その女の子は桜の木の下で右手を振る

楼きがり

春を待つ校庭にて

あの年の3月1日は、俺の高校の卒業式だった。

がむしゃらに走り抜けた俺の3年間は、式典とともにあっさりと終わってしまった。

その後は別れを惜しむ卒業生が、校庭のいたるところで立ち話をしていた。


「なあ唐沢、あんな子いたっけ?」


親友の大野が、俺の後ろを指差して呟いた。

促されるまま振り返ると、満開に咲く桜の木の下に、おさげの女の子が一人立っていた。

紺色のセーラー服なだけに、胸元の赤いリボンがはっきりと強調されている。


確かに、知らない顔だ。

こんな女の子は、俺の3年間の記憶に、全くと言っていいほど存在しなかった。

第一、おさげの髪型は、馬鹿げた校則で禁止されている。

それに、学校で指定されている制服のリボンは、青色のみだったはずだ。

さらに、あの社交的な大野さえも認識していないのだから、仮に同級生であれば、よほどの事態である。


学年の違う在校生か?

もしくは、3年間一度も出席しなかった卒業生?

それとも、他校の生徒が紛れ込んだのか?


そう思考を巡らせていた矢先、その女の子と目が合った。

彼女の黒い瞳が、俺の瞳孔をまっすぐ射抜く。

それはほんの数秒のことだったが、時の流れが異様に長く感じられた。


次の瞬間、彼女は白い右手を顔の横まで上げた。

そして、ゆっくりと左右に振る。

いわゆる「バイバイ」のジェスチャーだ。


なんだ? 俺のことを知っているのか?

それとも、大野と面識があるのか?


大野のほうを見ると、彼は俺と同様に動揺していた。

それでも彼女は、依然として手を振り続けている。

ピンと伸びた細い指先が、緩やかな弧を描くように。


正直、俺たちは困惑というよりも、申し訳なさで満たされていた。

ひょっとしたら、俺たちが覚えていないだけで、彼女とどこかで対面していたのかもしれなし、喋っていたのかもしれない。

何より、惜別の卒業式で「あなた誰ですか」は、彼女に対してあまりにも無礼すぎる。


結局、俺たちは彼女のもとに向かうべきか否かで葛藤し、その場を動けずにいた。

とりあえずの場凌ぎで、手を振り返してみようか。


トン。


不意に肩に何かが接触した。

驚いて見ると、後ろから山岡が、スッと横切るように現れた。

どうやら肩同士がぶつかったようだが、山岡は謝罪の言葉も発さず、ただボウっとした表情で、ふらふらと歩みを進めていた。

その足取りの向かう先は、桜の木──彼女のもとだ。


大野は慌てて、山岡の肩を掴んだ。


「おい山岡。お前、あの子知ってんのか?」


間髪入れずに問うと、山岡は一言。


「いや、知らない子」


山岡は、知る人ぞ知る女漁りの変態だ。

そんな彼でさえも、彼女を知らないと言い切る。


「じゃあなんで、あの子のとこ行くんだよ。あれか? お得意のナンパか?」


大野は茶化すように、山岡を小突いた。

しかし、山岡はキョトンとして言う。


「いや、何言ってんの。


俺は思わず苦笑した。

山岡のレベルまで到達したら、軽いジェスチャーも、そういう受け止め方ができてしまうのか。

彼女は、依然として手を左右に振り続けている。


「見たら分かんだろ。お前らこそ、なんで突っ立ったままなん? 無視は一番ダメだぞ」


山岡は、あろうことか俺たちにダメ出しまでかましてきた。

まるで、そう捉えるのが当然かのように。


「お前、女の子が手を振ってたら、全部OKサインとみなしてる感じ?」


大野の不満気なツッコミは妥当だ。

いくら男女の経験が、俺たちより少しばかり豊富だとしても、彼の思考が正しいとはまるで思えない。

彼女は依然として手を左右に振り続けている。


「さっきから何言ってんの。あの手の振り方は、って意味で、相場は決まってるだろ?」


山岡は、少し苛立ちの籠もった声を発した。


ここで、俺と大野は目を見合わせる。

手を左右に振るジェスチャーは、どちらかと言えば別れ際に用いられる場合が多い。

間違っても、「こっちに来て」という解釈には繋がらないはずだ。

彼女は、依然として手を左右に振り続けている。


俺は少し間を置き、尋ねた。


「お前、あの子の手の振り方が、どう見えてんの?」


スッと、山岡の右手が俺たちに伸びる。


「こう」


そのまま彼は、



俺は一気に体温が下がっていくのを感じた。

そして、縦に振り続ける彼の右手を乱暴に掴むと、大野とともに、その場から走り逃げた。

決して後ろは振り返らなかった。

振り返ること自体、本能が拒否していた。


ヒュオ、と生暖かい風が吹き込む。

木々がザワザワと揺れる音が聞こえる。

ブレる視界の端に、風に乗った桃色の花びらが、軽やかに舞っていた。


それから、俺や大野、山岡の身には、特に何も起きていない。

しかし、あの日の光景が脳裏に焼き付いてしまい、社会人となった今でも、思い出すたびに背筋が凍る。


あとから知った話が二つある。

一つ。

あの桜の木は、例年4月中旬頃に満開を迎えるそうだ。

あの年も、満開に咲き誇ったらしい。

そして、二つ。

おさげの髪型が禁止された時期と、青いリボンに統一された時期が、ちょうど重なっているそうだ。

なぜそうなったのか、その経緯は不明である。


もし、俺たちが彼女のもとに辿り着いてしまっていたら。

満開に咲く桜の木の下で、何が起きたのだろうか。

彼女は、一体何者なのだろうか。

彼女は、依然として手を振り続けているのだろうか。



今はただ、知る由もない。

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その女の子は桜の木の下で右手を振る 楼きがり @takadono-Kigali

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