名前のない魔女は、祝福を受けられない

亞央軌イセ

前日譚1

前日譚1

 放課後の図書館は、静まり返っていた。

 私は次の作品の参考になりそうな資料を探して、美術書の棚を行き来する。

 色彩論の本や構図の本は見慣れているので、最近はどうにも手が伸びない。

 そんな中、ふと、ある背表紙に目が留まった。

 ――『世界の竜図鑑』。

 なぜか、この本が自分を呼んでいる気がしたのだ。

 何気なく手に取ってみる。

 厚い洋書仕立ての装丁。金箔で縁取られた文字が、ほの暗い照明の中でかすかに光っている。

 本を机に置いて開いた次の瞬間--ページの中から熱気が吹き抜けた。

 古今東西の竜たちが、絵とともに記録されている。東洋の蛇のような竜、西洋の翼を広げた竜。

 だがそのどれでもない、一枚の挿絵に視線が釘付けになった。

 名前は《フェルニゲシュ》――ハンガリーの民話に登場する龍と記述されている。

 黒い鱗を纏い、眼だけが金に燃えている竜。

 絵のはずなのに、向こう側から見返されているような気分にすらなる。

 瞬きをした次の刹那――図書館の天井が消えていた。

 吹き抜ける風の熱さに、思わず息を呑む。

 だがそれ以上に驚いたのは、目の前に竜が――《フェルニゲシュ》がいたことだった。

 まるで、ページの向こうから抜け出したかのような自然さで鎮座している。

 誰からも認識されない自分の前に、同じように世界から切り離されたかのような存在が立っていた。

 私の胸は、不意に熱を帯びる。

 憎しみも、恨みも、すべてを燃やしてしまいそうな炎に似た衝動――。

 それは「怖い」よりもむしろ「近づきたい」という気持ちに変わっていった。

(――あなたも、わたしと同じなの?)

 気づけば私の足は、勝手に竜へと近づいていく。

 その圧倒的な存在に呑み込まれるのではなく、むしろ惹かれるように。

 竜の吐く息が頬をかすめる。熱く、そして不思議なほどに心地よい。

 孤独と孤独が共鳴し合うように、私は竜から目が離せなくなっていた。

 

”……なぜ、ここにいるのだ――?”

 

 ――口を開いたのは竜の方だった。

 その声は低く、深く、しかしはっきりと心に響いた。

「……私、あなたのことが、気になって」

 私は自然と声を出していた。恐怖ではなく、好奇心に似た感覚。

 

”我、か。人の子よ……貴様の心は重いな”

 

 竜はゆっくりと頭を傾ける。鱗の間からかすかに煙のようなものが立ち上る。

 

”孤独で、誰も理解してくれず、世界から切り離されている……それが、今の貴様の感情だろう?”

 

「……そう」

 私は頷いた。胸の奥の熱がさらに膨らむ。

「でも、それはあなたも同じでしょう? 誰からも認められず、孤独で……」

 

”……左様”

 

 竜の瞳が細まった。

 

”確かに、我は孤独だ。だが、貴様と違うのは、何かに恐れをなすことなく、ただ「存在している」ということだ”

 

 その言葉に、不意に胸を突かれる。

 ――私は存在を消すことでしか、自分を守れていない。

「恐れずに……」

 言葉を反芻する。

 心の奥底で、私は気づいていた。

 ――あなたのように強くなりたい、と。

 フェルニゲシュはゆっくりと翼を広げた。

 

”ならば近づくがいい、人の子よ。我の存在に触れ、真の孤独を受け止めるのだ……そして、望むなら――『魔女』となるがいい”


「……『魔女』?」

 思わず口にした私の声には、熱と震えが入り混じっていた。


”そうだ。人の理を超え、孤独を力に変える者……それを、『魔女』と呼ぶ”


 その言葉は胸の奥に焼きつき、ゆっくりと沈んでいく。

 私は息を整えると、恐怖ではなく確かな引力に導かれるように、竜へと一歩を踏み出した。

 その一歩が、私と、周囲の”世界”を変える始まりだった。

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