し続けていた。


陽光を跳ね返すほどに細く、

しなやかな紐「グレイプニル」。


猫の足音、

女の髭、

山の根……。


この世にあり得ぬ断片から紡がれたというその呪物は、

巨狼の誇りを縛り上げるには、

あまりに滑稽で、

あまりに卑劣だった。


神々は笑っていた。

勝利を確信した卑小な者たちの歪んだ顔が、

今も意識の裏側に張り付いている。


その狂騒の中で、

ただ一人だけが静寂を纏っていた。


軍神、ティール。


「お前の力を試したいだけだ」という神々の嘘を、

フェンリルが信じていないことを、

その男だけは知っていた。


だからこそ男は、

自らの右腕を差し出したのだ。


フェンリルの巨大な顎の隙間、

その湿った喉元に。


あの日、

口の中に腕を受け入れた瞬間、

フェンリルは視線を、

男の瞳に固定した。


男の目の奥には、

何があったのか。


それは、

氷の海のように透き通った青だった。


だが、

あの瞬間、

その奥底には、

いくつもの層が重なっていた。


まず、

表面を覆っていたのは、

「義務」という名の静謐な幕だ。


法を司る守護者として、

暴れ狂う混沌を、

秩序の檻へ閉じ込めねばならないという、

鋼のように硬い意志。


もしそれだけだったなら、

フェンリルは怒りと共に、

ためらいなく、

その腕を食いちぎっていただろう。


男の瞳は、

さらにその奥へと、

フェンリルを誘った。


睫毛の、

わずかな震えの背後に、

「憐憫」によく似た何かが、

揺らめいていた。


それは、

「囚われる怪物」への同情などという、

安い感情ではない。


むしろ、

これから行われる卑劣な儀式に対して、

自分自身をも汚さねばならないという、

「自己への嫌悪」に近い、

光の色だった。


(私を噛め。

そして、

私を呪え)


声にならない男の瞳が、

そう叫んでいた気がする。


その瞳の奥を覗き込むたび、

フェンリルの意識は、

岩山の冷気を離れ、

遠い過去の庭へと漂い出す。


そこには、

まだ自分を縛る紐も、

口を貫く剣もなかった。


神々が、

フェンリルの巨大化を恐れ、

遠巻きに槍を構えていた頃。


ただ一人、

無防備に近づいてくる男がいた。


ティールだ。


男の手には、

血の滴る生肉ではなく、

時折、

山野の香りがする柔らかな木の実や、

ただの「触れるための掌」があった。


フェンリルは思い出す。


男の指先が、

自分の耳の裏の硬い毛を梳いたときの、

不器用な優しさを。


「お前は、

この場所には大きすぎるのかもしれないな」


そう呟いたティールの声には、

神としての威厳よりも、

友を案じるような、

静かな哀しみが混じっていた。


フェンリルは彼の膝に、

大きな頭を預け、

その脈動を聞いていた。


あの頃のティールの瞳には、

策略の曇りなど一つもなく、

ただ、

沈みゆく夕陽のように、

穏やかな慈しみだけが、

湛えられていたのだ。


だが、

あの拘束の瞬間、

その温かな記憶のすべては、

裏返った。


差し出された右腕は、

かつて自分を撫でたのと、

同じ手だった。


信頼の証として差し出された掌が、

今度は、

自分を永遠に繋ぎ止めるための、

「生贄」へと変貌していた。


フェンリルは、

思い出の中の穏やかな掌と、

喉の奥で噛みちぎった、

肉の感触を、

交互に反芻する。


かつての愛撫が、

深ければ深いほど、

裏切りの痛みは、

鋭利な刃となって、

魂を削った。


(お前は、

あのアスガルドの庭で、

私を撫でながら、

すでにこの結末を、

夢想していたのか?)


瞳の分析は、

再び、

混迷を極める。


慈しみすらも、

裏切りのための準備だったのか。


あるいは、

裏切らねばならない未来が、

あるからこそ男は、

せめて今の間だけと、

あんなにも優しく、

触れたのか。


そして、

フェンリルが最も深い場所、

瞳孔の最奥に、

澱んでいたもの。


それこそが、

数千年の孤独を耐えさせている、

唯一の毒液――

「悦び」であったのではないかと、

彼は疑い続けている。


己の半身を犠牲に捧げることで、

この巨大な怪物と、

一生涯消えない傷を共有し、

魂を分かち合う。


ティールの瞳は、

騙し討ちの罪悪感に苛まれながらも、

同時に、

血によってのみ結ばれる

「永遠の共犯者」に、

なれることを、

受け入れていたのではないか。


噛みしめる牙に、

力を込めたとき、

男の瞳は一瞬だけ、

大きく見開かれ、

そして、

安堵したように、

細められた。


あれは、

痛みのせいか。


それとも、

計画通りに事が運んだことへの、

満足か。


フェンリルは、

今や感覚の失せた、

己の舌の上で、

かつて味わった、

男の絶望と献身の、

混じり合う、

あの複雑な血の味を、

反芻する。


男の瞳が、

自分を映し出していた、

あの最後の輝きを。


もしあの時、

ティールが、

卑怯者のように、

目を逸らしていたなら。


自分は、

これほどまでに彼を愛し、

これほどまでに彼を、

殺したいとは、

願わなかったはずだ。


思考の檻は、

時間の概念を、

溶かしていく。


フェンリルにとって、

あの穏やかな日々も、

血塗られた裏切りの、

数分間も、

そして、

この数千年の孤独も。


すべては、

「ティール」という名の、

巨大な円環の中に、

閉じ込められた、

一瞬に過ぎなかった。


その時、

永遠に続くかと、

思われた静寂に、

亀裂が走った。


足元の岩塊が、

微かに、

だが確実に、

震えたのだ。


地の底から響く、

その律動は、

世界の終焉――

ラグナロクの到来を告げる、

鐘の音だ。


神々が恐れ続けたその時が、

いま、

皮肉にも、

フェンリルを、

この物理的な拘束から、

解き放とうとしている。


口を貫く剣が、

自らの血で錆び落ち、

鋼の紐が、

軋んで悲鳴を上げる。


肉体は、

再び自由を得るだろう。


山を砕き、

星を飲み込むほどの力が、

痺れた四肢に、

熱く戻ってくるのを、

感じる。


だが。


フェンリルは、

自由の咆哮を、

上げることはなかった。


どれほど肉体が、

自由になろうとも、

彼の魂を、

繋ぎ止めている、

あの「問い」が、

解けることはない。


数千年の思索を経て、

導き出された結論は、

「無」だった。


男の瞳の中にあったのは、

慈悲だったのか。


それとも、

すべてを計算し尽くした、

冷徹な策略だったのか。


あの時、

噛みちぎった腕から、

伝わった脈動は、

裏切りへの恐怖か。


それとも、

宿命を果たした、

安堵だったのか。


答えは、

もはや、

この世界のどこにも、

存在しない。


腕を失った男も、

それを噛みちぎった自分も、

終焉の炎の中で、

等しく、

灰へと還るだろう。


それでもフェンリルは、

崩れゆく世界の中で、

執拗に、

呪うように、

そして、

焦がれるように、

問い続ける。


なぜ、

お前はあの日、

目を逸らさなかったのか。


なぜ、

お前はあの日、

あんなにも、

温かい腕を、

差し出したのか。


空が裂け、

大地が飲み込まれていく、

混沌のただ中で、

巨狼は、

ただ一つの、

欠落した感覚を、

抱きしめる。


喉の奥にこびりついた、

鉄錆の味と、

男の視線の、

残像。


彼は、

歩き出す。


世界を滅ぼすためではない。


その炎の向こう側で、

自分を待っているはずの、

右腕のない男の瞳に、

もう一度だけ、

届くはずのない、

「なぜ」を、

投げかけるために。


たとえ、

来世が来ようとも、

宇宙が、

生まれ変わろうとも。


この「なぜ」という疼きだけは、

消えないだろう。


フェンリルは、

欠落という名の永遠を、

ただ、

静かに、

受け入れた。


(完)

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差し出された手を、私は噛んだ あおがね瑠璃 @aoganeruri

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