狐日和

約束




あんな約束、するんじゃなかった。




もう何百年経ったのか。




彼女は、まだ来ない。







父ちゃんは変わり者だった。


村の者とは最低限の交流しか持たず、皆からは村はずれに住んでいる「おかしな木こり」だと思われていた。




元々口数が少なかったのが、母ちゃんが居なくなってから酷くなった。



飯時でもほとんど喋らず、ただ食って、働いて、寝るを毎日繰り返していた。




村は貧しかった。


長雨が降る度に川が暴れ、田畑が流された。


厳しい年貢の取り立ても容赦は無く、村の者達はいつも腹を空かしていた。





村の畑から芋を盗んで食ったのが父ちゃんにバレて、こっ酷く叱られた事がある。



「母ちゃんが泣くぞ。」



そう言われて、俺は何も言えなくなった。






同じ年頃の子供は村にも何人かは居たが、皆空腹で元気が無かった。




唯一いつも笑っていたのは、牛飼いの娘の「小春」だけだった。




小春は少し頭が鈍かった。


上に兄貴が二人居たが、いつも小春は一人で遊んでいた。



妹を連れて山へ遊びに出掛けても、小春はいつも兄達とはぐれたり、転んで怪我をしたりと、ロクな事が無かった。



いつの日か小春は、ぼんやりと川岸に座って犬猫を撫でて花冠を作って遊ぶ子になっていた。





俺はあの日、虫の居所が悪かった。


些細な事で村の子供と喧嘩になり、取っ組み合いの殴り合いになった。



三人相手ではどうにもならず、腫れた顔を冷やそうと川に行った時、小春はしゃがみ込んで猫を撫でていた。



「怪我したの?」



俺は返事をしなかった。


心配されるのが悔しかった。




返事をしないまま顔を洗う俺の背中を、小春はゆっくりと撫でた。




「早く治ると良いねぇ。」



俺は泣いていた。


何の涙なのか分からなかった。



泣きべそをかきながら顔を上げた俺の泣き顔を見て、驚いた小春は自分まで泣き始めた。



二人してわんわん泣いた後、小春はゆっくりと立ち上がると涙を拭きながら笑った。



「明日は花冠作ってあげるから、もう泣かないで。」




「お前だって泣いてるじゃねえか。」



恥ずかしかった。


自分よりも少し年下に慰められている自分が情けなくて、嬉しかった。



「また明日ね。」



そう言うと、小春は俺の返事も聞かず村の方へと駆け出して行った。





気がつくと、俺は毎日川に向かっていた。


小春はいつも犬や猫の隣で花冠を作っていた。





沢山の話をした。


食べたい物、行きたい所、着てみたい着物。



小春は思っていたよりもお喋りだった。



口下手な俺を知ってか知らずか、何度も聞いた話を「それでね、それでね」と繰り返した。




俺は小春と過ごす毎日が好きだった。




ある日の夕暮れだった。



「私を小太郎のお嫁さんにしてよ。」



小春は、微笑みながら俺に小指を差し出した。




俺は、真っ直ぐな小春の目を見られないまま、ゆっくりと小春の小指と自分の小指を結んだ。






「約束ね。」






梅雨の長雨で田畑が流された、薄気味の悪くなるような曇りの日だった。



薪を売りに行った俺が村の井戸端で耳にしたのは、川の神に捧げる人柱を誰にするかという話だった。




「あれは頭が鈍い。長吉もお貞も、嫌とは言わんだろう。」



村長の声が聞こえた。



俺は背中からぼろぼろと溢れる薪を拾いもしないまま、大急ぎで川に向かった。



何も知らずに呑気に花を摘んでいた小春は、鬼の形相で駆けて来る俺に驚いて、咄嗟に立ち上がる。



「小春!逃げるぞ!」



「何処へ?」と言う小春の問いに答えないまま、俺は小春の手を握りしめて山へと駆け出した。



「痛いよ!小太郎!どうしたの⁉︎」




「あとでゆっくり教えてやる!お前は人柱にされちまうんだ!この村から逃げるぞ!」




俺が走りながら答えると、小春は俺の手を強く引いて立ち止まるように促した。



「それで皆が助かるなら、小春はいいよ。」




小春は弱々しく笑っていた。



「皆んな、お腹空いてるから。」



小春は、俺の手をゆっくりと握り返す。



「小太郎。お腹いっぱいになると良いねぇ。」





駄目だ!



駄目だ!



何を笑ってるんだ!



お前は死ぬんだぞ!



どうして笑えるんだよ!



小春の気持ちと自分の気持ちが噛み合わない事を悟った俺は、膝から崩れ落ちた。



「明日は花冠作ってあげるから、もう泣かないで。」



自分の明日がもうじき来なくなるのを知ってか知らずか。




小春は泣きじゃくる俺の背中を撫でていた。




「また遊ぼうね。」



俺は何も言えなかった。









「薪はどうした?」


泣き腫らした俺の顔に気付いたのか、父ちゃんは何かを察してそれ以上何も言わなかった。





無言の晩飯。


俺は椀につがれた飯に手をつけず、ただ黙って俯いていた。



「食わんのか?」



父ちゃんはゆっくりと俺に聞いた。



大人達の理不尽に耐えられなかった俺は、今日聞いた事を全てぶち撒けた。




「そうか…」



父ちゃんはゆっくりと椀を置いた。



父ちゃんなら、大人なら何か良い案をくれるかもしれない。



俺にはその希望しか残されていなかった。



「なぁ!父ちゃんなら何とか出来ないか⁉︎小春を助けてやりたいんだよ!村の為にあいつが死ぬなんて、そんなの酷いじゃないか!」



父ちゃんは柔らかく微笑むと、ゆっくりと椀を置いて俺の頭を撫でた。



「お前はやっぱり、父ちゃんの子なんだな。」



見た事も無い優しい目だった。



しわがれた声で、父ちゃんはゆっくりと語り始める。









お前が生まれた年の事だ。




あの夏も川が暴れてな。


それは酷いもんだったよ。




同じように人柱を建てるって話になった。



恨みっこ無しのくじ引きでってな。



俺は反対したよ。


だが、村の連中は殺気立ってた。



誰かを贄に捧げなきゃ、収まりがつきそうになかった。



父ちゃんが引いちまったんだ。


あの年に生まれたお前を出せってな。



家に戻って事を伝えたら、あいつは怒ってな。




私が行くと言い出した。



俺は止めたよ。



お前を連れて村から逃げようと、一晩中必死に止めた。


あいつは聞かなかった。




村の皆んなが腹を空かしてる。


この子にも腹一杯食わせてやってくれ。





それがあいつの願いだったんだ。




それから、不思議と何年かは川が暴れなかった。


俺は村の人間達に感謝されたよ。


頼んでも無いのに餅だの野菜だの、沢山持って来た。



お陰で俺もお前も飢えはしなかったが、俺はどうしても村の連中を許せなかった。


この村はずれに移り住んで、村の連中と関わらず暮らすようになったんだ。






信じられない話だった。



母ちゃんは居なくなったと聞かされていた。



でも、本当は違っていた。



小春と同じように、村の為に。



俺の為に。




「食え。遺された者は、それしか出来ん。小春も母ちゃんも、そう願ってるんだ。」



泣きながら食う飯は、いつもより塩辛かった。






あれから三日が経った。



俺はあの日から川には行けなかった。



助けてやる事も出来ない俺が小春に合わす顔など無かった。




会うのが怖かった。


諭されるのが怖かった。


俺よりも小さな手で慰められるのが怖かった。




その日、降り続いた雨が嘘のように止み、外は日本晴れだった。



家の中で丸くなっていた俺に、外から声が聞こえた。




「小太郎ー!居るかー⁉︎」



小春の一番上の兄、大五郎の声だった。



俺が起き上がって戸を開けると、大五郎は暗い顔のまま俺に花冠を差し出す。




「儀式、昨晩だったんだ…小春がお前にって。」




聞きたくなかった。


認めたくなかった。



あの川に行けば、いつものように小春は微笑みながら花冠を作っている。


そう思っていたかった。



受け入れられない言葉に、俺の頭の中で火花が散った。




気付くと俺は大五郎に馬乗りになり、力任せに殴り付けていた。



「なんでだ!なんで止めなかった!兄貴だろうが!妹だろうが!なんでだ!なんで!」



殴られながら、大五郎は泣き出す。



「止めなかったと思うか!あいつが言ったんだ!『父ちゃんも母ちゃんも兄ちゃんも小太郎も、腹一杯になるといいね』って!俺はあいつがあんなにはっきりと話すのを初めて聞いたんだ!笑ってたんだ!止められるもんか!」





俺は、急に手の痛みを覚えた。


悲しいのは、大五郎も同じだった。




「悪かった」と謝る俺に花冠を握らせると、大五郎はとぼとぼと帰っていった。





夜になっても俺は何をする気にもなれず、ただ花冠を抱えて丸くなっていた。



父ちゃんは何も言わなかった。



自分もそうだった事を思い出したのかもしれない。





「ごめん、父ちゃん。少し出て来る。」



父ちゃんは止める事も無く「気をつけてな」とだけ言うと、ゆっくりと胡座をかいた。






俺は真っ直ぐに家を駆け出した。



頭の中が冷たく煮えたぎっていた。




小春の花冠を握りしめたまま、大声で泣き喚きながら夜の道を走った。



ちょうど声が枯れる頃、俺は川岸にある祠に辿り着いていた。




祠の隣に小さく積まれた石の山の傍に、真っ白な花が供えられていた。



俺は泣き崩れた。




小春は、もう居ない。


ここに来ても、小春にはもう会えない。




受け止められなかった。


俺は祠の前で泣きながら、ひたすらに川面に石を投げ続けた。





どれくらい時間が経ったのか。



耳元で聞こえていた虫達の鳴き声が、少しずつ少しずつ小さくなっていった。



ぼんやりと目の前が明るくなっていく。



まるで蛍が集まって来たかのような光の粒達がひと塊りになると、それは小さな獣の大きさになった。





それは、闇の中でもはっきりと分かるほどに輝く、白く美しい狐だった。




「やかましい小僧だ。今この場で喰らってやろうか。」



面食らって立ちすくむ俺に、狐は構わずに続ける。



「お前が誰かは分かっておる。昔お前の父もここに来た事がある。あの晩お前の父もここで泣いておった。」




そうか。


だから父ちゃんは俺を止めなかったのか。



「お前達の事もずっと見ていた。」




呆気に取られたままの俺に、狐はゆっくりと語る。




「この川に住む蛇神は厄介でな。人柱で大人しくなるのも数年だろう。年老いた我の力ではもう抑えられん。村が流されないようにするのが精々だ。」




「お前が小春を喰ったのか?」



「話を聞いておったのか?あの下賤な蛇神と一緒にするな。誰があんな痴れた餓鬼など喰うものか。あれは蛇神への捧げ物だ。あやつもしばらくは大人しくしておるだろうさ。」




この狐の言う事が本当なら、小春は蛇神に喰われたのか。


俺は、怒りで気を失いそうになった。



「逸るな小僧。あやつを憎むのは構わんが、人の身ではどうなるものでもない。」




狐は少し口調を早めた。



「どうじゃ小僧。取引と行こうじゃないか。」



「取引?」



「我はもう疲れたのだ。そろそろ天に帰りたい。お前が我の代わりとなって、蛇神を抑えこの地を守れ。」



俺は声を荒げながら答えた。



「誰がこんな村守るか!小春を殺した連中だぞ!何なら蛇神を今すぐにでも叩き起こしてやりたいところだ!村の連中が全員死んだら、その後で蛇神も殺してやる!」



狐は笑う。


「威勢が良い小僧じゃの。あやつは強いぞ。だが、お前はまた若い。お前なら、あやつを仕留められるかもしれんな。あぁ、それと…」



狐はゆっくりと言う。



「あの娘の魂は、いずれこの村に戻って来る。人は生まれ変わりを繰り返しながらこの世を巡るのが定め故な。その時に、この村が川に飲み込まれていなければの話だが。ここで待っておれば、いつかはまた逢えるやも知れぬな。」




「それは…本当か…?」



「舐めるなよ小僧。取引で嘘を吐く程落ちぶれてはおらん。」



狐はゆっくりと尻尾を振りながら、真っ直ぐに俺の目を見つめている。




「父ちゃんは…?父ちゃんはどうなる?俺が居なくなったら、父ちゃんは一人きりだ。」



「心配は無用だ。お前が居った事は忘れさせ、村の女とでも契らせよう。それなら、お前も心残りはあるまい?」




そうか。



この取引を俺が承知すれば、父ちゃんも一人にならず、俺はまた小春に逢えるのか。




「一つ頼みがある。」



「何だ?厄介な願いは勘弁してくれ。それほど力は残っておらんのだ。」



「一目で良いから、小春に逢いたい。」



「チッ。面倒な小僧だ。疲れる仕事を頼みおって。」




狐は純白の尻尾を扇のように振り回し、ゆっくりとした口調で言った。



「明日、夜が明けたらここに来い。あの娘とも逢えるだろう。今晩が人としての父との今生の別れだ。悔いなど残さぬよう、精々父の元で思い切り泣いて来い。」




言い終わると、狐は溶けるように夜の闇に消えていった。





俺が家に帰り着くと、父ちゃんはまだ起きていた。



俺が帰って来るのを、眠らずに待っていてくれたのだろう。



俺の顔を見て、父ちゃんは何も言わずに布団を敷く。




俺も何も言わず、父ちゃんの横に寝転がった。




真っ暗な闇の夜。



布団の擦れる音だけが聞こえていた。



「父ちゃん。」



「どうした?」



「いや…ありがとう。」



「ふん。おかしなやつだ。」




父ちゃんは少し笑いながら答えた。





俺はあまり眠れなかった。



鳥の鳴き声が聞こえ始めた頃、俺は父ちゃんを起こさないように布団を抜け出し家を出ようとした。




「小太郎。」




父ちゃんは起きていた。


布団から身を起こさないまま、ゆっくりと俺に声を掛ける。




「気をつけてな。」



「ああ。父ちゃんも。」




俺はそれだけ言うと、家から飛び出した。




生きて来た中で一番早く走った。


風よりも早く。


小春に。


小春に逢う為に。






祠に着くと、辺りは生き物の声が一切聞こえないほど静まり返っていた。


川面は鏡のように光りながら揺れている。


人を喰う蛇神が眠っているのが信じられないような美しい景色だった。



俺は祠の前でゆっくりとしゃがみ込み、小春の好きだった花を一本手折り、小春の塚に手向けた。



そっと、誰かが俺の背中を撫でる。




振り返った俺の背後で、まるで白無垢のように真っ白な着物の着た小春が、微笑みながら立っていた。



「小春っ!小春っ!」




俺の声は届いたのか。


小春は微笑みを絶やさないまま、朝靄の中に消えて行った。



「どうだ小僧。約束は守っただろう?今度はお前の番だ。」




気が付くと、目の前にあの狐が立っていた。



俺がゆっくりと頷くと、狐は空を見上げてゆっくりと尻尾を振る。



雲も無い空から、ゆっくりと雨が降り始めた。



「良い狐日和じゃな。小僧。あとは任せるぞ。」



「最後に一つ聞かせてくれ。俺は、いつ小春に逢える?」




狐が笑った、ような気がした。



「さあな。流石に我とて魂の理までは分からん。だが、あの娘がお前に逢ったら、最初に何をするかは覚えておるだろう?」



それだけ言い終えると、狐はゆっくりと空へ昇って行った。










蛇神は強かった。




荒れ狂うあいつを抑えるのは、信じられないほど力がいる。



負けそうになっては川が暴れ、村はまた飢えた。



村人が人柱を立てようとする度に、俺は村の長の夢枕に立ち、止めるようにと説得した。



本当に紙一重だった。



俺が蛇神の喉笛を噛みちぎった時、あいつの牙も俺の喉に突き刺さっていた。




力を戻そうと眠っていた俺を、修験者の男が叩き起こした。



優しくも力強い目が、小春によく似ていた。



村を立て直す為に力を貸せと、男は言う。



俺は取引を持ちかけた。



「お前の子孫の娘を、俺の嫁に寄越せ。」



この男の子孫なら、小春と瓜二つの子も生まれるかもしれない。




男は渋々承知して、この地で寺を構えた。




子孫の娘が来る度に、俺は「好みではない」と嘘をつき、記憶を消して追い返した。



小春に少しも似ていない娘達の白無垢を見る度に、小春の白装束を思い出して悲しかった。




村で疫病が流行った時、約束だった子孫の娘が

逃げ出した。


家中で人がバタバタと倒れるのを、やつらは俺の祟りだと恐れ、逃げ出した娘を捕まえて俺に差し出して来た。



結局はその娘も小春ではなかった。











あんな約束するんじゃなかった。



もう何百年経ったのか。



小春はまだ、来ない。








今年もまたハズレだろう。




チッ。




…やっぱりな。



小春に一つも似ていない。







追い返そうと冷たく突き放した俺の言葉を聞いて、娘はうなだれてしゃがみ込んだ。



もういい。


疲れた。



村は町になり、俺の祠も川から山へと場所を変えた。





だが、どれだけ待っても小春は来なかった。





もういい。



娘はいらん。



帰ってくれ。



一人にしてくれ。







絶望する俺の背を、白無垢を着せられた娘はゆっくりと撫でた。





俺は、川岸に座り込んだ小春の小さな温かい手を思い出していた。






『また逢えたね』




そんな声が聞こえた気がした。








外は、晴れているのに雨が降っていた。


絶好の『狐日和』だった。

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狐日和 @gin5656

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