汚れた手

明日和 鰊

汚れた手

 ギミット・バルブスは、純粋な大男だった。


 辺りの地域からは貧民街と呼ばれる地区で生まれ、その中でも最下層の家庭で育ったギミットにとって、暴力は日常風景の中に溶け込んでいた。

 家族に殴られ、教師に殴られ、どこにいても誰かから暴力を受ける、それがこの街の子供の毎日であり、ギミットの毎日だった。

 ギミットにとって、暴力は悪でも善でもなかった。


 ギミットが初めて暴力を振るう側にまわったのは8歳の時、仲の良い同級生が3人の上級生に理由なく殴られているのを見かねて、ただ1人止めに入った所、ギミットも同じように殴られた時だった。

 執拗に殴られたギミットは意識を失い、意識を取り戻した時には、上級生たちが顔を血でぬらしながら地面にうずくまっていた。


 誰かが助けてくれたのだ、とギミットは思った。

 殴られた身体中が痛かった。

 殴られた顔が痛かった。

 気付いたように、鉄のような臭気が鼻を突く。ギミットが自分の頬を触ってみると、鼻血や切れた唇から出た血が、手のひらについた。

 なぜか手の甲にも血がついていた。他の箇所と同じく、じんじんと痛んではいたが、切れてはいなかった。

 周りにいた同級生達が、自分を遠巻きに見ている事を、ギミットは不思議に思った。

 ギミットが身体を動かすと、彼らもまた距離をとるように動く。

 泣いている子もいて、ギミットが心配して近づこうとすると、泣き声はより大きくなった。


 困惑しているギミットに、殴られていた同級生が後ろから抱きついてきた。

「おまえ、すげえよ」

「タリィ、キミが助けてくれたのか?」

「何言ってんだよ、お前だ。お前があいつらをやっつけたんだ」

 タリィは鼻血のついた頬を紅潮させながら、早口でまくし立てる。 

「あいつら、いつも弱いやつばかり狙っていじめてたんだ。身体もでかいし3人がかりだったから俺も危なかったけど、まさかお前があんなに強いなんて」

 ギミットはそれまで、タリィなど同級生からは、鈍いやつだと思われていた。

 だから皆、ギミットの変貌ぶりを恐ろしく感じていた。

 しかしタリィが近づくと、遠巻きに見ていた同級生達も安心したのか近寄ってきた。


「大丈夫だった?あの人達、いつも私たちを叩いてニヤニヤしてたのよ」

「俺も殴られたよ」

「俺も、俺も」

 皆が口々に被害を訴え、ギミットに感謝をしめした。

 ギミットはうれしかった。

 今まで自分の行いで、これほど人に感謝され、喜ばれた事などなかったからだ。

 ギミットにとって、暴力に悪も善もなかった。

 それは街の日常であり、ギミットの日常だったからだ。

 


 18歳の時にタリィの妹のエミリアと付き合い始めた頃には、ギャング同士の抗争で、ギミットはすでにその手で何人もの人間を殴り殺していた。

 ギミットにとって、暴力は仲間を守る為に使うものであり、彼らの居場所を守る為のものであった。

 罪悪感を感じた事は、一度も無かった。

 食事のたびに、犠牲になった動植物に懺悔をしたり、夜眠るたびに、労働をサボる事に苦悩したりしないのと同じで、当たり前の事であった。

 彼はただ当たり前に、純粋に仲間の喜ぶ顔が見たかったのだ。


 3歳の時に母親を病気で亡くし、飲んだくれの父親や薬物中毒の兄弟達の中で育ったギミットにとって、居場所はタリィ達仲間の所だけであった。

 それはこの街ではよくある、ありふれた不幸だった。

 もしギミットだけの不幸があるとすれば、純粋だった事だけだろう。

 彼の心は視界に映る、この世界の、この街のあるがままを受け入れた。

 美しいものも汚いものも、正しい事も間違った事も、区別をする事無く。

 善や悪について考える事も、理性を持って人間らしく生きる事も、一度も考える事も無く、教えられる事も無く。

 生まれる場所によって、それらを学ぶ事が出来なかったのだから。



 エミリアの出産予定日の前日、タリィが殺された。

 相手は警察とも繋がりのある新興のギャングで、ギミットはすぐさま相手のボスを殴り殺し、そのあしでエミリアの病室に向かった。

 病室に着くと、子供はすでに生まれていた。

 ちいさな、ちいさな命。

 まだ何も知らない、何もわからない、汚れのない魂。


 ギミットは、我が子を抱こうとその手を差し出そうとした時、自分の手が返り血で汚れている事に気付いた。

 もちろん服は着替え、手は洗っていた。しかし袖に隠れて小さなシミが一点だけ、洗い残されていた。

 赤ん坊はそれを見て笑った。その笑顔には、ただそれ以上の意味は込められてはいなかった。

 だがその瞬間、ギミットは自分の手の全てが、これまで犠牲になった者達の血で染め上げられている事に、初めて気が付いた。

 赤黒く染まった手からは、鉄のような臭気がギミットの鼻を突くように漂ってくる。耳にはブンブンと羽虫がたかるような音が響き、心臓は速い鼓動ビートを刻み、頭からはダラダラと、冷や汗が止まらなくなっていた。

(死だ。俺の手は死にまみれている)


 生まれたばかりの純粋無垢な我が子を前に、その手は震え、ギミットはそれ以上手を伸ばす事が出来なくなった。

 ためらうギミットを不審に思い、不安な顔をするエミリア。

「ねえギミー、この子を抱いてあげて」

 エミリアがさらに腕を伸ばして、ギミットの手に我が子を抱かせようとした瞬間、部屋に警官達が乗り込み、ギミットを拘束した。

 猛獣と云われた男は暴れる事もなく、警官達が拍子抜けするほど、呆気なく捕まった。


 これから先、ギミットが我が子を抱くチャンスはもう無い。

 あの時抱くべきだったのか、それとも抱かなくて正解だったのか。

 逮捕から裁判、そして死刑執行までの間、ギミットはただその事だけを考え続けたが、最後の最後まで、答えを出す事は出来なかった。



       完

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