男はただ渇いていた

価値観の不一致

第1話 渇き

男は渇いていた。

もっとも、それは物理的なものと、精神的なものの両方である。


幼少期の男は家庭環境があまりよろしくなく、今から考えると栄養状態も良くなかっただろう。男は生まれつき肌が弱く、またそんな家庭環境も災いしてか、常に肌は乾いていた。今はもう変わってしまったが、幼少期の男の苗字は伊藤と言い、よく「ミイラの伊藤」と揶揄(からか)われていたものだ。


男は四畳半の部屋の天井を見つめながら、なぜ今になってこんなことを思い出すのかと自問自答する。しかし、その答えはいつになっても見当たらない。幼少期のトラウマだとか、自分を納得させる理由は浮かんでくるが、心のどこかで「そんな単純な理由ではないだろう」と、安易な思考に逃げるのを踏みとどまる。


男の命綱として機能していた非正規の仕事も、つい先日打ち切られてしまった。社会は不況だ。自分のような年老いた男を雇用し続けるほど甘くはない。そんなことは学がない男でも理解できる。客観的に見て恵まれた環境で育ってきたとは言えないが、男は社会やこの理不尽な環境を恨むことは少なかった。

無論、上手くいかなかった時や辛い時、社会や環境のせいにしてしまう時はある。しかし、同時にそれが全く意味がない行為だと理解する自分がいた。ゆえに、その考え方が男の根本に根付くことはなかった。


こんな男にも、一つだけ趣味があった。

それは、住んでいるボロアパートの近くにいる猫に餌をやることだった。仕事帰りに猫缶を一つだけ買い、猫のいる路地裏にそっとそれを置いて帰る。くだらない、些細な日常の片隅に過ぎないが、男にはそれで十分だったのだ。

だが、日常は常に非日常と隣り合わせであることを、常に日陰で過ごしてきた男は知らなかった。


先日、最後の仕事を終えた日にいつもの通り猫缶を置きに行くと、「猫だったもの」がそこに残存していた。明らかに刃物か何かで切り刻まれていた。一目見て助からないと直感する酷い有様であった。そして、それが誰かの手によるものであることも明白だった。

男はそのまま、黙って家に帰ってしまった。どうしたらいいのか分からなかったのだ。

男は深い悲しみに沈むとともに、「誰が悪かったのか」という取り止めのない思考が溢れて止まらない。今に至るまで、ずっとだ。

猫を飼う覚悟もなかったのに、無責任に猫缶を与え、あそこに居着かせてしまった自分か。

猫を直接切り刻んだ奴か。

それとも、我々のような人間を生んでしまった社会か。

……いや、そう単純なものではないだろう。

男は思考を止める。


男は、渇いていた。

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2026年1月20日 18:00

男はただ渇いていた 価値観の不一致 @Pooi

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