寂寥のリコリス

αβーアルファベーター

第1話 春風の名前(前半)

――プロローグ


季節は、四つあるものだと、誰もが疑わなかった。


春は理由なく心をほどき、

夏は生きることを肯定し、

秋は別れに意味を与え、

冬はすべてを静かに眠らせる。


それらは巡り、重なり、

人の感情と同じ速さで移ろっていた。


――あの日までは。


世界を守っていたのは、たった四人の少女だった。


彼女たちは英雄ではない。

剣も魔法も使わない。


ただ、“季節そのもの”として生きていただけだ。


春の少女・ハル。

夏の少女・ナツ。

秋の少女・アキ。

冬の少女・フユ。


彼女たちが笑い、泣き、迷うたびに、

世界の気候もまた、わずかに揺れていた。


だがある日――

春と秋が、同時に立ち止まった。


それは、世界が静かに壊れ始めた日だった。



◇◆◇


第一話 春風の名前


その朝、ハルは目覚めると、理由もなく笑っていた。


「ねえねえ、今日は絶対いい日だよ!」


理由を聞かれても、答えられない。

けれど胸の奥がぽわぽわして、

窓の外の風が、自分の名前を呼んでいる気がした。


それが春だった。


ハルはいつも、そうだった。


制服のリボンを結びながら鼻歌を歌い、

階段を二段飛ばしで駆け下りる。


転びそうになっても笑う。

失敗しても、次はうまくいく気がする。


世界が「まあ、いいか」と許してくれる季節。


それが、彼女だった。


「ハル、廊下は走らないで」


後ろから聞こえた穏やかな声に、

ハルはくるりと振り返る。


アキがいた。


長い髪を一つに束ね、

どこか夕暮れのような瞳をした少女。


「えー、だって遅刻しちゃうよ?」


「遅刻する前に転んだら、もっと遅れるでしょう」


そう言いながらも、アキは叱らない。

ただ、ハルの制服の襟をそっと整えてやる。


その指先は、いつも少しだけ冷たい。


「ねえアキ、今日さ、桜もう一回咲く気しない?」


「……それはさすがに無理よ」


微笑みながらも、アキは空を見上げた。


校舎の裏に並ぶ桜は、すでに散りかけている。

花びらは風に舞い、

地面に淡い影を落としていた。


終わりを知るのが、秋の役目だった。


「でもね」


アキは小さく続ける。


「散るから、きれいなのよ」


ハルはその言葉の意味が、よくわからなかった。


だって春は、始まりしか知らない。


「ふーん? じゃあ、また咲けばいいのに!」


そう言って笑うと、

アキは少しだけ困ったように微笑んだ。


その瞬間だった。


――胸の奥が、ひどくざわついたのは。


風が止まった。


正確には、止まった“ように感じた”。


校庭の木々が揺れない。

雲が、流れない。


時間が一拍、遅れたような感覚。


「……ハル?」


アキが名を呼ぶ。


だがその声が、遠く聞こえた。


胸の奥にあった“春の温度”が、

じわりと薄れていく。


理由のない笑顔が、うまく作れない。


「ねえ……私、今――」


言いかけた言葉は、風に乗らなかった。


アキも同時に、息を詰める。


彼女の足元に、桜の花びらが一枚、音もなく散った。


まだ夏前だというのに。


「……来たわ」


アキの声が、震える。


「何が?」


「“季節の均衡点”が……ずれてる」


ハルはその言葉の意味を、まだ知らない。


けれど――

自分が自分でなくなっていくような、

ひどく寂しい予感だけは、はっきりと感じていた。


春風は、もう吹いていなかった。



◇◆◇


ナツは、屋上にいた。


フェンスに片足をかけ、

照りつける太陽を真正面から睨みつけている。


「……暑すぎでしょ。まだ五月だよ?」


制服の袖を無理やりまくり、

首元をぱたぱたと扇ぐ。


それでも風は来ない。


いつもなら、

ハルが笑えばどこからともなく吹いてくるはずの、

あの軽やかな春風が。


「チッ……」


舌打ちと同時に、

空気がわずかに揺れた。


熱が、膨張する。


雲が逃げるように散り、

日差しだけが異様なほど強まった。


それが夏だった。


ナツの感情は、そのまま気温になる。


怒れば熱波。

焦れば乾燥。

走れば、太陽が追いかけてくる。


「……バランス悪いな」


呟いた瞬間、

背後から澄んだ声がした。


「それは、あなたのせいだけじゃないわ」


振り返ると、フユが立っていた。


白い息も出ないのに、

彼女の周囲だけ、温度が一段低い。


姿勢は真っ直ぐ。

瞳は水面のように静か。


感情を揺らさないことで、

世界を保つ少女。


「フユ。そっちでも感じてる?」


「ええ。春の循環が……いつもより弱い」


ナツは眉をひそめた。


「弱いっていうかさ。ほとんどゼロに近い」


フユは少しだけ視線を伏せる。


「アキの波長も、不安定よ」


その言葉に、

ナツの胸の奥がざわりとした。


四季は、四人でひとつ。


誰かが欠ければ、

残りが無理をして補うしかない。


「……ハル、大丈夫かな」


その名を出した瞬間、

熱が一気に跳ね上がった。


ナツの感情が、空に伝わる。


「落ち着いて」


フユが静かに言う。


「あなたが燃えすぎると、世界が乾く」


「わかってるって!」


叫びながらも、ナツは拳を握りしめた。


――春がない。


それは、想像以上に恐ろしいことだった。


始まりがない世界は、

前に進む理由を失う。



◇◆◇


その頃、校舎裏。


アキは、しゃがみ込んでいた。


指先に触れた一枚の花びらが、

脆く崩れる。


「……早すぎる」


本来、秋は“気配”として現れる。


ゆっくり、静かに。


誰にも気づかれないように、

夏の終わりを知らせる役目。


だが今は違う。


終わりだけが、前倒しで押し寄せている。


「アキ……」


ハルの声は、かすれていた。


さっきまであったはずの、

明るさが抜け落ちている。


笑おうとしても、

口角がうまく上がらない。


「ねえ……私、変だよ」


胸を押さえながら、ハルは言った。


「なんか……楽しくない」


それは、春にとって致命的な言葉だった。


理由のない喜び。

根拠のない希望。


それらがなければ、春は成立しない。


アキは立ち上がり、

ハルの額にそっと手を当てる。


――冷たい。


「……ハル」


声が震えた。


「あなた、自分の季節を感じる?」


ハルは首を振る。


「風が……来ない」


その瞬間、

アキの胸に、はっきりとした理解が落ちた。


これは一時的な不調ではない。


世界の“器”が、変わろうとしている。


四季という構造そのものが――。


「アキ……私、怖い」


ハルの指が、アキの袖を掴む。


その力は、ひどく弱かった。


守る側の存在が、

誰かに縋っている。


それだけで、答えは十分だった。


「大丈夫よ」


アキはそう言いながら、

自分が一番、信じられていなかった。


空が、異様な色を帯び始める。


春の柔らかさも、

初夏の深みもない。


ただ、

“強すぎる光”と

“過剰な影”だけが残る予兆。


夏と冬しか、許されない世界。


その境界に、

二人は立たされていた。


そういえば去年の秋、

校舎の花壇に、

一輪の彼岸花が咲いていた。


あの時の、花の意味……


アキはそれを思い出し、

静かに呟いた。


「……リコリスは、本来――」


――別れの花。


その言葉を、

口にすることはできなかった。


ハルの手が、震えていたから。


春と秋は、

もうすぐ世界を守れなくなる。


それでも、まだこの時は――

誰も、完全な喪失を知らなかった。


(続く)





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