麻薬探知犬人間2826号
エノウ アカシ
麻薬探知犬人間2826号
みなさんは、どのようにして麻薬探知犬人間が調教されるかご存知ですか?
麻薬探知犬人間を育てるためには、まず、人間としての尊厳を壊します。
具体的には、複数の男に一週間絶え間なく陵辱させ放尿する姿を公開して意味もなく殴り蹴り人格否定を繰り返します。他にもたくさんの手段で徹底的に人間性を破壊します。
次に、人間性を失い廃人と化した人間に『刷り込み』をおこないます。
麻薬のにおいを嗅がせた直後に、もっとも大切なひとを目の前で殺害します。
それを何度か繰り返し、大切なひとがいなくなったら大切なものを壊します。
そうすることによって、人間は麻薬のにおい=『死』であると学習します。
本能的に最も深い部分に『刷り込み』をおこなえば、人間は麻薬のにおいに非常に強い根源的な恐怖を感じ、極めて敏感に反応するようになります。
こうして麻薬探知犬人間が作り上げられます。
みなさん、このような非人道的なおこないが許されていいのでしょうか?
私たち『世界人権同盟』はこの悪魔のようなシステムの廃絶を断固として叫び続け……
「起きろ、麻薬探知犬人間2826号!」
部屋のドアを蹴破って怒鳴り散らすと、その人間は粗末なベッドからのそのそと起き上がってきた。ぼさぼさの髪で目元はすっかり隠れてしまっていて、手錠で両手を拘束されている。
私よりもずっと立派な体つきのオスだ。
寝起きでまだ混乱しているのか、うーあーとうめく人間を前に、私は持っていたトランクを床に叩きつけ、がん、と軍靴で蹴った。びく、と人間のからだがすくみ上がる。
「さあ、今日も『調教』の時間だ!」
その言葉に、人間は息を飲んでがたがたと震え出した。顔色は真っ青だ。何度繰り返しても毎回同じ反応、『調教』にはまだ時間がかかるかもしれない。
トランクを床に放置したまま、私は人間に歩み寄りながら、懐から取り出した薬液を清潔な布に染み込ませていった。『調教』には、このカンナビノイドのにおいが必要なのだ。
おびえる人間の髪をつかみあげて、無理やり鼻に布を押し当てる。
「さあ、まずはこのにおいを嗅げ。じっくりとな」
部屋中に、青臭いような甘ったるいような香りが広がっていく。これは麻薬のにおいだ。このにおいを恐怖でもってからだに教え込むために、『調教』がある。
カンナビノイドを感知した途端、人間は歯の根も合わないほどに震え上がった。よしよし、それでいい。
鼻の頭に布を押し当てたまま、私は人間の耳元にささやきかけた。
「……まだ残っていないか、くまなく探したぞ。貴様の大切なもの。そうしたら、こんなけしからんものが見つかった」
床に放り出してあったトランクを引き寄せ、開ける。
厳重な緩衝材を取り払うと、そこには、ガラス製のメリーゴーランドのオルゴールが入っていた。
いかにも壊してくださいと言わんばかりの、華奢で繊細な造りだ。これならちょっと床に落としただけでも壊れてしまうに違いない。
しかし、そんなことがあってはいけない。
『目の前で壊す』ために、『壊れないように』丁寧に丁寧に持ってきたのだ。大いなる矛盾が潜んでいる気がしたが、そこには目を瞑った。
オルゴールを目にすると、人間の瞳に涙の膜が張った。まだ出てくる涙があったとは、驚きだ。
こつん、とお姫様のガラスの靴を置くように、私はそれを床に据える。そして、また人間の耳に言葉を吹き込んだ。
「貴様の死んだ祖母が贈ったものだそうだな。なんとも軟弱な趣味をしている。虫唾が走る」
あ、あ、あ、と吐息の度に絶望のうめきを漏らし、これからやってくる惨劇を予想して、もう頬は涙でびしょびしょだ。
人間が、手錠で拘束された両手をオルゴールに伸ばす。
その手が届く寸前で、私は軍靴のヒールで思い切りガラスのオルゴールを踏み砕いた。悲鳴のような破砕音とともに、キラキラとしたガラスの破片が辺り一面に飛び散る。
なにか大切なものが壊れる瞬間というのは、なぜこうも美しいのだろうか。
あああああああ!と言葉にならない絶叫を上げて、人間はその場に泣き崩れた。壊れたオルゴールは、もう二度と元には戻らない。そこに宿っていた思い出もいっしょだ。
私は見せつけるようにオルゴールの破片を執拗に踏みにじりながら、
「あはははははは!! また壊れた!! 壊れた!!」
高らかに嘲笑し、くずおれた人間の髪をわしづかみにして、その耳元でがなり立てる。
「貴様が立派な麻薬探知犬人間になるまで、もしくは大切なものが一切合切なくなるまで続けるからな!! わかったか!!」
泣きじゃくる人間は、立派な大人のオスのくせに、まるで小さな子供のようだ。
いやだいやだと現実から目をそらそうと首を横に振り、うーあーと泣き叫ぶばかりで反撃もしてこない。言葉などは、もうとうに忘れさせている。
人間のからだをその場に打ち捨てると、私はガラスの破片を蹴散らしてカラのトランクの蓋を閉じた。
「さあ、次はどんなけしからんものが出てくるのか、楽しみにしておけ」
そう言い残すと、私は号泣する人間を置き去りにしたまま、その真っ白な小部屋をあとにした。
……ぱたん。
ドアが閉まった瞬間に、窒息寸前だった私の中の人間性が息をし始める。
たまらなくなって、私は軍帽で目元を覆った。その手さえも、小刻みに震えている。
私は、もう『悪魔』ではなく『人間』なのだ。
傲慢で猛々しいモンスターではなく、あのガラス細工のオルゴールのように軟弱で壊れやすい一個のいのち。
……とても、耐え切れるものではなかった。
ひとつ、『壊す』ごとに、ひとつ、『壊れて』いく私。
ひどい二日酔いのような、最低の気分だ。吐きそうになる。
一体、いつまでこんなことが続く?
吐き気をこらえて、苦々しいため息をつく。手の震えは少し収まってきた。
私は『禁煙』の貼り紙を堂々と無視して、シガレットケースからタバコを一本取り出し、くちびるにくわえて火をつける。
咥えタバコで軍靴を鳴らし、私はなにかを振りほどくような歩調で廊下を行く。
……あいつ、そう、あいつだ。
調教人になって最初の担当だが、これほどまでに精神的苦痛を伴う仕事だとは。
ひとを壊すことで、こんなにもこころが壊れそうになるとは。
こんなセンチメンタルは、きっと唾棄すべき侮辱に他ならない。
壊されているのは、あくまでもあいつの方だ。私などよりずっとずっと、つらいに決まっている。そんなあいつにしてみれば、私にひとのこころが残っているだなんて、不公平にしか思えないだろう。
しかし、私だってもう限界だ。ひとのこころが少しでも残っていたら、こんなもの、耐えられない。
どれだけ壊せばいいんだ。
どれだけ奪えばいいんだ。
どれだけ踏みにじればいいんだ。
……こんなのは、もう……
……ああ。
私は、あいつに情が湧いているのかもしれない。
まったく、お笑いぐさもいいところだ。
なにせ、いまだに同じ『人間』でいてもいいと思っているのだから。
……おこがましい。
とんだ勘違いだ。
たとえあいつが壊されてもなお『人間』のままだとしても、私は立派な人非人じゃないか。
悪魔よりも醜悪なモンスターじゃないか。
ただの略奪者じゃないか。
人間を『人間』でなくする行為は、ただの『人間』には重すぎる。
単純にいのちを奪うよりも邪悪な行為だ。
……ああ。
今日も、部屋に帰ってゲロを吐こう。
このままでは、またがりがりにやせ細ってしまう。
無理をしてでも食べないといけない。
……あいつにも、せめてきちんとしたあたたかい食事を食べさせなければ。
私にできることと言えば、そんなことくらいしかなかった。
『壊すために』『壊さないように』。
あいつは、緩衝材に大事に包まれていたガラス細工のオルゴールそのものだ。
もう逃げ出したい。
だが、これも社会秩序のための立派な役目だ。
そう思って、志願したんじゃないか。
……明日も、続けなくては。
吐き気といっしょに唾を飲み込んで、私はまだ短くもなっていないタバコを廊下へと投げ捨て、靴音を高鳴らせて部屋へと逃げ込んで行った。
今日は、幼いころの家族旅行の絵日記を燃やした。
例によって、部屋はカンナビノイドのにおいでいっぱいになっている。そこに、紙が燃えるにおいが加わった。なんとも頭の痛くなるような空気だ。
絵日記の燃えカスからもらい火をしてタバコを吸い、私はひざまずいてがくがくと震える人間を見下ろして言い放った。
「みじめだな。今どんな気分でいるかも訴えられないとは」
そう、言葉はもう奪った。
人間性も。
すべてを燃やし尽くして残った灰にさえ、私は小便をかけるようなマネをしている。
……みじめなのは、どっちだ。
まだ出てくるな、私の中の『人間』。
せめて、この部屋のドアをくぐるまでは……
そのとき、人間が勢いよく顔を上げた。
泣き腫らした顔でなおも泣き続け、ヨダレや鼻水でぐちゃぐちゃになっている。赤子でもこんなひどい顔をしないだろう。
人間はそのまま猛然と立ち上がると、私の方ではなく部屋の白い壁に向かって突進していった。
ごつん! ごつん!!
そして、何度も何度も何度も何度も、自分の頭を壁にぶつける。おそらくちから加減をしていないのだろう、部屋全体が揺れ、その度に人間の頭蓋骨が軋む音が聞こえた。
くわえていたタバコが、ぽろりとくちびるからこぼれ落ちて、ついたままの火が床を焦がす。
……発狂の末の、自傷行為だ。
このままでは、本当に人間の脳みそがぶちまけられることになってしまう。
こんなことで『壊して』しまっていいはずがない。
しかし、人間はそうすることでしか、おのれのたましいを納得させることができない。それはこんな私でさえもよく理解できる。
「よせ!! やめろ!!」
頭蓋骨を破壊しようと壁に頭をぶつけ続ける人間を、私は羽交い締めにして止めようとした。しかし、やはり大人のオスだ、ちからでは敵うはずがない。
それでも、私は人間を鎮めようとした。私ひとりの手には余るかもしれないが、おおごとになれば最悪殺処分だ、それだけはさせてなるものか。
どうする。
どうすればいい。
人間を連れ戻すには、どうしたらいいんだ。
散々『壊して』おいて、いざ完全に機能を停止するとなると、今度は元に戻そうとする。なんてムシが良すぎる話なんだ。
『壊された』ものがもう二度と戻ってこないことくらい、最初からわかっていただろう。
それなのに、なぜそうするのか、私は私自身が理解できなかった。
だが、私は感情のままに行動することを、この部屋では初めて自分に許可した。
すでに血まみれになっている人間の頭だけをちからづくでこっちに向け、しがみつくように抱きしめる。そして、私は必死の思いで語りかけた。
「すまない、すまない!! けど、これは必要なことなんだ!! 『世界』とかいうやつが、私と貴様に押し付けてきた役割なんだ!!」
都合が悪くなると、そうやってすぐ『世界』のせいにする。その醜悪な精神性は、思春期特有のものだと思っていたのに。
……まだ、私も青い。
青々とした『人間』だった。
カンナビノイドのように、青臭くて、甘い。
いつしか壁に頭を打ち付けるのをやめた人間の頭を、それでも私は強く抱きしめ続けて絶叫した。
「こんな腐れた『世界』滅んじまえ!! だが、その滅亡が来るまでは続けなくてはならないんだ!! すまない、本当にすまない!! お願いだから、『世界』のために、大きな声で鳴き叫んでくれ!!」
気がつくと、私の頬にはぽろぽろと涙が伝っていた。
……ああ、やってしまった。
『悪魔』になりきることもできず、こんなところで中途半端に『人間』の顔をして。
無様、極まりない。
それでも、涙は一向に止まってくれなかった。
もはや私も言葉を忘れたようにしゃくりあげるばかりになって、人間を抱きとめているのか、人間にすがりついているのか、よくわからない状況になってしまった。
なんとか落ち着いてくれた人間は、腕の中で巨大なぬいぐるみのようにくたっとして、間の抜けた表情で私の涙を眺めている。
やめろ。
そんな目で見るな。
……恥ずかしい。
どれもこれも言葉にならない。感情と、身体的表現が乖離している。
そんな私をまじまじと眺めて、人間は少し困ったような顔をした。
ぺたり。ぺたり。
手錠に繋がれた両手で、私の濡れた頬に触ってくる。涙の温度を確認するように、あるいは、私のこころに残ったひとかけらのぬくもりを確かめるように。
その手がなぞったそのままに、私の『人間』は輪郭をあらわにした。それがとても恥ずかしいことのように思えてしまう。服を脱がされ裸体を見られるよりもずっと。
次第に明らかになっていく私の『人間』としての姿に、人間は戸惑っていた。こんな反応は初めて見る。
……このままでは、私の『人間』が丸裸にされてしまう。
その手が伝うことによって、形を得てしまう。
情けないことに、私は人間を突き飛ばしてその手から逃げ出した。
「もういい!! 今日の『調教』は終了だ!!」
捨て台詞を吐いて、部屋から飛び出してしまう。
ドアを閉じた瞬間、ばくばくと心臓が脈打っていることに気づいた。
……まずい。
これは大変まずい。
本格的にあいつに情が湧いてしまった。
このままでは、調教人としての職務がまっとうできない。あれだけの啖呵を切ったにもかかわらず、それはあまりにもみっともなさすぎる。
あいつは、逃げずに私と向き合ってくれた。
だったら、私も向き合うべきではないのだろうか。
もう、『人間』に蓋をしなくてもいいのではないだろうか。
……いや、ラクな方に逃げるな。
私は調教人で、あいつは麻薬探知犬人間候補、お互いの立場をわきまえろ。
青臭くて甘いのは、カンナビノイドのにおいだけでいい。
私はどうしても、あんな風に香ることを自分自身に許可できなかった。
ごしごしと乱雑に涙を拭ってから、軍帽を被り直す。
深呼吸をした後、私はきちんと『人間』に蓋をして、軍靴の音を鳴らしながら、ひとりきりになれる自室へと急ぐのだった。
「……よくできたな」
ぽつりとつぶやいて、私は泣きじゃくる人間の頭をおずおずと撫でた。
あれからというもの、大切なものを壊した後には、必ずこうして髪を撫でるようにしている。
すると、人間はやはり困ったような顔をするのだ。
私も、だんだんとその間抜け面に笑みを浮かべるようになった。
らしくもなく、『人間』づらをして。
その途方もない失態に、しかし私は自責することはなかった。
……ああ。
気持ちがいい。
洗いざらしのシャツに袖を通したときのような気分だ。
生傷のカサブタを剥がす感覚。
いけないことなのに、痛いはずなのに、なぜか胸が踊り、かと思うと落ち着いて。
処女雪を踏み散らすときの気持ちに似ている。
……もっと、私の『人間』をあらわにしてほしい。
その手で、『悪魔』の化けの皮を脱がせてほしい。
もっともっと、輪郭をなぞって、くっきりと肌を浮き上がらせてほしい。
そういう欲求ばかりが先走った。
欲求と職務意識の板挟みになって、結果として出てきたのが、このいびつな折衷案だった。
私は、壊す。
人間は、壊れる。
そして、ふたりで残骸からまた別のものを組み立てるように、ほんの少しだけ触れ合う。
きっと人間には理解できないだろう。
私のようなひねくれきったへそ曲がりのことなんて。
……しかし、それでいい。
人間は、もうすぐ麻薬探知犬人間として、ここから『卒業』することができる。
それまでの辛抱だ。
最後のひとつを壊してしまえば、あとはもう。
「……ではまた明日、『調教』をおこなう」
髪を撫でる手を離すのを、こんなにも名残惜しく思う日が来るなんて。
以前とはまた別のものを振り切るように、私は早足で白い小部屋を後にするのだった。
そして、最終日がやってきた。
「……これで、貴様の大切なものは最後だ。喜んで鳴け、麻薬探知犬人間2826号」
カンナビノイドの香りの中で、人間の母親の遺骨をふみ砕く。
人間は、もう暴れたりはしなかった。ただ、肩を落として小さくうめき、少し泣くだけだった。
こうなったらもう『卒業』だ。
……長かった。やっと終わる。
私はいつもの距離を保ちながら、人間の頭に手を伸ばした。
「……今まで、よくがんばった、なっ!?」
その手をぐいっと引かれて、つい妙な声が出てしまう。気がつけば、私は手錠で拘束された人間の胸の内にすっぽりと収まっていた。
カンナビノイドのにおいにすっかり染まってしまったのか、むせ返るような青臭さと甘さを嗅ぎ当ててしまう。
人間は、ぎゅうぎゅうとちからを込めて、手錠のはまった両腕の内側にいる私を抱きしめた。痛いくらいだ。
「こら、やめろ駄犬!!」
なんとかもがいて腕から逃れようとする私を、人間はそのまま床に押し倒してしまった。そして、私の顔をぺろぺろと舐めてくる。
……なんだこれは。
一生懸命いたわるように私の顔に舌を這わせる人間は、いつの間にか勃起していた。
発情……しているのか、この状況下で。
しかも、私相手に。
次の瞬間、私はこらえきれずに吹き出してしまった。
「……っふ、あはははははは!」
快哉のように高らかな笑い声を上げながら、いつものように人間の頭を撫でる。
……バカだな、私は。
オオバカモノだ。
こんな風に、情にほだされて受け入れようとするなんて。
もしかしたら、こいつにも私のほんの少しの痛みが分かっていたのかもしれない。
それを思うと、胸が張り裂けるような切なさに襲われた。
こうして痛みを分かち合うときだけ、私は『人間』であることをおのれに許すことができる。
到底救えない、ロクデナシだ。
舌が乾くまで私の頬を舐め続けていた人間に向かって、私はシャツのボタンをふたつだけ開けて、むき出しになった首筋を示して見せた。
「……仕方のないやつだ。ほら、よく味わって食え」
人間は、ぐ、と感じ入ったような表情を浮かべると、大きく口を開けてはだけた首筋に噛み付いた。
ただの甘噛みにさえ、ぞくぞくしてしまう。
……ああ。
これでやっと、『悪魔』の化けの皮が剥がされる。
私は、ただの『人間』だ。
肌をなぞってこころとからだの輪郭をあらわにしてほしい、それだけを願う一匹の獣。
私は性急な手つきでポケットから鍵を取り出すと、人間の腕を手錠から解き放った。
途端に、人間は私のからだを思い切り抱きすくめる。存在を確かめるようにからだのあちこちをさすり、その度に私という『人間』が浮き彫りになった。
……そうだ。
求めていたのは、この手だ。
私という『人間』を造形し、壊れてしまった『人間』を再構成する、この手。
一度壊れてしまったのだから、もう二度と、同じものにはなれないだろう。
しかし、なにか別のものにはなれる。
『壊して』『壊されて』きた私たちが、それでも生きていくためには、破片を拾い集めてそこからまた新しいものを作り上げる手が必要なのだ。
ねり、とくちびるを合わせると、カンナビノイドの青臭くて甘ったるいにおいが体内に侵入してきた。
常々思っていたのだが、これはザラメを混ぜた精液のにおいじゃないか。
このおとこの、においだったんだ。
だから、むねがくるしくなったんだ。
ぜんぶ、こいつのせいだ。
わたしがばかになるのも、こいつのせい。
きすでのうみそがとけそうになるのも、なにもかもこいつがわるい。
ばかやろう。
……それから、何度もキスをして、何度もセックスをして、何度も同時に果てた。
私の子宮は、もうカンナビノイドでいっぱいになっている。
官能はない。
悦楽もない。
ただ、痛いくらいの高ぶりだけがあった。
私たちはひたすらに、互いのからだに触れ合った。手で触ってあらゆる場所の形を確かめて、確かめられて、やっと自分の『人間』としての輪郭を思い出した。
これは、ただのセックスではない。
人間性のぶつかり合いだ。
すり減らしてきた尊厳の、たましいの衝突だ。
ぶつかり合う度に飛び散る火花で、私たちは暗闇の中におのれの『人間』を見出すことができる。
たとえそれがカンナビノイドのにおいであったとしても、この思春期のような青臭くて甘ったるい香りは、『人間』を狂わせるには充分すぎた。
……ああ。しまった。
せっかく『調教』してきたのに、カンナビノイドのにおいに対する学習に、上書きがされてしまった。
もはや、このにおいは『死』を連想させるものではない。
『性』と『生』を思い出させるものに変わり果ててしまった。
なにもかもが台無しだ。
そんな後悔も、子宮の最奥に叩きつけられたカンナビノイドを体感してしまうとどうでもよくなってしまう。
……まだ終わるな。
……もっと。
……もっと、その手で、触って。
『私』を、素肌に戻して。
……もう数える気にもならないくらいの交わりの果てに、私たちはようやく満足感を覚えた。互いの乱れた息が白い小部屋にこだまする。
これは、カンナビノイドのにおいなのか、この男のにおいなのか。
境界線がひどく曖昧だ。
くっきりと際立ったこころとからだの輪郭とは裏腹に。
……ああ。
ひとつ、気づいてしまったことがある。
私は息も絶え絶えに脱ぎ散らかした服を漁って、鉄のかたまりを探り当てた。
「……貴様には、まだ残っていたな、大切なものが。失念していた」
その言葉に、体液にまみれた人間は、う?と首をかしげて見せた。どうやら理解が及んでいないようだ。
私は、紛れもなく『人間』だ。
そして、これまでやってきた行為は、紛れもなく『悪魔』のそれだ。
調教人として、最後の責務をまっとうしなければならない。
最後の一片まで、なにもかも壊さなければ。
それが、『人間』を形作ってくれた人間に対しての、せめてもの礼儀というものだ。
罪滅ぼしでも、通すべき筋でも、なんでもいい。
私は、きょとんとしている人間を前にして、拳銃の銃口をコメカミに当てた。
カンナビノイドを、きちんと『死』のにおいにしておかなければならない。
それが、私が唯一『人間』として最後にできることだった。
ようやくすべてを理解した人間が、自由になった手を伸ばそうとするが、もう遅い。
私はゆるやかに微笑んで、人間が『人間』だったころの名前を呼んだ。
「サヨナラ、×××」
人間が、ぼたぼたと泣きじゃくりながら追いすがろうとしているのが見える。
その視界を最後に、私はしずかに目を閉じて、人差し指で、引き金を引いた。
「……また失敗か」
「これで何度目だと思いますか」
「何度目だろうと、続ける。それまでだ」
「いつまで、こんな人道に反したこと……!」
「仕方がないんだ。動物愛護団体が原潜を乗っ取ったあの日から、我々は唯々諾々と従うことしかできない。逆らえば、世界が終わる」
「動物実験はもちろんのこと、介助犬や職業犬のすることまで人間がやることになっているんですよ? こんなの、ひとのすることじゃない……!」
「では、動物にならしてもいいことなのかね?」
「……それは……!」
「あの国の大統領でさえ、犬のマネをしている動画を世間にばら撒かれた。世界はそういう方向に動いているのだよ。回る車輪のように、止まりはしない」
「だったら、なおのこと……!」
「『悪魔』が語っていいものではないのだよ、『人間』というものは。そもそも、人間は自分たちもまた、動物であることをすっかり忘れているじゃないか。どちらにせよ、だれもかれもが『人間』のフリをしているだけさ」
「……教えてください。『悪魔』にも『ケダモノ』にもならず、『人間』でいるためには、どうすればいいのですか……?」
「君は学生時代から結論を急ぎすぎる……そんな質問にうってつけの答えなど持ち合わせていたら、さぞかし生きるのが楽しいだろうね」
「……答えてください。お願いします」
「悪いね。続けることしかできないのだよ。車輪が次のフェーズに回るまでね……そろそろ来るころだ」
「……っ……!」
「よく来たね。さあ、入りなさい。麻薬探知犬人間2937号と、その調教人」
麻薬探知犬人間2826号 エノウ アカシ @HALCALI
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