第2話 姉・摩耶と朝のコーヒー

「はい、玲央。ミルクとお砂糖、いつもの量でいいわよね?」


 春の柔らかな陽射しが差し込むダイニングルームに、明るい声が響いた。

 目の前のテーブルに、湯気を立てるボーンチャイナのティーカップがことりと置かれる。漂ってくるのは、深みのあるブルーマウンテンの香りだ。

 顔を上げると、銀色のポットを手にした姉が、柔らかな微笑みを浮かべて立っていた。


 西園寺摩耶。18歳。

 今日から東京大学のオリエンテーションに参加する彼女は、普段よりも丁寧にブローされたハニーブロンドの髪を揺らしている。

 母親である伝説の女優、西園寺ソフィア譲りの整った顔立ちだが、姉にはどこか親しみやすい愛嬌があった。着ているのは春らしいパステルイエローのブラウスに、膝丈のフレアスカート。いわゆる「女子大生らしい」清潔感と知性を感じさせる装いだ。


「ありがとう、姉さん。気が利くね」


 俺はカップを受け取り、礼を言った。

 15歳の弟として、姉の気遣いを素直に受け取る。

 41歳の記憶を持つ今の俺にとって、年下の姉に甲斐甲斐しく世話を焼かれるのは不思議な感覚だが、そこに嫌悪感はない。むしろ、前世では縁のなかった家族の温かさを、冷え切っていた心が貪欲に吸収していくのを感じる。


「ん? どうしたの玲央。なんか今日、雰囲気が違う?」


 姉さんが小首を傾げた。

 鋭い。東大文科一類に現役合格するだけの観察眼か、それとも15年間共に過ごしてきた肉親の直感か。

 俺は動揺を表に出さず、穏やかな微笑みを返す。


「そうかな? 高校生になるから、少し気が引き締まっているだけだよ。姉さんこそ、今日から大学生だろう。緊張していない?」


 俺が問い返すと、姉さんは「う……」と言葉を詰まらせ、苦笑いを浮かべた。


「痛いとこ突くわね。実はちょっとだけ、ね」


 姉さんは自分の席に戻り、焼きたてのバタートーストを手に取った。カリッという軽快な音を立てて一口齧る。


「周りはみんな、全国から集まった天才とか秀才ばっかりなんでしょ? 私なんかがついていけるか心配でさ。昨日も眠れなくて、つい長電話しちゃった」

「相手は?」

「くるみよ。あの子も仕事の愚痴ばっかりで、結局朝までコース」

「それは大変だったね。でも、姉さんなら大丈夫だよ。受験勉強の時、誰よりも遅くまで机に向かっていたのを僕は知っているから。努力は裏切らないよ」


 俺の言葉に、姉さんはぽかんとした顔をした後、嬉しそうに目を細めた。そして、少し照れくさそうに視線を逸らす。


「……なんか、本当に大人っぽくなったわね。前は『姉ちゃんうるさい』とか『部屋に入ってくるな』とか言ってたのに」

「反抗期が終わったんだよ、きっと。今まで迷惑をかけた分、これからは親孝行と姉孝行をするつもりだから」


 俺はコーヒーに口をつけた。

 酸味と苦味のバランスが絶妙だ。適切な温度で淹れられた極上の一杯。

 前世、胃に穴が空きそうなストレスを抱えながら流し込んでいた、酸化したオフィスコーヒーとは次元が違う。これが「生活の質」というものだ。


「摩耶。入学式は来週だったな。今日は何だ?」


 新聞を読んでいた父が、紙面から目を離さずに尋ねた。

 西園寺財閥の当主としての威厳を漂わせているが、その声色には娘を案じる響きが含まれている。


「今日はオリエンテーションと、サークルの新歓があるのよ。パパ、私のクラス分けなんて興味ないでしょ?」

「そんなことはない。西園寺家の娘がどこの馬の骨と机を並べるのか、把握しておく必要がある。それに、大学ともなれば妙な輩も増えるからな」


 父は新聞を畳み、テーブルに置いた。

 一面の見出しには『有効求人倍率、過去最低水準』の文字が躍っている。長引く不況、リストラの嵐。世間は暗いニュースで溢れている。

 だが、父の表情には焦りはない。財閥の長として、この程度の荒波には動じない胆力があるのだろう。あるいは、既に次の手を打っているのか。


「もう、過保護なんだから! 玲央、パパになんか言ってやってよ」


 姉さんが助け舟を求めてくる。

 俺はコーヒーカップをソーサーに戻し、苦笑する父と、頬を膨らませる姉を交互に見やった。この平和な光景を守るためなら、俺は何だってできる気がした。


「父さんの気持ちも分かるよ。姉さんは綺麗だから、悪い虫がつかないか心配なんだろう。特に大学のサークルなんて、遊び慣れた男も多いだろうし」

「えっ……」


 姉さんが目を見開き、頬を赤くした。

 数秒の沈黙の後、彼女は身を乗り出して俺の頬をつねった。


「ちょっと! 何そのキザな台詞! いつの間にそんな言葉覚えたの!? マミーの映画の見すぎ!?」

「痛いよ、姉さん……。事実を言っただけだ」

「ううっ……ずるい。あんたが私の弟じゃなかったら、とっくに惚れてたわよ。責任とって一生養いなさいよね」

「ああ。姉さんが望むなら、いつでも頼ってくれ」


 俺は本心で頷いた。

 今の俺には310億円という莫大な資産がある。姉一人を一生贅沢に養うことなど、造作もないことだ。

 それに、この家族を守ることは、今の俺にとって重要な意味を持つ。前世の孤独な死を経験したからこそ、この温かい食卓の価値が骨身に染みて分かるのだ。


「……もう。調子狂うなぁ」


 姉さんは照れ隠しのように俺の頭を乱暴に撫でると、最後の一口を牛乳で流し込み、席を立った。


「玲央も、高校生活楽しむのよ。何かあったらすぐお姉ちゃんに言いなさい。いじめっ子がいたら社会的に抹殺してあげるから」

「ああ、ありがとう。心強いよ」


 パタパタとスリッパの音を立てて廊下へ消えていく姉を見送り、俺は再びカップに口をつけた。

 ダイニングルームに静寂が戻る。父と二人きりの時間が流れた。


「玲央」

「はい、父さん」

「高校入学おめでとう。お前には何も心配していないが……あまり無理はするなよ。お前は昔から、一人で抱え込む癖がある。優秀なのは良いことだが、時には誰かを頼ることも覚えなさい」


 父の視線が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。

 その言葉は、まるで前世の俺――誰にも弱音を吐けず、全てを一人で背負い込んで潰れた俺を見透かしているかのようだった。

 胸の奥が少しだけ痛む。だが、今の俺はもう一人ではない。


「……ありがとう。でも大丈夫だよ。俺は、これからの人生を思い切り楽しむつもりだから。それに、頼れる家族がいるってことも、よく分かったから」

「そうか。ならいい」


 父は満足げに小さく頷き、腕時計を見た。出勤の時間だ。


「行ってくる。何か必要なものがあれば執事に言いなさい」

「いってらっしゃい、父さん」


 父の背中を見送り、俺は最後の一口を飲み干した。

 静寂が戻ったダイニングルーム。

 窓の外には、1999年の柔らかな春の日差しが降り注いでいる。平和だ。


 父が出勤し、姉も出かけると、屋敷は完全な静寂を取り戻した。

 使用人たちが気配を消して立ち働く中、俺は自室に戻った。


 ドアを閉め、鍵をかける。

 ここからは「15歳の西園寺玲央」の時間ではない。「41歳の投資家」の時間だ。


 俺はデスクの前に座り、鎮座している最新鋭のデスクトップPCの電源を入れた。

『Fruits社』製のスケルトンモデル。ボンダイブルーの半透明な筐体が、当時の流行を象徴している。


「ジャーン」という起動音が鳴り響き、懐かしいOSのロゴが画面に浮かび上がる。HDDがカリカリとデータを読み込む音すら、今の俺には愛おしい音楽に聞こえる。


 現在の日付は、1999年4月1日。

 世間はノストラダムスの大予言や、目前に迫った2000年問題といった話題で持ち切りだ。

 だが、投資家としての視点で見れば、今は「千載一遇のチャンス」の入口に立っている。


 ブラウザを立ち上げる。

 ダイヤルアップ接続特有の「ピーヒョロロロ……」というモデム音はしない。

 西園寺家には、既に専用線が引かれており、常時接続環境が整っていた。

 これは非常に助かる。秒単位で課金されるテレホーダイの時間帯を気にしていては、億単位の取引などできはしない。情報へのアクセス速度は、そのまま利益に直結する。


 表示されるWebページは、テキスト中心のシンプルなものが多い。画像一枚表示するのにも数秒かかるこの重さ。動画配信など夢のまた夢だ。

 2025年の爆速回線を知っている身としては隔世の感があるが、不満はない。この「未成熟さ」こそが、これから成長する余地であり、莫大な利益の源泉なのだから。


 俺は、今朝確認した大手都市銀行のオンライントレード画面にアクセスした。

 キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。

 通帳に記されていた口座番号と、記憶にあるパスワードを入力する。

 通常なら未成年の取引には様々な制約があるはずだが、この「ファンタジー由来」の310億円に関しては、なぜか全てのロックが解除され、自由に運用可能な状態になっている。


『ようこそ、西園寺 玲央 様』

『預り金残高:31,000,000,000円』


 画面に表示された数字。310億円。


 これが俺の初期装備だ。

 単なる数字の羅列に過ぎないが、これが俺の自由への切符であり、家族を守るための盾であり、世界を変えるための剣となる。

 震えるほどの金額だが、不思議と心は凪いでいた。これはもはや、金ではない。「力」そのものだ。


 俺はポートフォリオの構築に着手した。まずは日本株だ。

 1999年4月。ITバブルはまだ序章に過ぎない。

 これから年末にかけて、日本のネット株は狂ったような暴騰を見せる。実体経済を無視した、まさに「バブル」だ。だが、弾ける時期を知っている者にとっては、これほど美味しい果実はない。


 特に狙い目なのは、検索ポータル最大手の『Yahho!』と、それを率いる『S社』だ。

 現在の『S社』の株価を確認する。

 PERなどの既存の指標で見れば、既に割高に見えるかもしれない。しかし、2000年2月のピークを知っている俺からすれば、今の価格はバーゲンセールも同然だ。

 インターネットという新しいインフラが社会に浸透していく過程で、市場は熱狂し、実体を遥かに超えた価格をつける。その「熱狂」を、俺は冷静に利用する。


「買いだ」


 迷うことなく買い注文を入れた。

 クリック一つで、数億円単位の資金が動く。

 前世の俺なら、運転資金の融資を銀行に頼み込むのにも頭を下げ、株主の顔色を伺って胃を痛めたものだが、今の俺には一切の迷いがない。。

 これはギャンブルではない。歴史という名の解答用紙に、知っている答えを書き込んでいるだけのこと。

 ただし、油断はしない。俺の介入がバタフライエフェクトを引き起こし、市場に微細な影響を与える可能性もゼロではない。慎重に、かつ大胆にポジションを積み上げていく。


 次に、米国市場の銘柄をチェックする。


『Amazing』。


 現在はまだ、赤字を垂れ流しているオンライン書店に過ぎない。世間からは「いつ潰れるか」と冷ややかな目で見られている。

 だが、彼らは物流への投資を止めず、やがて世界最大の「何でも屋」へと変貌を遂げ、クラウド事業で巨万の富を生み出す。

 今の株価は、将来の価値に比べればゴミのような安値だ。

 これも買い集める。ただし、一気に買うと目立つため、数回に分けて注文を出すアルゴリズムを組む必要がありそうだ。


 そして『Fruits社』。

 目の前にある、この美しいスケルトンPCを作った会社だ。

 創業者が復帰し、経営危機から脱しつつある段階だが、本当の快進撃はまだ先だ。

 携帯音楽プレーヤー、そしてスマートフォン。

 それらが世界中の人々のライフスタイルを変えるのは数年先の話だが、今のうちに仕込んでおいて損はない。


 一通りの注文を終え、俺は息を吐いて背もたれに体を預けた。

 手持ち資金の3割程度、約100億円分を分散して仕込んだ。

 残りはキャッシュポジションとして温存しつつ、未公開株への投資機会を伺う。

 特に、まだガレージで検索エンジンを作っているはずの『Goggle』の創業者たちには、早急に接触する必要がある。彼らに出資できれば、将来的なリターンは計り知れない。夏休みには渡米すべきだろう。


 ふと、カレンダーに目をやる。

 1999年4月1日。

 窓の外には春の陽射しが降り注いでいる。平和だ。

 誰も俺を急かさない。電話も鳴らない。謝罪メールを打つ必要もない。

 この平穏を守り抜くことこそが、俺の第二の人生の目的だ。


「さて……これで準備は整った」


 俺はPCをスリープモードにし、立ち上がった。

 資金の運用は開始した。次は物理的な環境整備だ。

 実家も悪くはないが、やはり干渉が多い。

 姉さんは頻繁に部屋に来るだろうし、母さんもそのうちLAから襲来するだろう。家族は大切だが、俺が誰にも干渉されず、理想の隠居ライフを送るためには、誰にも邪魔されない秘密基地が必要だ。


 それに、何より切実な理由がある。


「料理」だ。


 前世の俺にとって、料理はただの趣味を超えた、精神安定のための唯一の儀式だった。

 食材と向き合い、火加減を調整し、完璧な一皿を完成させる。そのプロセスだけが、孤独な経営者だった俺の心を癒やしてくれた。

 だが、前世では忙しすぎて、キッチンに立つことすら叶わない日々が続いた。


 そして今、この屋敷でもそれは難しそうだ。

 玲央としての知識が告げている。もし俺が厨房に入ろうとすれば、使用人たちが血相を変えて飛んでくるだろう。「玲央坊ちゃん、そのようなことは我々にお任せください」と。

 彼らにとって、主人の息子に包丁を握らせることは職務怠慢にあたるのだ。彼らの仕事を奪うわけにもいかないし、いちいち説明するのも骨が折れる。


 だからこそ、自分だけの城が必要なのだ。

 誰にも気兼ねなく包丁を振るい、出汁の香りに包まれることができる場所が。


 西園寺家が所有する都内の高級マンション。その最上階にあるペントハウス。

 現在はゲストハウスとして空けてあるはずだが、あそこなら広さは十分だ。

 セキュリティも万全だし、父さんに頼めば自由に使わせてくれるだろう。「勉強に集中したい」「自立の準備をしたい」と言えば、教育熱心な父のことだ、二つ返事で了承してくれるはずだ。


 あそこを俺の城にする。

 業務用のオーブン、オーダーメイドのアイランドキッチン、世界中から取り寄せたスパイス。

 そして、そこで作った極上の料理を、まだ見ぬ新しい家族と共に優雅に楽しむのだ。

 想像するだけで、口元が緩んでしまう。

 310億円を稼ぐことよりも、理想のキッチンを設計することの方が、今の俺には遥かに重要なミッションに思えた。


「入学式まで、あと数日か……」


 俺は窓辺に立ち、眼下に広がる庭園を眺めた。

 綺麗に手入れされた芝生、咲き誇る季節の花々。

 前世では、こんな風に景色を愛でる余裕さえなかった。


 午後からは、書斎でキッチンのレイアウト構想でも練って過ごそうか。

 どのメーカーのコンロを入れるか、冷蔵庫はどこの業務用のものにするか。

 カタログを眺めているだけで、時間は瞬く間に過ぎていくだろう。


 俺は大きく伸びをした。

 身体の節々から力が抜け、心地よい脱力感が広がる。

 今日はこれ以上、何もしない。

 ただ、夢を膨らませる時間を楽しむだけだ。

 そんな当たり前のことが許される新しい人生に感謝しながら、俺はゆっくりと書斎へ向かうために部屋を出た。

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