ナポレオンの辞書
御戸代天真
ナポレオンの辞書
『吾輩の辞書に、不可能という文字はない!』
人類史に燦然と輝く、かのナポレオン・ボナパルトの格言だ。
だが、果たして本当にそうなのだろうか? 単なる強がりやプロパガンダではなく、それが紛れもない真実なのか。長年謎とされているこの言葉は、何がきっかけで生まれたのか――――
そんな途方もなく、馬鹿げた疑問に取り憑かれた男がいた。
時空の歪みを研究し尽くした天才にして、生粋の変人である、
博士は自らの人生において、提言したことを幾度となく不可能だと嘲笑されてきた。
例えば彼の提唱した『量子過去視理論』は、当初はSFの戯言と一蹴された。だが今では、衛星軌道上の施設で遥か昔の星の誕生を視る実用技術と化している。あるいは、数億光年先の銀河から届く微弱な重力波を抽出し、その源を正確に特定するという、まさに奇跡のようなものだった。
彼は文字通り、不可能を可能にしてきた。だからこそ、ナポレオンの言葉が博士にとっては単なる名言でなく、人類の進歩と挑戦の象徴として、心臓に杭を打つように突き刺さっていたのだ。
「見るのだ! ナポレオンが実際にその辞書から、『不可能』の文字を消し去った様を、しかとこの目で!」
薄暗い研究室の奥には、博士の狂気じみた情熱を煮詰めたかのような、怪しく発光する巨大な機械が鎮座していた。それは、タイムマシン『クロノス・デマカス号』だ。世間からはガラクタと嘲笑されたその塊には、博士が捧げた半生と、幾度となく不可能を可能にしてきた執念が、錆びたボルトの一つ一つに染み込んでいた。
燃料計の残量と、時空離脱シミュレーションの結果を睨み、博士はニヤリと笑った。目的地は1815年。エルバ島を脱出し、ワーテルローの戦いへと向かう直前のナポレオンだ。多忙を極める彼ならば、きっと問題の辞書を机の上に置きっぱなしにしているに違いない。
「さあ、いざゆかん! 今この時が、歴史の真実を暴き立てる、偉大な瞬間となるのだ!」
博士がスイッチを押すと、デマカス号は地中を蠢く巨大な獣のように、地を這うような轟音を響かせた。強烈な光が視界を白く焼き、空間は熟れた果実のようにねじ曲がった。胃の腑が捩れるような不快感は、まるで時間そのものに魂を掻き回されるかのようだった。
ふと体が軽くなり、瞼を開ければ、そこは確かに古めかしくも豪奢な書斎だった。壁には膨大な蔵書が並び、中央の重厚なマホガニーの机には、書類の山が作られていた。その山の一番上には、まさに博士が求めていたものが置かれていた。
それは、想像していたような分厚い革張りの辞書ではなかった。使い込まれた表紙を持った、薄いノートのような代物だった。どうやらナポレオンが日頃から持ち歩き、メモや学習に用いていたらしい。博士は慎重に、しかし逸る気持ちを抑えきれずにそれに手を伸ばす。歴史を、いや、人類の神話そのものを覆す瞬間が今、訪れようとしていた。
ページを捲ると、そこにはナポレオン直筆の、流麗なフランス語がぎっしりと書き込まれていた。軍事戦略、政治構想、部下への指示。そして時折混じり合う、「侍」や「刀」などの日本語らしき文字。なるほど、どうやらナポレオンは、知られざる日本文化に興味を抱き、密かに日本語を学んでいたらしい。博士の心臓が激しく高鳴る。
「これだ! きっとこの中に、あの有名な言葉の真実が隠されているに違いない!」
博士は血眼になって『不可能』あるいは『impossible』という文字がないか、指を滑らせた。
そしてついに、そのページを見つけた。
だが、そこには『不可能』の文字は、どこにもなかった。
代わりにページの真ん中に、慣れない筆致で『諦める』という日本語が書き込まれていた。しかし、その『諦める』という文字の『諦』の部分が、何度も何度も、まるで感情をぶつけるかのように力強く、紙が破れる寸前まで擦り消されていた。その痕跡は、液体が滲んだというより、強い意志で消し去ろうとしたように見えた。
「な……なんだ、これは……」
その時、博士の脳髄を貫くような閃きが走った。
ナポレオンの「辞書に不可能はない」という言葉は、実は自分の人生から諦めるという選択肢を力ずくで消し去ろうとした、個人的な闘いの証だったのだと、博士はすべてを悟った。
博士の脳裏に、自身の半生がよぎった。不可能だと嘲笑されながらも、時空を超える機械を作り上げた自身の姿と、ナポレオンが必死に諦めるという言葉を消そうとした姿が重なった。
「なるほど……たしかに、『不可能』ではない……か」
博士は虚ろだった目に、静かな光を宿した。
ナポレオンは、部下に向けて不可能はないと豪語する一方で、人知れず自分の内側にある諦めと戦い、それを自身の辞書――いや、精神から消し去ろうとしていたのだ。それは偉大なる英雄の、あまりにも人間的で、切なく愛おしい努力の跡だった。
デマカス号が、再びけたたましい音を立て始めた。帰還の合図だ。
博士は、ナポレオンのその小さな辞書をそっと閉じ、胸に抱きしめた。
人間の歴史とは、偉大な言葉の裏にある、不器用でしかし確固たる『諦めない』という個人的な意志によって、紡がれているのかもしれない。
博士は心の中で、ナポレオンに深く一礼した。博士が本当に探していたものは、歴史の真実ではなく、時代を超えた一人の人間としての共感だったのかもしれない。
ナポレオンの辞書 御戸代天真 @Pegasus
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