平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業
@DTUUU
第1話 転生、1999年の春
意識が浮上する。
泥のように重い疲労感も、締め付けられるような胸の痛みも、嘘のように消え失せていた。
代わりに感じるのは、羽毛のような柔らかさと、微かな柑橘系の香り。そして、遠くから聞こえる小鳥のさえずりだ。
(……ここは? 病院か?)
ゆっくりと瞼を開ける。
視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井でも、点滴のチューブでもなかった。
高い天井。そこから吊り下げられた、豪奢なシャンデリア。窓からは柔らかな朝の光が差し込み、レースのカーテンを揺らしている。
まるで、中世ヨーロッパの貴族の寝室のような部屋だった。
「……なんだ、これ」
口から漏れた声は、聞き覚えのないものだった。
低くしわがれた中年男の声ではない。変声期を少し過ぎたばかりのような、鈴を転がすような澄んだテノール。
俺は慌てて体を起こした。
視線が、自分の手元に落ちる。
そこにあったのは、キーボードを叩きすぎて節くれだった、あかぎれだらけの指ではなかった。
白く、細く、それでいてしなやかな指先。爪は丁寧に整えられ、肌にはシミひとつない。
これは、俺の手じゃない。
混乱する頭を抱えながら、俺はベッドサイドのキャビネットに置かれた鏡を手に取った。
そこに映っていたのは――
「……誰だ、この美少年は」
色素の薄いアッシュブロンドの髪。宝石のように透き通ったアイスブルーの瞳。陶器のように滑らかな肌。
黙っていれば宗教画の天使と見紛うような、浮世離れした美少年が、呆然とした顔でこちらを見つめ返していた。
その瞬間。
脳裏に、莫大な量の情報が雪崩のように押し寄せてきた。
西園寺玲央。15歳。
日本屈指の財閥「西園寺家」の嫡男であり、母親は伝説のハリウッド女優、西園寺ソフィア。
幼い頃から英才教育を受け、帝王学を叩き込まれた、文字通りの「深窓の御曹司」。
そして――
俺の記憶。
2025年の東京。大学在学中に起業し、一代で巨万の富を築き上げたIT企業の創業者兼社長。41歳。独身。
終わることのない取締役会、株主からの容赦ない突き上げ、市場の変動に晒され続ける重圧。
誰一人信用できない孤独な社長室で、冷めたコーヒーを啜りながら、ディスプレイの前で意識が遠のいていく感覚。
(ああ、そうか。俺は死んだのか)
過労死。富と名声の代償に、命をすり減らした最期。
それが俺の前世。
そして今、俺はこの「西園寺玲央」という15歳の少年の体に、41歳の記憶を持ったまま転生したのだ。
俺はふらつく足取りでベッドを降り、窓辺へと歩み寄った。
重厚なカーテンを開け放つ。
眼下に広がっていたのは、見慣れたはずの、しかしどこか懐かしい東京の街並みだった。
スカイツリーはない。高層ビルの数も、俺の知っている2025年よりずっと少ない。
サイドテーブルに置かれたカレンダーに目をやる。
そこには、こう記されていた。
『1999年 4月1日』
「1999年……」
世紀末。ノストラダムスの大予言。
世間が漠然とした不安と、新しいミレニアムへの期待に浮足立っていた時代。
俺は、この時代に帰ってきたのか。26年も前の世界に。
その時、俺はふと、枕元に見慣れないポーチが置かれていることに気づいた。
古ぼけた、使い古された黒い革のポーチ。
――間違いない。あれは、前世の俺が死ぬまで愛用していたセカンドバッグだ。
なぜ、こんな豪邸の寝室に、あんな薄汚れたものが?
吸い寄せられるように手に取る。
中には、一冊の通帳が入っていた。
前世で俺が使っていたのと同じ、大手都市銀行の通帳。だが、名義は『西園寺 玲央』となっている。
震える手でページを開く。
そこに記されていた数字を見て、俺は呼吸を忘れた。
『残高:31,000,000,000』
「……は?」
いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……。
何度も桁を数え直す。
310億円。
この数字には見覚えがある。
前世で俺が築き上げた個人資産の総額――それがちょうど310億円だったはずだ。
だが、その金は俺の死と共に、管財人やハイエナのような親族たちに食い荒らされたとばかり思っていた。
それが、なぜ?
なぜ今、現金としてここにある?
「……前世の退職金ってやつか?」
乾いた笑いが漏れる。
神様だか悪魔だか知らないが、随分と粋な計らいをしてくれる。
あるいは、死ぬまで働き続けた俺への、遅すぎる報酬なのかもしれない。
これは西園寺家の金でも、親からの小遣いでもない。
正真正銘、俺が前世で積み上げた血と汗の結晶だ。
310億円。
これだけの金があれば、何ができる?
一生遊んで暮らせる? いや、そんなレベルじゃない。孫の代まで贅沢ができる。
俺の脳裏に、前世の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
終わらない決断の連続。心を許せない人間関係。胃に穴が空きそうなプレッシャー。
唯一の癒やしだったペットショップのウィンドウ越しに見た子犬と子猫。飼いたくても、世話をする時間もなくて諦めた日々。
「……もう、働かなくていいのか?」
310億円があれば。
もう、顔も見たくない株主や投資家に頭を下げる必要もない。
数字のプレッシャーに追われることもない。
孤独な社長室で、命を削るような決断を迫られることもない。
好きな時に起き、好きなものを食べ、好きなことをして生きられる。
そんな夢のような生活が、約束されているのだ。
……いや、待て。
俺の中に眠る「経営者としての本能」が警鐘を鳴らした。
今は1999年だ。
これから何が起こる?
来年、2000年の春には「ITバブル」が崩壊する。
2008年には「リーマンショック」が世界経済をどん底に叩き落とす。
もし、この310億円をただ銀行に預けているだけだったら?
インフレや経済危機で、価値が目減りする可能性はゼロじゃない。
西園寺家というバックボーンがあるとはいえ、財閥だっていつ傾くかわからない時代だ。
だが、逆に考えれば。
俺は「未来」を知っている。
どの株が上がり、どの企業が覇権を握るのか。
いつ暴落が起き、いつが買い場なのか。
すべての「正解」を、俺は知っているのだ。
俺は立ち上がり、デスクに向かった。引き出しから真新しいノートを取り出し、ペンを走らせる。
『1999年 - 2000年:ITバブル崩壊』
『2001年:9.11テロ』
『2004年:G社上場』
『2007年:初代スマートフォン発売』
『2008年:リーマンショック』
『2011年:東日本大震災』
『2017年:仮想通貨バブル』
『2020年:パンデミック』
『2023年:生成AI革命』
ペン先が紙の上を滑るたびに、俺の心臓の鼓動は早くなっていった。
これは、ただの年表じゃない。
宝の地図だ。
今、アメリカのガレージで検索エンジンを作っている二人の若者に投資すれば、数年後には数千倍のリターンが得られる。
今、倒産寸前の「リンゴのマークの会社」の株を底値で買えば、将来は世界一の時価総額企業になる。
今、ネット通販で赤字を垂れ流している「A社」の株を買えば……。
ビットコインを黎明期に買っておけば……。
「勝てる……」
確信と共に、俺の口元が自然と歪んだ。
310億円を、ただ守るだけじゃない。
これを種銭にして、増やしてやる。
10倍? 100倍? いや、1000倍だ。
世界一の資産家になってやる。
そして、誰にも文句を言わせない、鉄壁の「城」を築くのだ。
二度と、あんな惨めな思いはしない。
二度と、社会の歯車として使い潰されたりはしない。
俺は、この人生をかけて、全力で「サボる」ために戦う。
最高の隠居ライフを手に入れるために。
犬と猫を飼って、日向ぼっこをして、たまに美味い料理を作って。
そんな至福の日々を守るためなら、俺は悪魔にだってなってやる。
「……ふっ、ふふふ」
鏡の中の美少年が、不敵な笑みを浮かべていた。
天使のような顔立ちに、41歳のしたたかな計算が張り付いている。なんともアンバランスで、魅力的な表情だった。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「玲央様、お目覚めでしょうか? 朝食の用意が整っております」
執事の声だ。
俺は瞬時に表情筋を緩め、鏡に向かって「ニッコリ」と微笑んでみせた。
完璧だ。どこからどう見ても、育ちの良い、純真無垢な御曹司。
前世で培った「営業スマイル」と、母親譲りの「演技力」が化学反応を起こしている。
「ああ、今行くよ」
声のトーンをワントーン上げ、優雅に応える。
俺はペンを置き、ノートを閉じた。
この「未来の予言書」は、誰にも見せるわけにはいかない。厳重に管理しなければ。
クローゼットを開けると、そこにはオーダーメイドの制服や、見たこともないようなブランド物の私服がずらりと並んでいた。
袖を通したシャツの肌触りは、前世で着ていた量販店の安物とは次元が違った。
俺は迷わず、イタリア製のシルクシャツとスラックスを手に取った。
今日は4月1日。学校はまだ春休みだ。
入学式まではあと数日ある。
鏡の前で襟を正す。
15歳の少年の体には少し大人びた服装だが、玲央の容姿には驚くほど馴染んでいた。
そこにいたのは、ただの高校生ではない。
310億円の資産を持つ、若き投資家だ。
ふと、デスクの端に置かれた封筒に気づく。
高級な和紙の封筒。差出人は「西園寺ソフィア」。
『親愛なるレオへ。
高校入学おめでとう。少し早いけれど、お祝いを贈るわ。
ママは撮影で入学式には行けないかもしれないけれど、心からお祝いしているわ。
今日はエイプリルフールだけど、貴方への愛は嘘じゃないわよ。
愛を込めて。マミーより』
短い手紙だが、母の愛情が滲んでいる。
前世では得られなかった、家族の温かさ。
前世の自分と決別し、この家族と新たな人生を歩むのだと、俺は強く誓った。
「よし」
俺は小さくガッツポーズをした。
今日から、俺の新しい人生が始まる。
ブラック企業の社畜はもういない。
ここにいるのは、未来を知る投資家であり、優雅なる隠遁生活志願者だ。
部屋を出て、長い廊下を歩く。
窓の外には、1999年の春の光が満ちていた。
テレビをつければ、きっとだんごの歌や、歌姫のデビュー曲が流れているだろう。
街に出れば、ルーズソックスを履いた女子高生たちが、PHSや出たばかりのiモード端末をいじっているはずだ。
ノストラダムス? 恐怖の大王?
そんなものは来ない。
来るのは、「IT」という名の革命と、「バブル」という名の狂乱だ。
そして俺だけが、その波の乗り方を知っている。
「……さて、まずは手始めに」
階段を降りながら、俺はポケットの中の携帯電話を握りしめた。
今日は4月1日。
エイプリルフールだが、俺の決意は嘘じゃない。
これから証券会社へ行って、口座開設の準備を進めるとしよう。未成年の口座開設には親の同意が必要だが、父さんは俺に甘い。上手く言いくるめられるはずだ。
まずはこの310億円の一部を使って、国内のネット株を仕込む。
Y社の株価は、あと半年で数倍になる。S社もまだまだ伸びる。
そして来年の3月、バブルの頂点で売り抜ける。
そこから空売りを仕掛けて、暴落相場でも利益を出す。
完璧なプランだ。
食堂の扉を開けると、芳ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。
「おはよう、玲央」
先にテーブルについていた父が、新聞から顔を上げて微笑んだ。
厳格だが愛情深い、西園寺財閥の当主。
そしてその向かいには、姉の摩耶がいる。
「おはよう、玲央。今日は早いのね。入学式までまだ休みでしょ?」
摩耶がトーストを齧りながら言った。彼女自身の入学式もまだ先のはずだ。
「おはようございます、父さん。姉さん」
俺は優雅に一礼し、席に着く。
ナプキンを膝に広げながら、心の中で呟いた。
(父さん、ごめん。俺、父さんの会社を継ぐ気はないんだ。俺は俺の力で、父さんを超える資産を作って、誰よりも贅沢に引きこもるから)
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