名探偵 佐々木小五郎の名演

妹山あおい

第1話  嵐の山荘

妹山せやま先生……ですよね? 小説家の」


 ウイスキーグラスを片手に立つ痩せぎすの男に、小五郎は声をかけた。


「……知ってるのかい?」


「はい。『往復する暗号ラブレター』――読みました。あ、握手いいですか?」


「ああ、うん」


 躊躇いがちに伸びてきた手を握りながら、妹山あおいを観察する。ロゴTシャツに無地のパーカー、ジーパンにスニーカーという、これよりないほどラフな恰好。小五郎がイメージする小説家とは違った風体だが、年齢や文体を考慮すればむしろしっくりくるくらいだ。


 妹山あおいというのは覆面作家の名前だった。正直、ディナーの席で名前を聞いたときは記憶になにか引っかかる程度の覚えしかなかったのだが、さきほどこっそり名前を検索したらヒットしたので思い出せた。

 別にファンというわけでもないのだけど、こういう人にはご利益を求めて握手してもらうことにしている小五郎である。強く握った手を上下に振った。


「で、この握手はいつまで続くのかな?」


「ああ、失礼」


 些か熱が入り過ぎてしまったようだ。手を離す。


「改めまして、僕は佐々木小五郎です」


「ああそう」


 妹山は生返事を返す。もしかして、声をかけたのは迷惑だっただろうか――小五郎の内心を不安が過る。それなら、目的の握手も済んだことだし退散しよう。

 そう思って身を翻そうとした瞬間、「妹山さん、小説家さんなんですかー」と背中から声をかけられた。もたれるように甘ったるい声。振り返ると、白いワンピースの少女が立っていた。


「えっと君は……」


「神崎です。神崎瑞葉。女子大生やってます」


 にっと笑う神崎をしげしげと見る。女子大生を名乗った彼女だが、高校生かと思うほどに若々しい容姿をしていた。細く高い鼻筋、薄く形の良い唇、イマドキの化粧が施されたその顔は、充分に美人と称して問題ないレベルである。


 神崎はその細い指先を、二人に順繰りに向ける。


「妹山さんは小説家さんでー、佐々木さんはなにやってる方なんですか?」


「僕も女子大生やってます」


「え、マジですか? じゃ、あたしと同じじゃないですか」


 ノリが若い。

 小五郎は苦笑いを浮かべた。


「そうだね。だがしかし、女子大生は世を忍ぶ仮の姿――本当はフリーターです」


 そう。

 佐々木小五郎は本当はフリーターで、本当にフリーターだった。色々な理由で色々な職を転々としている若年求職者だ。さきほどの握手のご利益で早めに次の就職先が見つかることを切に願っている。


「フリーターってペンションに泊まれるほど余裕あるんですか?」


 なかなかなことを言ってくる神崎女子大生。ただ、その口吻に嫌味はない。


「実家暮らしだとお金は溜まるんだよね。就職できないストレスを、羽根を伸ばして解消しようと思って。ちなみに、両親を連れてくる金はないので一人で来た」


「おー、いい感じのお兄さんですねー」


 神崎はケラケラと笑う。手に持ったグラスの氷がカラリと鳴った。彼女の頬には少しの赤みが差している。どうやら、それなりに酔いが回っているようだ。


「ていうかお前、飲酒していい歳なのか?」


「大丈夫ですよ、ちょうど今年で二十歳なので。無職のお兄さんはいくつなんですか?」


「僕は無職じゃない、フリーターだ。二度と間違えるな小娘。そして僕は二十五歳だ――妹山先生は?」


 小五郎が水を向けると、妹山はあからさまに眉を顰めた。


「先生と呼ばれるのは勘弁願いたいね」


「なら、なんと呼べば?」


「歳は同じだし、普通に妹山でいいよ」


 ということは、年齢は二十五歳ということになる。少し落ち着いた雰囲気を湛えているので、小五郎にはもう少し上の年齢に見えていた。


 妹山がグラスを傾けるのを見て、小五郎もなんとなく合わせるようにウイスキーを呷る。かなり薄めに割ってもらったが、やはり飲み慣れない酒は喉にキツい。熱にも似た刺激が喉、食堂、胃へと落ちていく感覚を味わっていると、わざとらしい空咳の音が聞こえてきた。目を向けると、背の低い五十代ほどの男性が近付いてきている。


「ほどほどにしておきなよ、君たち」


 男性は鹿爪らしい顔をして言う。


「お酒は、それも強い酒は決して体にいい物じゃないんだ。飲み慣れないウイスキーを楽しみたい気持ちは理解できるが、ハメを外して正体を失うことのないように」


 その言葉は、文字面ではこちらを気遣っているようで、しかしその声音には、明らかに若者たちを見下すような色が滲み出していた。あまり気持ちのいいものではない。妹山はむっつりとした顔をしたし、神崎は小五郎の陰に隠れるような位置にさりげなく移動した。


「ご忠告ありがとうございます。いや、たしかにそうですね。二日酔いにでもなったら、明日からが大変だ。僕はこの一杯で終わりにしようと思います」


 自然な笑みを浮かべる。小五郎がそうして従順な姿勢を見せると、男性は満足げに頷いた。


「なあに。私は医者だからね。人の健康を気遣うのも、職務の内だ」


『医者』という単語にはどこか誇らしげな響きがあった。


「え、お医者様なんですか……えっと、志賀野さんでしたっけ?」


「ああ。志賀野文彦だ。よろしく」


 はい、よろしくお願いします――にこやかな顔で小五郎そう言った途端、今度は押し殺した笑い声が聞こえてくる。数メートル離れた位置にあるソファに腰掛けた男性が、唇の端を上げていた。頭には少し白い物が混じっているが、スーツを着こなしたその体躯はがっちりとしたものだ。


「なにが医者だ。偉ぶって」


 男の態度が気に食わなかったのか、志賀野が眉根を寄せた。


「御法川さん、でしたっけ? 私の職業に、なにか不満が?」


「いやいや、医者に不満なんざねぇよ」


 口調は粗野な若者のようだが、くつくつと笑うと年相応のしゃがれた声が出てきた。


「ただな、子供に偉ぶって下手な講釈垂れて、鼻高々に医者を名乗ってるのがおかしくっておかしくって、笑わずにはいられなかっただけだ」


「なに……!」


 志賀野は一瞬で気色ばむ。一触即発の空気が漂った。


「礼儀を知らない方のようだ」


 志賀野は押し殺した声で言う。御法川はそれを鼻で笑った。


「そりゃ申し訳ないな。礼儀なんてものを知ってちゃ、事業を大きくできなかったもんでよ」


 やおら、御法川が立ち上がった。座っていてもわかったが、立ち上がると本当に大きい。一九〇センチはありそうだ。背筋も真っ直ぐで、筋肉質な肉体がスーツの上からでもわかる。

 背丈が一六〇もなさそうな志賀野とではさながら大人と子供で、見下ろされた志賀野は紅潮していた顔をみるみる蒼褪めさせた。


「や、休ませてもらう!」


 精一杯といった風にそう言うと、志賀野はずしずしと階段の方に歩いていった。御法川はその背中に嘲笑を飛ばすと、またソファの同じ位置に戻る。微妙な沈黙が部屋を支配した。


 不意に一陣の風が吹いた、らしい。

 窓がガタガタと喚いたのでそれがわかった。視線を向けると、透明な窓ガラスの向こう側が僅かに湿っている。


「あれ? 雨降ってる?」


「当たり前だろう」


 妹山が答える。


 ――当たり前?


 小五郎が首を傾げると、神崎が目を細めた。


「佐々木さん、天気予報見てないですか?」


「佐々木さんは天気予報は見たいタイプのフリーターだよ。雨の予報だったのか?」


「雨というか、台風の予報ですね。なんで知らないんですか」


「天気予報を見たら脳が腐るって死んだばあちゃんが言ってたから」


「珍しいタイプの時代錯誤ですねー」


 神崎に笑われながら琥珀の液体を流し込む。小五郎のグラスはそれで空になった。甘く息を吐くと、芳醇な薫りが鼻腔を抜けていく。ゆっくり瞬きすると、身体の奥でほんのりと睡魔が顔を覗かせていた。


「ん、僕はそろそろ寝ようかな」


「あれ? もういいんですか?」


「志賀野さんじゃないけど、酒は微酔に飲むものだから」


「そうですか。ま、でも、ベロベロに酔っちゃしょうがないですもんね。私もこれで終わりにしようかな」


「それは自分の身体と相談してどうぞ」


「はい、そうします。佐々木さん、おやすみなさい」


「おやすみ。妹山も、おやすみ」


 妹山は小五郎に視線も向けないまま「おやすみ」と言った。

 小五郎は自室に向けて歩みを進める。道中ソファの脇を通るので「御法川さんも、おやすみなさい」と声をかけたら、彼は手に持ったグラスを掲げて返事をした。彼はウイスキーをロックで何杯も飲んでいるのだが、大丈夫なのだろうか。


 豪儀な御法川の性格を想うと心配するのも野暮な気がして、小五郎はなにも言わずに階段を上った。二〇四号室の扉を開き部屋に入り、つまみを回してシリンダー錠をかけると、ベッドにそのまま身を投げた。


 窓を激しく雨粒が叩く。

 どうやら雨風が先ほどより強くなっているらしい。山間のペンション、嵐の夜。殺人事件でも起きそうだ――なんて、そんな益体もない思考を微酔に浮かべて、小五郎は微睡みに落ちていった。

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2026年1月20日 22:00
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2026年1月22日 22:00

名探偵 佐々木小五郎の名演 妹山あおい @sirogusu

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