別れよう
綸
別れよう
思わず息を呑み、喉が鳴る。
その音が彼女に聞こえたかと思うと心臓が途端に萎んで、決心した筈の心が今にも折れそうになる。唇を噛みたくなったが、それは堪える。これこそ僕の思いが彼女に伝わってしまう。遅からず口にして、言葉として彼女に伝えることではあるけれど、それはまだ、今すぐじゃない。
なぜなら今日、僕は彼女に別れを告げに来たのだから。
「君とこういうところに来るのは、たぶん、久しぶりだね」
その店の看板を見上げながら彼女は呟いた。夜の街に隠れるように建つバー『星見』僕も彼女も初めて来る店であったが、こういう所に来るのは珍しいことじゃない。それこそしばらく前はデートをする度に最後はバーで静かに時を過ごした。性行為の延長みたいな、時が重みと実態を持って身体に乗っかるように、甘くもったりとした時を楽しむのが好きだったのだ。
いつからそうしなくなったのか、具体的な日付もキッカケも覚えているけれど。多分、誰に聞かれても答えることはないだろう。
暗い色の木製扉が「きぃ」と小さな悲鳴を上げながら開き、僕らを迎え入れた。店内は何と言うことはない普通のバーで、他と違うのはせいぜい壁に描かれた星のイラストくらいだ。小さなカウンターに椅子が五つと二人がけのテーブルが二つあり、どこにも客の姿は見えなかった。カウンターの奥では店主がオーディオ機器を操作しており、僕らの存在に気がつくと振り返って「お好きな席にどうぞ」とだけ素っ気なく言った。本当は向かい合って座りたくなどなかったが、僕らが並んで座ったことなど未だかつて一度もない。だから仕方なく、店の一番奥の机に目星をつけると僕が扉側に、彼女が店の奥側の椅子に座った。
「静かなお店だね。音楽とか関係なく、全体として……何となくね」
彼女が自身の感情を口にする時はいつもこうして具体性を欠いている。空中に浮かんだシャボン玉みたいに、その形は一定のように見えて表面に反射する光は常に変わり続けている。思い切って手に取ろうとすればそれは直ぐにでも割れてしまう。
それでも彼女の言わんとすることは何故か分かる。具体的に説明をせよと言われると困ってしまうのだが、シャボン玉をシャボン玉のまま掴むことは出来るのだ。その光の複雑さを、触れれば割れてしまう繊細さを失わないままに。
兎にも角にもまず僕らは店主を呼んでそれぞれウィスキーとカクテルを頼んだ。ついでに簡単なおつまみもと口癖みたいに言いそうになったが、生憎ながら今日はそういう気分じゃない。お酒を頼むのも、ここに来るのも、他だと上手く話を切り出せそうになかったからだ。
店主がそれらを持ってくる間、僕らは何も話さなかった。僕らが恋人として過ごしてきた時間は数ヶ月だとか、決してそんなに短い時ではなかった。確かで、濃密で、決して分かち難い特別な時を二人で過ごしてきたのだ。それこそ会話という会話は大した話題がなくとも何度もしてきた。視界に入ったものを何も意図せずに口にしたとしても、会話は自由に広がっていった。話題がないとか、そんなことでは決して僕らの間に沈黙という帳が降りることはなかった。
しかし今は、僕はおろか彼女からも何の言葉も発されない。思わず彼女の瞳を見つめるが、目が合いそうになって直ぐに逸らした。
僕のその行為を、彼女が気づいているかは分からない。もし、気がついていたとして……それで彼女がどんな表情をするのか僕には見る勇気がない。
「お待たせしました」結局、店主が注文したものを持ってくるまで僕らは一言も発さなかった。空調の静かな雑音が、店主の動き回る音が、外から微かに届く雑踏の音が二人を包んでいた。心地よいものではない。それらの音が僕の心を掻き立て、居心地の悪さを覚えさせるのだ。今ここにいるという現実を、どうしてここにいるのかという理由を忘れさせない。
グラスの表面に付いた水滴が机を濡らす頃、僕らはようやく口を付けた。
まるで酔えそうにない。どころか喉も渇ききっていて、潤いに欠けている。これじゃ飲んでいないのと何も変わりがない。
「なんだか、不思議だね」
彼女が不意に呟き、僕は無言で頷く。
「こうして二人でいるのが珍しいなんて」
頷くに頷けない、けれどその通りだ。そしてそれは全部、僕が原因だ。
何かを言おうとするが、渇ききった砂丘の砂みたいな喉では一言も発せなかった。声は音になる前に、膨大な砂の山に吸われてしまう。
「今日は……久しぶりのデートって訳じゃ、ないんだよね」
直ぐには頷けず、しばらく机の表面を眺めた。細かな擦り傷がいくつもある。その一つ一つが歴史であり、かつて誰かが僕らのように顔を突き合わせて話をしてきたのだろう。明るい話や、どうでもいい話。あるいは他ではできないような、話を。
「……」やはり言葉は出ずに、無言で頷いた。
「何か言ったらどうなのよ」
彼女はずっと、僕を見ている。僕は、彼女の顔を見返せない。その目を、見ることが出来ない。
「…………さっきから、ずっと何も言ってない」
「ごめん」謝罪を口にしながら、その言葉が自分には相応しくないと感じる。気まずくなったのも、彼女に酷い表情を浮かべさせるのも……どちらも僕だ。それを思うと、自分に不快になる。
そうして謝っておきながら、続く言葉が見つからない。彼女にこれ以上何を伝えればいいのか、そんなことがなにひとつ分からない。それ以外に言うべきことは決まりきっている。それでも、それを口にすることが出来ないでいる。
彼女は納得のいかないような、安心しているような対極の感情を一度に表情に浮かべた。それは一聞すると矛盾に思えるが、僕の目の前の彼女は確かにそのよう表情を浮かべており、それは紛れもなく快と不快を同時に示している。その感情の揺れ動きを、あるいは目に映る表情の濃淡が意味するところを言葉以上に理解した。
普段は希望に満ち溢れたような瞳の光が、柔和に微笑むその表情が、僕が惹かれた彼女のあらゆる姿が失われている。瞳は不安げに揺れ、唇は横一線に結ばれている。胸を何かが、いや、何かなんて抽象的なものではない。明朗で明確な罪悪感が胸を厳しく刺し貫いている。
机の下で、膝の上に乗せた拳を強く握りしめる。痛いくらいに。
「あの、さ」僕が何か言い出さない限り決して次の言葉が生まれないのを悟り、意気を込めて口を開く。音として出たその言葉は僕が決心しようとしまいと関係なく、口にしたら最後、後戻りを決して許さない楔となる。
思ってることをうまく伝えようと思って息を整えていると、店主が食器を拭く手を止めてこちらを見ていた。その表情は彼が帽子をしているせいで影になって見えない。ただきっと初々しい恋人同士を見守るような温かい目ではないことだけは分かる。
「今日来てもらったのは、その……話があるからなんだ」
彼女は返事も頷きもしない。瞳だけで続きを促した。
「話といっても一方的な通告みたいなもので、見ようによってはすごく、卑怯なものだ」
覚悟が決まらないから迂遠で、言い訳じみた言葉を続ける。こんなんじゃ本当に卑怯だ。
僕の視線は彼女の後ろとか、テーブルとか手元とか、あちこちを彷徨う。でも、彼女の視線はずっと僕の目を見ている。どれだけ逃げようとしても逃さない。その言葉からは……。
たとえ彼女自身はその言葉を求めていなかったとしても、それでもお互いから逃げる恋愛を僕らはしてきたわけじゃなかったから。
唇を噛みたくなるのを抑え、視線が泳ぎそうになるのも耐える。既に卑怯なんだ。これ以上、彼女に不誠実になりたくない。
「僕たち、別れよう」端的で、簡潔で、飾り気も言い訳もない。どこまでも非常で、それでもこれ以上ないくらいに誠実な……残酷な言葉。
「付き合い始めたのは忘れもしない三年前。きっちりってわけじゃないけど、三年と少しくらいだ」
当然、彼女の口は開かない。だから、空白を埋めるためだけに音を挟む。意味なんてない。結論は出してしまった。トンネルの出口を一歩出て、そこで振り返っているだけだ。音の反響を確かめるみたいに、トンネルに向かって叫んでるだけだ。その行為は、どこまで行っても意味なんてないだろう。
「人生の中でも、決して短くなんてない。思い出なんて言葉で片付けてしまうには、やっぱり長すぎるし、それらの時間の全てが鮮明すぎる」
自分が何を言っているのか、自分でもいまいち分からない。何を伝えたくて言葉を紡いでいるのだろう。未練だろうか、あるいは、居心地の悪さだろうか。
「あんな言葉を口にしておいて酷い話だけど……君を愛していた時間も、思いも、全て本物だった」それは、今でも。
「だから、その」駄目だ。本当に何を言おうとしているのか分からない。自分の感情も意図も理解できない。
いつの間にか見つめていた机の表面から視線を外し、彼女の顔を見る。彼女も、僕と同じだった。長い髪が顔にかかり、その表情は見えそうにない。瞳も、唇も、もしかすると涙さえ。それらを見ることができるのは机だけだ。
恨まれるのも憎まれるのも覚悟はしていた。頬を叩かれようと、二度と顔を見せるなと罵倒されることさえ受け止める気でいた。でも、やっぱり、それら全てをぶつけられるのと比べても、彼女が僕の非道をただ受け止めることに比べたら僕としては救われるのだ。それほどに、彼女の姿は自分の残酷さを見させられている気がする。愛していると口にした言葉を、唇を重ねた時間を、思いを、全てを裏切った上で嘘であったと断じるようなものだと……自身の行為に感じてしまうのだ。現実にこんなことはよくある話だとか、事実がどうだとか、そんなものは関係ない。
「ごめん」
結局、最低な言葉を口にして終わる。俯く彼女に、どう言葉をかければいいのか分からない。自分が何を伝えたいのか分からない。
ああ。ここまできて、ようやく理解する。
既に別れを告げた僕に、これ以上何を言う権利もないのだ。彼女に何をすればいいのかとか、そういうのを全て放棄したのだから。こんな風にならないと自分が何をしたのか、何を決断したのか理解できないなんて馬鹿な話だ。
無言で席を立ち、店主を呼んで会計を済ませる。財布にいくら入っていたのか覚えていないが、今日頼んだ分くらいは余裕で支払えるくらいには入っているはずだ。会計金額も、財布の中身も碌に見ないまま掴んだ札を全て置いた。それだけすると店内に背を向けて外へ逃げるように出た。背後から誰かの声がしたが、何を言っていたのかも、誰が言っていたのかも分からなかった。
外は自動車の排気ガスと雑多な音が満ちていた。人々の吐いた息が混ざり合っていて、空気は冷たく澱んでいる。
僕もまた、その中に澱んだ息を吐いた。
別れよう 綸 @Rin-sansan
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