『蝮蛇の鎖 ~呂天、地下皇帝への道~』

@saijiiiji

プロローグ「堕ちた血脈」



---


暗い。


呂天の世界は、いつも暗かった。


蝮蛇塞の地下牢獄。湿った石壁に苔が生え、鼠の鳴き声と水が滴る音だけが響く。少年の体は傷だらけで、右腕は不自然な角度に曲がっていた。だが、痛みはもう感じていない。感じないのではなく、感じることを許されていないのだ。


「呂布の血か」


牢獄の扉の向こうから、太い声が聞こえた。蝮蛇塞の塞主・鄭蝮だ。彼は週に二度、呂天を訪れる。見張りの兵卒を従えて、あの肥満した体を揺らしながら。


「伝説では、呂布は猛虎だったと言うな。千年前の戦乱で、敵を次々と薙ぎ倒し、天下を揺るがした悪鬼。その血がお前の中に流れているはずなのに……」


鄭蝮は牢獄の格子を指で叩いた。乾いた音が鳴る。


「この程度か。所詮は雑種。正統性も何もねえ。ただの汚れた血だ」


呂天は目を開けなかった。開く理由がないからだ。鄭蝮に見つめられることは、獲物を見るときの鷹の目だ。その視線は呂天を支配し、呪う。


呂布の血。


その言葉だけで、呂天は十八年間、塞の奴隷として生きてきた。父親は知らない。母親も知らない。ただ、呂布という名前だけが、呂天の全てを決定づけていた。


三国志から千年以上が経ち、呂布の時代は遠く過去になっていた。しかし、その血は忘れられない。武林の歴史の中で、呂布ほどの野獣はいなかったのだ。赤兎馬に乗り、方天画戟を握った男。その男の血を継ぐ者は、必ず厄災をもたらす。そう、正派の人間たちは言っていた。


だから、呂天は生まれてすぐに売られた。蝮蛇塞という辺境の塞へ。そこで、彼は奴隷として、人間ではない何かとして扱われていた。


「明日、新しい試験を受けさせる」


鄭蝮が呟いた。


「強化改造の実験だ。うちの医者が新しい毒を開発してな。呂布の血がどこまで耐えるか、試してみたい。興味深い」


呂天の体が、かすかに震えた。それは恐怖ではなく、別の何かだ。


体の奥底から、何かが目覚めようとしていた。


心臓の鼓動が変わった。ドン、ドン、ドン。強く、激しく、規則正しく。それはリズムではなく、宣告のようだ。


*目覚めろ*


その声は、呂天自身のものではない。


*目覚めろ。苦しむな。支配しろ*


呂天の両眼が、ゆっくり開いた。


瞳の色が変わった。黒から、深紅へ。それは血の色であり、炎の色であり、支配者の色だ。


「ッ――」


呂天の口から、うめき声が漏れた。それは苦しみの声ではなく、何かが覚醒する音だ。体中の骨が軋み、筋肉が再構成される。不自然な腕がカクリと正常な位置に戻った。


傷は癒えない。だが、その傷さえも力へと変わっていく。


「何だ、何が起きた」


鄭蝮が後ろへ下がった。兵卒たちも、訝しげな視線を向ける。


呂天はゆっくり立ち上がった。破れた衣服の下から、漆黒の紋様が浮かび上がる。それは文字のようでもあり、紋章のようでもあり、呪いのようでもあった。


体内で何かが動いている。心臓の場所で、何かが脈動している。


これが、俺の力か


そう思った瞬間、別の声が聞こえた。それは自分のものであり、自分のものではない声。


*俺は呂布だ。千年を超えて、ついに目覚めた。お前の体を借りて、俺は復活する*


呂天は戸惑った。だが、戸惑う間もなく、力が溢れ出す。両足が地を蹴り、格子が砕ける。音もなく、ただ壊れた。


「逃げろ!」


鄭蝮が叫んだ。兵卒たちが剣を抜く。だが、もう遅い。


呂天――いや、呂布の力が目覚めた少年は、彼らを見下ろした。その眼差しに、支配者の意志があった。


「死ね」


一言。それだけだ。


だが、その一言の中には、千年の怨念と、新しい野心が詰まっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る