使者との約束

秋色

使者との約束は守られた

 春の雨は意外と冷たい。それを知った夜、私は山小屋の中で薄い毛布にくるまり、震えていた。

 床に横たわっていても、建物を叩きつける容赦ない雨と風の音が頭痛の種になって眠れない。


 軽い気持ちで旅に出なければ良かった。しかも春まだ浅い山へ。

 職場の友人、瑞希に誘われた時は、初心者向けコースだから安心という話だったけど、初心者コース自体のハードルが実は私には高かった。一緒に誘われた後輩、千里は、大学時代に登山のサークルに入っていたから、初心者は私一人。

 初めは晴れ渡った青空の下、快適に歩みを進めていた。「登山って最高だね」と安易に感想を同行の二人に漏らしながら。

 でも頂上から反対側に下るコースで慣れない私が遅れをとったため、目的の麓のロッジまで着かないうちに雨に遭ってしまった。

 晴れの天気予報を信じ、なるべく軽装で行きたいと、ロクに雨具も準備しないまま来た事を後悔した。早春の雨は、あっという間に登山者を濡鼠のようにする。

 雨を凌ぐため大きな木の側に三人寄り添っていたものの、一向に雨は止まない。やがて千里が近くに小さな休憩用の山小屋を発見した。そこには簡単な寝具もある。

 そこで私達はしばらくの間、休む事にした。

 その時私は、喉の痛み、熱っぽさという明らかな風邪の兆候に気が付いた。これは単なる風邪でなく、もっと厄介な感染症かもしれないと、不安が胸をよぎる。もしこれが山の中でなく普通に生活している時なら、気にもしない程度の身体の変調だったのかもしれない。


 私を心配する同行の二人の声に、弱々しく「大丈夫」と答えながらマットの上に節々の痛む身体を横たえるのがやっとだった。

 簡易な山小屋の天井を見つめながら、この雨風で万が一小屋が流されたらどうしようかと不安になった。見たところ、薄い壁に囲まれ、支えとなるような柱もない。私達三人のスマホはどれも圏外になっている。

 瑞希は言った。「今日着く予定だったロッジ矢燕荘では宿泊の予約もしているから、私達が着かなかった事を心配し、警察に捜索願いを出してくれているかもしれない」と。

 果たしてそこまでしてくれるだろうか?

 私は、小屋の天井が見た目より頑丈であればいいと願うばかりで、その願いがあまりにも強かったため、だんだん錯覚をおぼえてきた。

 天井が頑丈な石で出来ていて、それもずっと高いところにあるように見えるのだ。

 そもそも山小屋ではなくて、ヨーロッパ風の立派な大きな部屋にいて、豪華なベッドの中に私は横たわっているという錯覚。部屋の中央にある大木のような柱には、彫刻が施されている。

 私を覆っているのは薄い毛布でなく、柔らかくフカフカした羽毛の布団。

 近くのテーブルには紅茶のポットとティーカップが置かれ、温かそうな湯気を立てている。

 広々とした硝子窓の向こうには、雨でなく雪景色が広がっていた。円や菱形を散りばめた幾何学模様の広い庭園に雪が積もって美しい。晴れてさんざめく陽の光の下なら、一体どんな庭に見えるのだろう。青空を見上げながらその庭園にいる自分の姿を想像した。はしゃぎ、駆け回るくらいの幼い頃からこの庭園を知っているような錯覚をおぼえてきた。


 *


 その時、重い扉を開けて、中世の騎士風の黒い服に身を包んだ若者が入って来た。年は私と同じくらいで、細身で東洋人の、白く、スッとした顔立ちに茶色の切れ長の眼が印象的だ。と言ってもその顔は、はっきりとは見えない。ベッドの脇にひざまづいて、ヨーロッパの騎士みたいに私に挨拶をしているからだ。


「姫、助けに参りました。使者のわたくしが吹雪を逃れる安全な場所へと、今からご案内致します」


「姫? 私が?」


 そう訊き返しながらも、なぜか違和感はなく、すんなりとその事実を受け止めていた。


 ――そうか、そうなんだ、私は姫なんだ。吹雪から私を救うため使者が訪れる、それ程の地位の……――


 そう心の中で呟いた時、それら全ては当然の事のように感じられた。

 使者の男は言った。

「それではわたくしが馬車をすぐそこまで寄せて来ますので、それまでお待ちを。それから一緒に参りましょう。他の者が来ても決して応じぬよう。外は危険な状態です。ここから連れ去ろうとする輩に惑わされないよう……」


 その言葉を聞いた私はまるで姫のような口調で答えていた。


「分かりました。そなたを信じています」



 それから使者の男は去り、私は少し自分が回復してきているのを感じた。

 急に快い眠気に襲われ、ウトウトしていると、いきなり扉をドンドン叩く音が響く。

 救助なのか、同様に避難を求めて訪れた登山者なのか……。


 後輩が扉越しに訪問者に向かって、そのどちらであるのかを尋ねた。


「救助に来ました。私は麓のロッジの者でタカハシと言います。他の登山者から遅れをとっている女性三人組の登山者がいると聞き、やって来ました」


 小屋の中にほっとした空気が溢れる。私自身は、ヨーロッパ風の部屋と豪華なベッドの心地よさとをまだぼんやりと薄い意識の中で感じていたので、その感覚が遠ざかり、元の粗末な山小屋に戻ってしまうのが惜しかった。

 でも助かる事には違いないんだと、心のどこかで言い聞かせていた。


 ロッジの職員、タカハシさんは言う。


「ここから安全な道を通り、友人が管理人を務めている近くの大きな宿舎へと案内します。そこへ避難しましょう。食糧もあるので」


 小屋の中に歓喜の声が沸く。


「では友人に電話するので……」とタカハシさんはスマートフォンを取り出し、小屋の隅に寄り、宿舎の管理人らしい人物と話を始めた。


 瑞希は私の手を取り、涙を目に浮かべて言う。「さり、良かったね。うわ言を言ってたから心配してたんだよ。これでもう大丈夫だからね」


 私はヨーロッパ風の豪華な部屋と眼の前に現れた細身の使者がやはり幻覚だったのだと悟った。あのままついて行ったら一体どこへ辿り着いたのだろう。戦慄が背中を走る。その一方で、そこはかとない寂しさも感じていた。


 その時、扉が開き、大粒の雨が小屋の中まで入ってきたかと思うと、それは雪だった。扉の向こうに見えるのは、真っ黒な夜の闇を背景に猛烈に吹雪く雪の白さだけ。そして吹雪と一緒に、黒い服に身を包んださっきの使者が部屋の中に入って来た。


「姫、わたくし以外の者について行ってはいけないと言ったでしょう? それともわたくしを信じられないのですか?」


 その強い口調に、心の中で呟いていた。

 ――でもあなたは本物ではないんでしょ?  私の心の中だけの幻なのよね? ただの強い風が小屋に入り込んでいるだけなんでしょ?――


 その時、使者は首元に白い手を当てた。そして彼の首にかかる金色の十字架のネックレスに目を向けた時、私は喉の奥から必死で声を振り絞っていた。


 ――もちろん信じてる――


 その言葉と同時に使者の姿はぼんやりと視界から消え去った。そのまま深い眠りに落ちたので。でも最後に枕元に誰かの安堵のため息を聞いた気がする。




 ***




 翌朝、昨夜の事が嘘のように空は晴れ、スマホは通じるようになった。私達は救助を求め、救助隊と一緒にまだぬかるんだ山を下った。

 山から降りた私はすぐに体調を取り戻し、単なる風邪のひき始めだったのだろうと、精密検査を受けた病院で言われた。

 山で遭難しかかった後、無事に下山してきた私達は、しばらく好奇な眼に晒された。

 計画性の無さに苦言を呈された事も度々。それも仕方ないと思う。

 苦境につけ込み騙そうとする人物の言葉をむやみに信じなかった事については賞賛された。


 しばらくして報道された山の麓のロッジ関係者、タカハシなる人物による常習的な暴行事件。被害に遭っているのは、若く未熟な登山者のグループばかり。


「さり先輩のおかげよね。使者がそう言ってるからって、断固としてあの人についていくのを拒んでくれたから」

 後輩の千里が言う。

 瑞希も頷く。「占い師みたいだった。『使者がそう言ってる』なんて」


 私は占い師なんかではない。未来なんて読めないし。もしそうだったら子どもの頃、自転車でコンビニに行くと言った弟を引き止めていたはずだ。弟は途中でトラックにぶつかり、命を失った。

 私と三才年下の弟は、幼い頃よく魔法の国ごっこをして遊んだ。それは私の名前が母の子ども時代に見たアニメから「さり」と名付けられた事に由来していた。魔法の国のお姫様の名前、サリーから。

 魔法の国ごっこの中で、私はもちろんお姫様で、弟はお付きの者。と言っても、お付きの者であるはずの弟は、ジュースを買って来てとか、お菓子を持ってきてとかいう私の命令にはことごとく逆らったけど。


 私は仕方なく、弟に手作りのビーズの指輪を渡した。従者の印としての指輪だ。

「お姫様が危険な目に遭う時には、必ずお付きの者が助けに来る事になっているのよ。この指輪がそのあかしなんだからね」

 ジュースやお菓子を持って来るのは拒んだ弟も、この約束だけは必ず守ると胸を張っていた。


 あの夜、私は黒い服の使者の胸に光る十字架のネックレスを見た時、それが助けに来た弟である事に気が付いた。なぜならネックレスには十字架と一緒に、ピンクゴールドの指輪が結び付けられていたから。

 私が昔あげたビーズの指輪が。



〈Fin〉


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