第10話 戻らなかった、という事実だけが残った
その日の朝、ギルドの空気は、いつもと同じようで、どこか違っていた。
酒の匂いも、笑い声も、依頼書を巡る喧騒も変わらない。だが、耳に入ってくる言葉の端々に、わずかな引っかかりが混じっている。誰かが何かを言いかけて、途中でやめる。視線を合わせかけて、逸らす。そんな仕草が、あちこちで見られた。
私はいつも通り、掲示板の前に立った。
中央の依頼を一通り確認する。内容は昨日と大きく変わらない。討伐、護衛、見回り。条件が明確で、危険度と報酬が釣り合っているもの。今日もそれらは、順調に剥がされていく。
そして、視線が自然と端へ向かう。
掲示板の右下。
あの場所。
そこに貼られていたはずの依頼書が、消えていた。
「……」
一瞬、呼吸が止まった。
剥がされた跡が、はっきり残っている。紙の色が違う。そこに確かに何かが貼られていた証拠だ。
近郊村落周辺の異変調査。
危険度:低。
報酬:銀貨五枚。
あの依頼は、もうない。
誰かが、受けた。
それを理解した瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。驚きよりも先に来たのは、妙な納得感だった。いつかは、誰かが受ける。そう分かっていたはずなのに、実際にそうなると、思った以上に重い。
周囲を見回す。誰かが嬉しそうに話しているわけではない。むしろ、いつもより声が低い。目が合っても、すぐに逸らされる。
「……あれ、受けたの誰だ?」
背後で、そんな声が聞こえた。
「新人じゃないらしい」
「中堅だって」
「二人組だったって話だぞ」
断片的な情報が、曖昧なまま流れていく。確かなことは、誰もはっきりしたことを知らない、という一点だけだった。
受付に向かうと、職員の表情がいつもより硬いことに気づく。
「……例の依頼、受けた人がいるんですね」
探るように言うと、職員は一瞬だけ言葉に詰まった後、事務的な口調で答えた。
「はい。昨日の午後です」
「戻ってきては……?」
「まだ、です」
その「まだ」が、妙に重く響いた。
期限は三日。
今日で、二日目。
戻っていなくても、即座に問題になる時間ではない。だが、ギルドの空気は、それを待つ余裕を失いかけている。
私は依頼を一つ受け、ギルドを出た。内容は街道の簡易見回り。いつもと同じ、安全寄りの仕事だ。だが、頭の片隅から、あの依頼のことが離れない。
街道を歩きながら、考える。
もし自分が受けていたら。
もし、報酬に目が眩んでいたら。
銀貨五枚。日本円感覚なら二万五千円前後。前世なら、多少無理をしてでも飛びついていたかもしれない金額だ。だが、ここでは違う。その金額は、危険を覆い隠すための餌にもなり得る。
依頼を終え、夕方にギルドへ戻る。
空気は、さらに重くなっていた。
掲示板の前に、人だかりができている。だが、新しい依頼が出たわけではない。皆、ただ立っているだけだ。
「……まだ戻らないな」
「村までは、そう遠くないはずだろ」
「何かあったんじゃないか」
声が、低く、短くなる。誰も大声で言わない。それが、かえって不安を煽る。
私は少し離れた位置から、その様子を見ていた。無理に輪に入る必要はない。情報は、近づかなくても流れてくる。
夜が近づいても、戻ってきたという報告はなかった。
受付の職員が、奥へと消える。ギルド長らしき人物が姿を見せ、何人かの冒険者と小声で話している。その様子を見ただけで、状況が良くない方向へ進んでいることが分かる。
「……捜索、か」
誰かが呟いた。
その言葉に、周囲の空気が一段、冷える。
私はその場を離れ、外に出た。夜風が、昼間よりも冷たい。胸の奥に溜まったものを、少しだけ冷ましてくれる。
もし、戻ってこなかったら。
その場合、あの依頼は「失敗」として扱われる。
だが、失われたのは、依頼の成功不成功だけではない。人だ。名前も、顔も、まだはっきり知らない冒険者だが、それでも確かに生きていた。
宿へ戻り、剣を外す。
ベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。
「……正しかったのか」
自分の判断が。
受けなかったこと。
覚えておくだけにしたこと。
答えは、まだ出ない。
だが一つだけ、はっきりしていることがある。
慎重であるという選択は、少なくとも今日の自分を、ここに生かしている。
明日、何が起きるかは分からない。
あの依頼の真相が、どんな形で明らかになるのかも。
ただ、もう一度だけ、掲示板を見る必要があるだろう。
そこに、何が貼られるのか。
それを確かめるまでは、動かない。
そう決めて、私は静かに目を閉じた
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やり直すなら、慎重な人生で ―過労死社畜、女神に裏切られて美少女冒険者になる― @UMABAKA
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