猫と星の学者
もちもち猫
猫と星の学者
その男は、星の学者と呼ばれています。
その男がどこから来たのかは隣にいる猫しか知りません。
彼はある夏の日に川を渡り、この暗い部屋に来ました。
彼は凛とした厳しい冬のような顔をしていますが、ときどきその奥のやわらかい心がちらりと見えるのです。
彼は本を読んだり、書き物をしたりして過ごしています。
綺麗な星が降る夜には、ギターをポロンポロンと鳴らし
その音は窓の外の星々に溶けていきます。
その男は、もともと猫のことを好きではなかったらしいのです。
彼が暗い部屋に来たばかりの頃のこと
自分はもう二度と笑う資格はないのだと
彼は今より一層厳しい顔をして、毎日呪文の様な数式の様なものを唱えたり、頭の中でしきりに難しい計算をしたりして
心を固く閉じて過ごしていました。
彼のいる暗い部屋は、たくさんの本が積まれていて彼の周りを囲んでいます。
それらの本は彼にとって宝物です。
彼がここにくる前、川を渡ってくるずっと前から大切にしていたものなのです。
彼はいつもの様に本の山の中で、宇宙の理をみいだそうと、難しい数式を使いながらまるで活版印刷の様な文字でノートブックに書き込んでいました。
綺麗なエメラルドのような緑色をした万年筆で、かりかりするするかりかりと、何十ページも何百ページも
お面の様な顔にきっと唇を結んで、頭から溢れる数字や言葉を刷り込む様に記します。
そうしている時だけ、彼は自分の心を静かに保つことができたのでした。
ある日のことです。彼のこもっている暗い部屋の窓に、猫がやってきました。
猫はおてんばな若い雌猫でした。
いつもそのビー玉の様な眼をくるくるとさせて、沢や林やごつごつした岩山や、宇宙のいろんなところを遊び場にしています。
猫は部屋の窓から覗き込んで彼を見つけました。
彼は全く周りの事柄には興味がありませんでした。
彼がかりかりと無心にノートブックに書き進めているのをみて
猫は邪魔をしたくなったのです。
どっしりとした厚いウォールナットの机に猫は飛び乗りました。
それでも彼は猫に一瞥もくれませんでした。
難しそうな数式や言葉をノートブックに書き続けています。
これまでに何度か他の者が訪ねてきたこともあったのですが、
彼の対応はいつも同じでした。
宇宙の理を見つけることがただ一つ彼の祈りでした。
だからこのノートブックは彼の魂の結晶でした。
猫は彼がどんなことを一所懸命書いているのか、よくよく見てみたくなりました。
それで机の隅からノートブックを覗き込もうとしたのです。
その時、彼のエメラルドグリーンのインクの瓶が
ことっごろごろ
と倒れてしまいました。
インクが彼のノートブックをぬらぬらと濡らしました。
彼は眼を丸くしてはっと猫の方を向き
「僕のノートブックがインクで全く読めなくなったではないか
これまで数十数百数千時間もかけて一所懸命書いてきた
宇宙の理を導く数字や言葉が」
彼は怒った様な泣いている様な変な顔をして猫を睨みました。
猫はその体をきゅっと縮めました。
猫はただ、彼と仲良くなりたかっただけなのです。
猫は何かいいかけたけれど、そのビー玉の眼をしんねりとつぶって、するっと窓の外に飛び出しました。
猫が居なくなって、彼はせいせいしたし、それにノートブックの大切なページが読めなくなってとても悲しくなりました。
でも、なぜか寂しい気持ちもありました。
この暗い部屋に来てから、誰かと関わりを持ったのは猫が初めてでした。
ノートブックを見てみると、猫の足跡が残っていました。
次の日もその次の日も、彼はまたかりかりするするかりかりと、ノートブックに書きこんでいました。
猫のこぼしたインクで潰れてしまった箇所を思い出したり考え直したりしながら一所懸命書いています。
べっとりと広がったインクと猫の足跡を見ていると
胸の奥がちくっとするのでした。
風が冬の星空の音色を運んでくる様になった頃、また猫が訪れました。
猫は少しも音を立てずにすっと男の部屋の窓辺にすわると
「今日もまたノートブックを書いているのです?」と言いました。
男は眉毛ひとつ動かさないそのお面の様な顔で
「ああ、君のせいだよ。ここは君がくるところじゃない。すぐに出ていきなさい」
と言いました。
猫は一度ぱちっとまばたきをして
「今晩は一層寒くなりますから、もうお休みになってはいかが」
と言いましたが
男は
「しつこい、もう放っておいてくれ」
と言い放ち、ピシャリと窓を閉めました
猫はびっくりして深緑の森の中に走って逃げてしまいました。
男は1人きりになってほっとしていました。
けれどなぜか胸の奥がきゅうっと痛くなるのでした。
オリオンが彼に話しかけました。
「なぜ猫を追い返すんだい」
彼は言いました。
「ふん、あなたに関係がありますか」
オリオンは
「でも猫を追い返して苦しくなっているんではないかい」
彼は何も言えずに、そのくちびるを少し噛みました。
ああ、今晩は寒いから、猫はどうしているだろうか
そんなことを思いました。
男は星が好きでした。
広い漆黒の空に広がる様々な大きさ色かたちの光を見ていると
決して揺らぐことのない理に自分が触れられている、そう思えて心がしんと落ち着くのでした。
川を渡ってくる前も彼は狭い部屋にいたのですが
その三畳の部屋からは空を見上げることができませんでした。
だからこうして空を見上げることがこの上なく幸せでした。
彼はどうしたら自分もあの星になれるだろうか
宇宙の理をあきらかにしたらなれるのだろうか
その願いが彼が難しい学問を只管に続ける理由でした。
でも一所懸命頭の中でたくさんの数式を組み立てても
計算に少しの誤りがなくても
彼は星になれそうにありません。
何十何百何千時間考えても難しかったのです。
だんだんとやわらかい風が暗い部屋にも届く様になって
夜が短くなってきたある日、
また猫が窓辺にきました。
猫はぴとっとその少し空いた窓の隙間に体をねじ入れて
男の顔を覗き込みます。
「また君か」
彼は言いました。
なんだか猫と眼を合わせることが少し気まずい様に感じていました。
猫は
「原っぱにかわいいお花が芽吹く様になったのですよ、桜の花もとても綺麗ですよ」と話しかけました。
男が見ると、猫の額に白い桜の花びらがついています。
思わず男は笑いました。
ほんとうに久しぶりに彼は笑ったのでした。
猫はなぜ男が笑っているかわからずそのビー玉の目をぱちぱちさせ首を傾げました。
その拍子に花びらがひらりひらりと
ウォールナットの黒い机に落ちました。
「さっき桜の木に登った時についたのですね、私は木登りもずいぶん得意なのです。高い高い木の上に登ると、お日さまの暖かい光が一層近くなってとても心地よいのです」
猫はひげをぴんとさせて自慢げにそういうのでした。
男はそれを聞いて、ああ、お日さまの光の暖かさってどんなふうだったろうか、そう思いました。
猫は二回三回顔を洗う様な仕草をして、窓から外へ帰っていきました。
男は花びらにふれてみました。
雲の様にやわらかい花びらでした。
それから猫はたびたび男の部屋を訪ねるようになりました。
いつもその窓辺に座ります。
「今日は何を読んでいらっしゃるのです?私にも教えてくださいな」
「君に話してもわかりはしないだろう。これは宇宙の理をあきらかにするための学問なのだ」
「とても難しいお勉強をされているのですね、宇宙の理ってこの世の真理ということですか」
「そうだ、宇宙の理をあきらかにするにはまずこの原理から紐解く必要があり」
「すごいですね、ふむふむ、それでそれで」
男は自分の考えていることを話し始めました。
猫は一所懸命その言葉の一つ一つに耳をそばだてますが、気がつくとうとうととして瞼が下がってくるのでした。
男はそれをみてふっと笑いました。
猫はビー玉の眼をしぱしぱさせて
「今日は一段と暖かいのでどうにも眠くなってしまうのです」
と言い訳をしました。
猫は男の部屋にきては男の話を聞きたがりました。
彼の話はどうにも難しくて、聞いているうちに数字も言葉もこんがらがってしまいます。
「君には何千時間話してもきっとわからないだろう」
彼はそう言いました。
猫は言いました。
「わからないけれど、わからなくても聞いていたいのです。聞いていると、なんだかあなたのことがわかる様な気がするのです」
猫はその眼をきらきらとさせながらなぜか楽しそうなのでした。
その日の夜、男はあの日に猫が倒したインク瓶で濡れたページを見ていました。
宇宙の理は、このエメラルドグリーンのインクの様だ、そこにあるけど僕には見えないのかもしれない
と、星空の静けさを見上げました。
お日様がじりじり長く照るようになったある日、猫はいつものように窓枠にぴとっと座り男に言いました。
「学者さん、あなたは毎日学問にお忙しそうですが、たまにはお出かけなさいませんか」
男は川を渡ってこの暗い部屋にきてから、一度も外に出たことはありません。
「僕はここで本を読んだり考えたりするのが好きなんだ、一日でも多く宇宙の理について考えていたいんだ」
「そうですか。こんな日には、ひんやり冷たい水の流れる沢で過ごすのが私のお気に入りなのです」
「そうかい、では君1人で行ってきなさいな。僕は今日この章を読みたいから」
猫は少しだけその眼に寂しさを浮かべました
「こんなに暑い日は、沢の水の冷たさが格別です。私は学がないので、上手くお伝えできないのだけれども」
そう言って踵を返しました。
彼は思いました。僕はそれを言葉にできるのだろうかと
「待ってくれ」彼は猫を呼び止めました。
「僕も一緒に行こう」
男はずっと自分は暗い部屋から出てはいけないような気持ちがしていたのですが、外に出るとそう悩んでいたこともすっかり忘れて
木々の囁きや蝉の声に耳を傾けていました。
猫はうれしそうに軽やかなリズムで、時折男の方を振り返りながら歩きます。
「今日は見ない顔と一緒だな。いつもお前はひとりなのに」
ミズキの木が猫に話しかけました。
「はい、今日は星の学者さんと一緒なので、いつもより楽しい日になりそうです」
小一時間ほど歩きました。木々と岩に囲まれて沢がありました。
そこは水音がしているのに、しんとしていました。
木漏れ日がやさしく水面を照らして、やわらかく光を反射しながら流れていきます。
猫はぴょんぴょんと沢に近づき流れにちょんと前足を触れます。
男もそっと手を触れてみました。
沢の清さ冷たさが、指先からだんだんと手に腕に伝わってきます。
「学者さんいかがですか、とても気持ちいいでしょう」
猫は得意げにひげをぴんと伸ばします。
「ああ、そうだな、ずっとこの水に触れていたい」
触れているのは冷たい水なのに、離すとほのかに指先に残るあたたかさ。
言葉にすればこぼれてしまいそうで、彼はただその感じを手の中にそっと持っていました。
と同時に、この感覚はあのノートブックにべっとりと広がったインクの様だと思いました。
それは少しの心地よさと切なさでした。
猫は言いました。
「いつもは私ひとりだけど、今日は学者さんが一緒だから木も岩も沢もなんだか嬉しそうです」
そういう猫が一番嬉しそうにしているな、男は思いました。
きらきらとしたビー玉の眼の奥にほんとうは寂しさをいっぱい溜めているのかもしれないと
夜が長くなり夜空が深くなってきました。
黒いビロードのカーテンに小さな宝石が溢れた様な星空です。
男は夜空を見上げながら、言葉や数字の間からこぼれ落ちてしまうものを、なんとか掬い取れないか、あれからずっと試みていました。
しかしなんともすんなりいきません。
逆に掬い取れないものが、溢れたインクがじわじわ滲むように広がっていくのでした。
ある日、猫がいつものように暗い部屋の窓にやってきました。
猫がくわえているのは、黄色いイチョウの葉っぱです。
「学者さん、昨日林の散策中にとっても素敵な場所を見つけたのです。ぜひとも学者さんをお連れしたいです」
もう秋が来たのだな、と彼はあの夏の日を思い出しました。
「丁度外の空気を吸いたいと思っていたところだ」
彼は言いました。
林を進むとミズキの木が話しかけてきました。
「おや学者さん、お久しぶりですな」
「ミズキさんごきげんよう。すっかり衣替えですね」
ミズキは紅や橙の葉っぱをざわざわと揺らして返事をします。
猫はうれしそうに三角の耳をぴくっとさせ、スキップで進みます。
少し進むとそれはありました。
そこだけ林にぽっかりあいた穴のようで、まるで木々がつくったテラスです。
真ん中に丸太のソファーが横たわっています。
「学者さん、とっても素敵でしょう」
猫はビー玉の眼をきらきらさせて言います。
男はその丸太のソファーに腰掛けます。
見上げると、紅橙黄色の葉っぱのカーテンが彼を囲み
大地のへそにいる様でした。
彼は座ったまま、暫く静かに目を瞑っていました。
そうして彼が感じていることをただ味わっていました。
彼は思いました。
ああ、これは言葉や数字の隙間からとめどなく溢れ出るものなのだ
だから文字にすることもできない、きっとその必要もない
そして揺らぐことのない理への執着は、誰かを傷つけうるかもしれない
自分がそうであったように
そうして佇む男の横顔を、猫はじっと見上げていました。
部屋に帰ったら久しぶりにギターを弾こう、と彼は思いました。
空気が凛と冷たくなってきました。
男はその晩一人で出かけてみたくなりました。
外はお日様が先ほど去ったところで夜の帳が下り始めていました。
彼は紺色のチェスターコートを着、手袋をして暗い部屋から外へ出ました。
向かったのは、秋に猫が教えてくれたテラスのソファーでした。
たどり着いた男は腰掛けて空を見上げます。
漆黒の空に数え切れない星の瞬きです。
ここはまるでワイングラスの底のようだ、とため息が白くなりました。
「星の学者さん、今日はひとりなのかい」
オリオンが男に話しかけました。
「オリオンさんこんばんは。ひとりで星空が見たくなったのです」
「学者さん、貴方の研究は進んでいますかな」
そう聞かれ、男は少し俯いて
「僕が何万時間費やしたって、僕は星にはなれやしない。宇宙の理はきっとわからないでしょう」
そう言いました。
「そうかいそうかい、学者の仕事も難儀なものだな。でも貴方の顔はそんなに暗くはみえませんな」
そう言われて彼は少し頬を緩ませると
「たとえたどり着けなくとも、峠の上り下り、その一あしずつが今の僕にとっての幸いなのです」
と答えました。
「はっはっは、それは大変結構結構」
オリオンの笑い声がワイングラスの林に響きました。
男が暗い部屋に戻ると、しんしんと雪が降りはじめました。
窓辺に猫がやってきて
「学者さん、今晩は積もるようですよ」と男に声をかけました。
「そのようだな、寒いから中に入りなさい」男は言いました。
猫は嬉しそうにビー玉の眼を細めてウォールナットの机の上にぴょんととびのりました。
「学者さん、また星の学問のお話を聞かせてくださいな」
猫がいうと、男はいつもの様に語りはじめます。
一所懸命男の一言一言を理解しようと猫は姿勢を正して聞いていますが、やがて喉をごろごろと鳴らしながら寝息をたてて丸くなりました。
今日は一層寒くなるな、男は猫に毛布をかけてやりました。
猫の小さな寝息と男がかりかりとノートブックに書き込む音、エメラルドグリーンのインクが、静かに夜に溶けていきました。
猫と星の学者 もちもち猫 @mochimochineko
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