第26話

 常川が思わず口を開く。

「え、方波見――⁉」

 清水は彼女の名前を正しく呼ぶ。

「方波見紬⁉ あなた、なぜここに……⁉」

 方波見は微かに笑みを浮かべ、キャンバスをしっかりと抱えたまま、三人に歩み寄る。


「……あなたたち、誰?」

 方波見紬が、屋上の端で三人を見据える。声は柔らかいが、底知れぬ威圧感が伴っていた。


 常川は思わず後ずさる。

「な、なんだよ……突然……」

 蓮井は手元のバールを強く握りしめ、状況を整理しようとしていた。

 清水は冷静さを保とうとしながらも、わずかに緊張が混ざった口調で言う。

「方波見紬、聞いて? この世界は、あなたの……心の中かもしれない」

 方波見は小さく笑った。笑みの奥には、決意と静かな狂気が潜んでいる。

「心……? 違うわ。ここは、私の夢の中。私が支配する場所。あなたたちは、私の完璧な世界に紛れ込んだ異分子にすぎない……」

 方波見は静かに息を吐き、淡々と続ける。

「もっとも……”向こう”で、私のことをしつこく嗅ぎまわっている気配は感じていた。だから最後に、一度だけ会っておこうと思ったのは、確かだけれどね」

 三人は視線を交わす。背後の風が金属の柵を揺らし、冷たい夜気が肌を刺した。

 方波見はキャンバスを抱きしめ、視線を街の遠景に向ける。

「私は――あちらの世界の全てを滅ぼすことに決めたの。邪魔はさせない」

 その言葉が夜風に乗り、屋上の空気を凍らせる。

 常川が震える声で言った。

「なんだと⁉」

 蓮井も静かに呟く。

「……それは……どういう意味だ?」

 清水が一歩前に出て、ライトの光をキャンバスに当てながら慎重に声をかける。

「方波見紬……お願い、落ち着いて!」

 方波見はゆっくりと頭を傾け、街を見下ろしたまま言う。

「……落ち着く? どうして、私が落ち着かなきゃならないの? 私の世界は、私のルールで動く。あなたたちが関わる権利なんて、最初からないはずだわ」

 蓮井は、少し間を置いてから静かに言った。

「方波見……本当にそれが君の望みか? 本当にそんなことがしたいのか? 本当に――」

 方波見は蓮井を見据え、微笑んだ。

「ええ。やるべきなの。私の中に残されたもの全て……私の感情、痛み、記憶。これを、世界に刻みつけるためには、全てを一度消すしかない。……もう、決めたの。私の美しい終わりを邪魔する者は、排除するまでよ」

 三人は息を呑んで、方波見が抱えているキャンバスに目をやる。

 光が滲み出し、まるで何か巨大なものが潜んでいるかのような予感を漂わせていた。

 清水の声が少し震える。

「方波見紬……お願い、考え直して! 森君や東村さんたちが悲しむわよ!」

 方波見はその声を聞き、一瞬だけ視線を揺らした。

「森圭太、東村寧香、都築亜里沙――確かにあの人たちは、私に優しくしてくれた。……数少ない友達よ」

 方波見の声には、ほんのわずかに温もりが混じっていた。しかし次の瞬間には、冷たくも決然とした響きに戻る。

「でも――それでも、”世界”は、私のもの。誰にも邪魔はさせない!」

 常川は目を見開き、声を震わせながらも必死に食い下がる。

「やめろよ! 全てを壊すなんて……そんなの、許されないだろ!」

 屋上に吹き抜ける夜風が、三人の言葉と方波見の決意を絡め取り、空気を凍らせる。

 キャンバスの端がわずかに光を帯び、まるで何かが目覚める前の静寂を孕んでいた。

 蓮井は一歩前に出て、冷静に問いかける。

「なぜ、そんなに世界を壊したいんだ――?」

 方波見紬は肩越しにちらりと蓮井を見やり、軽く笑みを浮かべる。

「……あなたたちに、それを説明しなければならない道理はない」

「じゃあ代わりに、一つだけ教えてくれ……君が作り上げたこの世界は今、完全に現実世界と同期してしまっているんじゃないのか? そして、その状態で君はこれから、何らかの破壊活動を行う――そういう算段なんだろう?」

「ふふ……詳しいのね――その通りよ」

 その言葉には抗えない威圧感があり、屋上の冷たい風がその緊張をさらに増幅させる。

 常川は拳を握りしめ、思わず呟いた。

「……そんなこと言われたって、納得できるかよ……!」

 方波見はキャンバスを抱え直し、夜空を見上げる。その瞳には、静かに輝く決意と、どこか神秘的な美しさが同居していた。

 方波見が、ゆっくりと一歩前に出る。

 キャンバスの中の色彩が、微かに光を帯び、夜の闇に反射して揺れる。

「……さあ、時間よ。見せてあげる。美しいフィナーレを――」

 その瞬間、空気がざわめき、屋上の静けさが異様な緊張に変わった。

 方波見がキャンバスを掲げた瞬間、空気がひんやりと震える。

「――来なさい、《フェルニゲシュ》」

 方波見紬の声が夜空に吸い込まれた瞬間、屋上中の空気が振動した。

 キャンバスから溢れ出た強い光が屋上を包み込み、やがてその光は一筋の形を取り始める。

 そんな眩い光の筋が、夜空に向かって天を裂くように伸びていく。

 

 三人は目を見開き、言葉を失ったままその光景を見つめていた。

 常川が呟く。

「なんだよ……これ……」

 清水と蓮井も、唇を固く結び、視線は逸らせない。

 深い闇の中に、細やかな光の粒子がこぼれ落ちる。粉雪のように静かに降り注ぐそれらは、形を求めるかのように舞い、集い、結晶の破片となって宙を流れた。

 キィン、と氷の刃がかすかに触れ合うような音が響き、結晶の欠片が螺旋を描いて光の筋を覆うように空へと昇っていく。

 

 その中心から現れたのは、翡翠のように深く透き通る、結晶の鱗で覆われた”巨大な竜”だった――。

 

 翼を広げたその輪郭。全身を覆うのは、透きとおる結晶の鎧。宙に舞う光の粒子を反射して深青に煌めき、その姿はまるで天上から降りてきた彫像のようだった。

 翼は夜空に溶け込むように広がり、尾は流れる光の帯となって街をなぞる。

 竜はひとたび羽ばたくと、結晶の粒を散らしながら悠然と宙を舞い、屋上を見下ろした。

 その瞳は黄金で、光を内包しているかのように輝き、どこか懐かしい感情を揺さぶる。

 それは、かつて方波見が描いた竜そのものだった。しかし、今となってはもはや、紙の上の静止した姿ではない。

 竜はゆっくりと舞い上がり、校舎の上空でその姿を止める。

 翼のひとひらひとひらが風に揺れ、光の粒子と溶け合うたび、街全体が一瞬、絵画の中の幻想世界のように見えた。

 方波見は静かに微笑んだ。

「気に入ってもらえたかしら? これが、私の世界の守護者――《フェルニゲシュ》……美しいでしょう?」

 

 清水は目を大きく見開き、言葉を失う。

「……な、なんて……綺麗な……」

 竜の翼が広がるたび、結晶たちが煌めいて、屋上全体を深青に染めた。

 常川は身をすくめ、恐怖で体を震わせている。

「ま、まさか本当に……? 冗談じゃ済まねえだろこんなの……どうやって止めろってんだよ!」


 竜は低く唸ることもなく、ただ静かに空を漂い、まるで夜空の一部のように存在している。

 星屑のような炎を吐き、夜の闇を淡く照らすその姿は、方波見紬が願い続けた「終末」の象徴に他ならなかった。

 

 方波見は妖しげに微笑む。

「これが、私が見たかった『世界の終わり』。そして、あなたたちが見る最後の景色……」

 竜の翼が風を切るたび、屋上の影が揺らぎ、結晶には靄に包まれた街の姿が水面のように映り込む。

 三人はただ圧倒され、足を踏み出すことも忘れたまま、竜と方波見の存在に包まれていた。

 そして、竜はゆっくりと視線を三人に向ける――威圧でも怒りでもなく、ただ、方波見の意思を体現するかのように。

 その瞬間、彼らは理解した――。

 この竜は、召喚者である”方波見の心”そのもの――怒りであり、悲しみであり、そして「この世界にある全ての因果を断ち切る」という願いが込められているのだと。

 そんな、美しくも、壊れやすい夢の結晶――それが《フェルニゲシュ》だった。

「……さあ、どうする?」

 方波見の声が夜風に混ざり、これから世界を破壊する竜の存在とともに、静かに三人の胸に響く。


 清水は、ふいに木刀を地面に落とすと、竜を見上げながら静かに息を整えて言った。

「覚悟を決めるしかない。竜は私がなんとかするわ! 二人は“魔女”の方をお願い!」

 常川は思わず後ずさる。

「あんなデカいの相手に、どうするつもりなんだよ⁈」

 清水の表情は変わらず冷静だったが、声には覚悟が滲む。

「わからない……でもここからじゃ応援も呼べないし、一か八かやるしかないわ。ここが”彼女の心の中”だと信じて、祈ったら叶うと信じて――賭けに出るしかない!」

 蓮井と常川は互いに視線を交わす。背筋が凍るような緊張の中、三人の鼓動は夜風にかき消される。

 清水の言葉を引き継ぐように、蓮井が言う。

「確かに、ここなら現実ではありえない力だって届くかもしれない。試してみる価値はある。やれるか? 清水」

 清水は、口元に笑みを浮かべて答える。

「任せて。私だって、ボランティア部の端くれよ」

 その間、方波見紬は静かに、じっと三人を見下ろしていた。その瞳に微かな揺らぎがあるのを、蓮井と常川は見逃さなかった――。

 竜の煌めきが頬を照らす一瞬――その瞳に、冷たい決意の奥に隠された影が揺らぐ。

 ほんの一瞬、寂しげな少女の面影が透けて見えた。

 常川が小さく息をつく。

「……くそ、やるしかねえな……」

 屋上に立つ三人は、今まさに夢か現か分からない世界の中で、運命の一歩を踏み出そうとしていた。

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