終わりの始まり

御戸代天真

終わりの始まり

 世界が、終末を迎えた。

 

 かつて人類の傲慢を象徴するかのように見上げるほど高く聳えていたタワーマンションは、今や切り倒された大木のように根本から崩れ、人々の積み上げた虚栄と、その間に広がる計り知れない孤立を晒していた。

 安寧の象徴だったマイホームは、今や巨人に踏み潰されたようにペシャンコに潰れ、そこから漏れ出すのは、閉ざされたはずの個人の煩悶ばかりだった。

 病院も学校も見渡す建物全てが廃墟と化し、知性も慈悲も、とっくの昔に支払い期限を過ぎた請求書のように、ただそこに放置されていた。

 煌びやかに街を彩った車も、電池の切れた玩具のように朽ち果てていた。まるで、どこへも行けず、何からも逃れられない、現代人の思考そのもののように。

 自分の呼吸の音すら鮮明に聞こえるほど、世界は永遠の静寂に包まれていた。かつて視界を遮っていた無数の建造物がなくなり、ただ一人立ち尽くす僕の目には、地平線から上る朝日が眩しく刺さるほど、世界は無機質な灰色のキャンバスへと変貌していた。

 そこに、何かを創り出す希望など、微塵も感じられなかった。

 いや、僕に感じられなかったのは、、、、


「ああ、またダメだ」

 僕は、書き散らしていた原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てた。これは《終末》と題した自作の小説だ。無精髭を生やしたボサボサ髪の僕は、空き缶だらけの机の上から缶チューハイを手に取り、喉を焼くほどに煽った。苦い液体が意識を鈍らせる。書くことの虚しさ、体現できない苛つき、誰にも理解されない焦燥感が、濁水に浸る雑巾のように僕を侵食していた。



 

 きっかけは、ほんの些細なことだった。

 僕は、まるで何かに誘われるかのように、朽ちかけた看板が揺れる寂れた道の駅に車を滑り込ませた。薄暗い店内、埃をかぶった商品が並ぶ一角で、それはあった。『夢を叶える木』。その名前に、僕は思わず鼻で笑った。だが、花も咲かぬ多肉植物のような異様な姿の木は、周囲の薄汚れた空気とは対照的に、不気味なほど青々とした葉を茂らせていた。枝分かれした茎が、まるで生き物の血管のように脈打っているように見え、僕の乾ききった心に、言いようのない不穏な、だが抗いがたい魅力を訴えかけてきた。

『夢を叶える木』の値札には、九百八十円と書いてあった。 

 開いた財布には、使い古されて皺だらけになった千円札一枚が、まるで僕の人生の疲弊を映すかのようにくたびれていた。  

 うわぁと、僕は頭を抱えて悩んだ。永遠に抜けることのない疲労。まるで透明人間であるかのように扱われ、時に周囲から投げかけられる蔑みや憐れみの目、そして陰での嘲笑。そうした日々に僕は本当に辛く、鬱々と生きることに耐えかねていた。生きる意味も、希望も、とうの昔に失っていた。ただ、死ぬことへの微かな恐怖だけが、僕を現世に繋ぎ止めていた。悩んだ末に僕は、文字通り、底なし沼に沈む寸前の者が掴む藁にもすがる思いで、その『夢を叶える木』を買った。

 それから毎日、僕は『夢を叶える木』に語りかけた。「このどうしようもない苦しみから解放してくれ」「どうかこの日常を変えてくれ」と。それは叶うはずもない切実な願いであり、同時に、世界に対する無責任な呪詛でもあった。無意味な行為だと知りながらも、他にすることがなかった。


 ある深夜。僕はふらつきながら、重い足取りで仕事から帰った。もはや心身の疲労は限界を超え、感情の起伏すら失っていた。冷蔵庫に入れていた安物の酒を手に取り、内臓を壊す勢いで一気に飲み下した。ただ、思考を麻痺させたかった。

「もうなんなんだよ、なんで俺だけ、こんなに辛い思いしなきゃいけないんだ」

 僕は込み上げる涙を拭いもせず、薄暗い居間に入った。足元が見えていなかった僕は、放置していたビニール袋に足をかけて躓き、顔から前のめりにばたんと倒れた。まるで死んだかのように、しばらくそのまま動かなかった。ただ、微かに震える息だけが、僕のどうしようもない生を、無意味に繋ぎ止めているようだった。

「滅んじまえよ……こんな世界」

 乾いた、しかし魂の底から絞り出すような声で、僕はそう呟いた。それは願いというよりも、もはや呪詛のように。

 むくりと起き上がった僕の目に、ふと、窓際の陽が当たらない場所に置かれた『夢を叶える木』が映った。皮肉なほどに青々としたその葉が、僕の絶望を嘲笑っているかのようだった。僕は手にしていた、缶の中に残っていた酒をありったけ、その小さな植物にぶちまけた。破壊の衝動に駆られたように、ただ何かを終わらせたかったのだ。


 次の日、僕が目が覚めた時、世界は終わっていた。


 二日酔いで頭がガンガンと鳴り響き、周囲の僅かな物音すら耐え難いほどに響く。薄汚れた部屋は相変わらず乱雑で、散らばった原稿用紙の山、空き缶、インスタントラーメンの容器が、僕の荒んだ日常をそのまま晒していた。それはいつものことだった。ただ、決定的に違っていたのは、窓から差し込む朝日の眩しさだった。

 いつもなら視界を遮るはずの隣のタワーマンションや城のようなビルが、まるで存在しないかのように、剥き出しの空と、その向こうの地平線が、容赦なく薄汚れた部屋を照らしている。


 僕は、のろのろと窓に近づいた。そして、目の前の光景に、息を呑んだ。

 

 かつて人類の傲慢を象徴するかのように見上げるほど高く聳えていたタワーマンションは、今や切り倒された大木のように根本から崩れ、人々の積み上げた虚栄と、その間に広がる計り知れない孤立を晒していた。

 人々の安寧の象徴だったマイホームは、今や巨人に踏み潰されたようにペシャンコに潰れ、そこから漏れ出すのは、閉ざされたはずの個人の煩悶ばかりだった。

 病院も学校も見渡す建物全てが廃墟と化し、知性も慈悲も、とっくの昔に支払い期限を過ぎた請求書のように、ただそこに放置されていた。

 煌びやかに街を彩った車も、電池の切れた玩具のように朽ち果てていた。まるで、どこへも行けず、何からも逃れられない、現代人の思考そのもののように――――


 

 目の前に広がるそれは、僕が書いた小説、《終末》の冒頭そのものだった。

 

 深く、深くため息をついた。

 「…………ああ、そうか」

 僕が『夢を叶える木』に願ったのは、こんな世界、滅んでしまえだった。その僕の願いを、文字通り叶えてくれたのだ。

 視界の端の『夢を叶える木』の葉が、微笑するかのように青々と揺れていた。

 まるで「さあ、次の願いは?」とでも問いかけているかのようだった。


 僕はその葉を睨みつけ、再びため息をついた。

 

 手の届くところにあった、缶チューハイに手を伸ばした。だが、もう飲む気にはなれなかった。

 

 どこか遠くで、崩れ落ちる建物の残骸が軋む音が聞こえた。


 僕は机に向かい、ぐちゃぐちゃにした原稿用紙を手に取って小説を書き出した。

 タイトルは、もう決まっている。

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