おと・と・おと・と・おと

青出インディゴ

弟と緒刀と音

 兄の顔を見ても涙は出なかった。

 たけは仏間の隅でぼんやりあぐらをかいていた。手持ち無沙汰にたばこに火をつけようとライターを取り出すと、ちょうど入ってきた父に見とがめられた。あわてて喪服の内ポケットに滑り込ませたが、父はすでに青筋を立てていた。

「線香と混ざってしょうすけが昇れなくなるだろ、このばか!」

 そんな迷信は初耳だったが、竹流はいつものごとく顔をうつむかせて神妙なふりをしていた。一通り罵倒して気が済むと、父は出ていった。なんのために来たのだろう、不寝番を交代するつもりではなかったのか、と竹流は思ったがあとを追う欲求は湧いてこなかった。

 実家の仏間は、記憶よりも狭くて小汚かった。いまは濛々たる線香の煙が立ちこめ、回転灯籠の光が黄土色の砂壁をぬめぬめと照らしている。主役は部屋の中央にいた。場違いなほど金ぴかの布団の中に収まった体。白い布の下の顔を、竹流はついさっき五年ぶりに見た。悲しいとも思わなかったし、いい気味だとも思わなかった。ただ蝋人形みたいだなと思った。

 竹流はスマホを取り出してゲームの続きを始めた。

 千葉県T市の実家は相変わらず磯くさい。兄の友人や会社関係の人たちは昼間ちらほら来ただけで、深夜ともなると家屋はしんと静まり返っている。またしてもひたひたと部屋の外を歩く音が聞こえ、竹流は障子があく前にスマホを暗くして畳の上に置いた。

「松輔の形見分けのことだけど」

 左右の障子のあいだから父が顔だけ差し入れて言う。

「うん」

 そんな話は早くはないか、と竹流は思うが言い返さない。

「服は持っていってくれ」

「いらないよ。アパートだから置き場所に困るから」

「じゃあどうさせる気だ、捨てろと言うのか!」

「そういう意味じゃなくて……」

「おれは車を引き取る。おまえはほかに腕時計も持っていっていいぞ」

「そう」

 腕時計と言ったって、兄は特別こだわりがあるほうではなかったはずだ。少なくとも五年前は。

「とにかく部屋を見てこいよ」

 父が言ったので、竹流はここぞとばかりに仏間を抜け出した。

 闇に沈む廊下をきしませて歩き、兄の部屋に入る。たぶん父は息子を失い、いても立ってもいられない気分なのだろう。竹流は部屋を見まわした。子供のころと変わらない学習机。中学時代のなにかの賞状がいまだに飾られ、昔流行った漫画本が並んでいる。本棚の上の黒い電子キーが目に止まった。鈍色に光る自動車メーカーのロゴ。玄関の前に黒いエクストレイルが停めてあったのを思い出す。

 衝動的にキーをポケットに突っ込んだ。

 竹流はそのまま家を出て、すぐ目の前の海を目指した。静かな田舎町の夜に、自分の呼吸音だけが響いている。横切る道路に車は一台も通らない。革靴の音がこだまする。まばらな松林を抜け、息を切らしながら砂浜へ降りる。靴が砂まみれになり、やがて濡れるのも構わず、波打ち際まで歩みを進める。夜の海はうなりを上げて波打っている。

 いきなりキャッチボールのように振りかぶった。満身の力で腕を振り下ろす。キーはいびつな放物線を描いて飛んでいった。水音は聞こえなかった。

 あとには、月の光を反射してきらめく水面ばかりがたゆたっている。


 翌日。葬儀にはやはり少数の参列者しか訪れず、おかげで竹流は振る舞いにさほど困ることはなかった。母がいたならもっとてきぱきと切り盛りできたかもしれない。いや、さすがに息子に先立たれたとあっては逆になるだろうか。

 夕方、実家に戻る。親類の何人かが着いてきて、家事の手伝いをしてくれていた。見たことのあるようなないようなおじおば、近所の人たち。中に、若い女がいた。黒いワンピースに身を包み、黒いレースのヴェールを顔の前に垂らし、真っ赤なルージュをつけていた。竹流はその人を見たことがなかった。

 仏間で、慣れない手つきで仏壇をしつらえていると、背後で障子のひらく音がした。父かおばがまた叱責に来たのかと思って振り返ると、黒いストッキングに包まれたほっそりした足先が畳を踏んでいた。視線を上向けると、あの若い女なのだった。

「失礼ですが、あなたが弟さんですか」

 かすれるような低音。いままで泣いていたのだろうか。ヴェールの下は相当端正な顔立ちであることがうかがわれた。

「はあ、そうです」

「このたびは……」

「ええ……」

 答える作法を知らない竹流は、もごもごとつぶやく。女は膝を折って近くににじり寄ってきた。

「たちばな、おと、と申します」

「はい?」

「樹木の橘に、ひもの緒、かたなと書いて、おと、と言います」

「はあ」

 女はいまや竹流の身の前数十センチのところまで来ていた。

「橘さんは、兄のお友達でしたか」

「はい、そうなります……」

 と緒刀は答えるが、最後はすすり泣きに消えていった。竹流は正座の状態で固まったまま動けなくなってしまう。あの兄にこんな女の知り合いがあったとは。情熱をもって泣くところを見ると、もしや……。小刻みに震えるヴェールの端を複雑な思いで眺めていると、やがて顔があがった。不思議と化粧が崩れていないようだった。

「こうなっては言いますが、お付き合いさせていただいてました」

「あー、そうでしたか」

 だからどうだと言うのだろう、薄情にも竹流はそう考えることしかできないのだった。

「お話、聞いていただけますか」

「ええ、まあ」

「松輔さんとは、ひょんなことから知り合ったんです。優しい人でした。そういう関係になるのに時間はかかりませんでした。松輔さんは私のすべてを受け入れてくれたんです」

「すべてを」

「そうです。すべてを」

「そうでしたか……兄は、まあ包容力のあるほうでしたもんね」

 でなければ、あの父とずっと実家暮らしすることなんてできないだろう。

「なのに、あの人は病気になって、入院して……私のことをきっとご家族の誰もご存じないでしょうね?」

「そうですね……おれは聞いてませんでした」

 緒刀は泣き崩れた。竹流は混乱することしかできない。兄の死を聞いたとき、こんな場面に出くわす想像をしただろうか? いや、できなかった。彼は兄の私生活の様子など知らなかったし、知ろうとも思わなかった。だが、心の片隅できっと期待していたことは、兄が不幸な生活を送っていればいいということだったのだろう。だから、これほど泣いてくれる恋人の存在は予想外で、かつ冷ややかな影を彼の心に落とし始めていた。

 唾棄すべき存在。

 いつの間にか女はさらに膝を進めてきていた。膝と膝が触れ合う。驚くほど冷たくて竹流は息を呑む。シャープなラインを描く顎、赤いルージュ。その唇が場違いなほどに艶めいている。

 潮の香りが漂っている。

 緒刀は袖で顔を覆いながらしなだれかかってきた。竹流の喪服の胸に頬が当たり、シャツが濡れていく。彼は戸惑ったが、彼女の肩にそっと手をまわした。声を殺して泣いているのだろうか、小さく震えている。

 しばらくすると、筋張った両手がこちらに向かって伸びてきた。その爪先も赤く塗られていることに気がつく。見ていると、手はスーツの内側に入り込み、まるで蛇のように胸をいはじめた。

「橘さん」

「緒刀って呼んで」

 緒刀は伸び上がり、竹流に口づけた。柔らかな肉のかたまりが口の中に入ってくる。

 竹流は目を白黒させる。パニックですぐに動けない。ところがされているうちに、それは気の迷いというよりも、もっと意志を伴った行為であるように思われた。やがて、彼女が兄の恋人だったという一点が彼の心を支配しはじめた。いま彼女を奪えば、それは兄を貶めたことになるのではないか? それこそが彼にとって甘美な誘惑だった。

 やっとのことで唇を離し、熱くなりかけた息を漏らす。

「兄のどこがそんなに好きだったんですか?」

「あなたのように」顔をあげた女の切れ長の目がきらりと光る。「強がりで、傷つきやすくて、優しすぎるところ」

「え?」

「そして、私もそうだってこと」

「おれのように?」

「つまり共感ね」

 緒刀の手が上着を脱がせようとするので、再びキスをしかけながら竹流は自分で脱いだ。お互いの荒い息づかいが仏間の静寂を浮遊する。彼女を床に押しつける。父が顔を出すかもしれないことが頭をよぎったが、どうにでもなれと思い直す。むしろそうなれば清々するだろう。ヴェールをあげる。ワンピースのファスナーのありかがわからず、脱がせるのに手間取る。

「ちょっと待って。自分でやる」

 緒刀は半身を起こし、ちらりとこちらに視線を送る。竹流は待った。回転灯が薄暗闇を揺すり、竹流の影が砂壁に大きく歪んで伸び縮みしている。ヴェールのせいか、緒刀の影はまるで大きな鳥のように見えた。

 なぜさっきからずっと潮くさいのだろう。

 ワンピースが畳に落ちた。

 緒刀が体にまわしていた両腕を下ろすと、たいらな胸が現れた。

 竹流は目を見張った。

 目線を下ろしていく。すんなりした腹。高く存在を主張する股間。

 一気に血の気が引き、鳥肌が立った。

「あんた……男?」

「すべてを受け入れたって言ったろ」

 細身の男は裸体を揺らして笑う。筋張った手、低い声――いま納得がいった。しかし均整のとれたそれは灯籠の七色の光をまとい、いっそ神々しいほどであるのだった。

「兄はあんたと――」

「しっ、黙って」

 緒刀の体が絡みつく。竹流は抵抗したが、敵わなかった。彼女――彼は、竹流と並んで立つことはなかった。もしそうしていれば、彼が背の高いこと、美貌にカモフラージュされた筋肉に気がついたかもしれない。水底のように冷たい皮膚が張り付いてくる。強く手首をつかまれ、畳に押しつけられる。

 兄はあんたと寝てたのか。竹流にとって、それだけがこの行為の関心事だった。

 彼は蹂躙された。

 すべてが終わり、畳の上に所在なく転がっている彼の横で、緒刀が裸のままなにかごそごそと動いていた。見たくもなかったが、視界の端に、彼が焼香台の焼香をわしづかみにして口に詰め込む様子が入った。粉が噴散し、赤い唇が白くなっていく。一通り食い尽くすと線香も一本ずつ、まるでポッキーのようにかじり始めた。竹流は顔を覆い、これ以上ないくらいに体を縮こめた。

 翌日になって、父が兄の車のキーがないと言って大騒ぎをはじめたのが、今回の帰省で心を慰められる唯一の出来事だった。



 船首近くに立ち、御子みこは猛り狂う海を見下ろしていた。塩辛い風が吹き荒れ、美しく結われた角髪みずらをわずかに乱す。船上のつわものどもの中、彼の黄金の甲冑だけが浮き上がるように光り輝いている。

 小一時間ほども経っただろうか、御子は微動だにせず待っていたけれども、ついに海は凪いだ。口さがない部下たちはめいめいに囃し立てた。

 御子の目から一筋の涙が流れている。父は、国を平らげるまでにいったい私にどれだけの犠牲を払わせるおつもりなのだろうか。

「我が妻よ……」と彼はつぶやいた。船上は航海の準備で騒がしくなった。



 竹流は逃げるように東京のアパートに帰ったが、初七日には出なければならないようだった。約束を反古にすることはできるだろう。しかし父だけでない、親戚や地域や相続や土地そのもののしがらみが彼にまたしても千葉へと足を向けさせる。

 会社にいるときだけが、すべてを忘れていられる時間だった。あとはアパートに帰って、コンビニエンスストアの飯を食い、入浴して寝るだけ。空虚な時間はすべてスマホのゲームでつぶした。

 緒刀が訪ねてきたのは、二日目の夜だった。インターフォンが鳴るのでモニターを見て、ぎょっとした。

 安物の白黒映像にも関わらず、まるで極彩色のように感じられるほどの美男子が映っている。服装はごく普通のジャケットにシャツなのに、その存在感は常軌を逸するほどだった。

 もっとも、竹流からするとそう見えるのかもしれない。彼が緒刀であることは疑うべくもないことだった。

「竹流。いるだろ。早く入れて」

 モニター越しの男の声。竹流は息を潜めた。なぜここがわかったのだろう。

「取って食ったりしないよ。おとといは悪かったよ。どうかしてた。ただ松輔がいなくなって、頭がおかしくなってたんだ」

 沈黙。

「なあ……」流れてきた声音は打って変わって甘いものだった。「おとといさ、あんたも嫌じゃなかっただろ? あけてくれよ。またやろう。今度はあんなふうにはしない。なんなら逆でもいいよ。遊びじゃない。そんなことは竹流、嫌いだもんな」

 竹流は耳をふさぐが、骨肉を貫通して声が刺し込んでくる。今度はすすり泣くように。

「あんたもおれを差別するのか? 親父さんもおれを知らないみたいだった。松輔も結局、おれみたいなやつは軽蔑してたんだろ」

 親父、という言葉が出て、竹流は耳を覆っていたこぶしを握りしめた。

 ドアチェーンを外す。

 金属製ドアの向こうには、すらりと背の高い男が立っていた。ドアノブを握ったまま対峙して、竹流は声を絞り出す。

「近所迷惑だ。入れ」

 緒刀はパッと破顔した。


 それから毎晩その忌まわしい性愛は続けられた。竹流は嫌で嫌でたまらないのに、それと表裏一体であるかのように緒刀に惹かれて仕方ない自分を認めざるを得なかった。

「どうだ、こんなことは女はしてくれなかっただろ」と彼は言う。まあな、と竹流は答える。彼の乏しい、週末の夜に罪悪感を抱きながら行う経験では得られなかった快感。おれはゲイなのだろうか、と竹流は怖くなる。街を歩いても女に目を奪われこそすれ、男には微塵も興味は湧かない。なのに夜には緒刀に耽溺する。

 緒刀は竹流の部屋で食事をすることはなかった。竹流も勧めようとはしなかった。ところがある日の晩、夜中起き出した彼がキッチンの隅でなにかをくわえているのを見つけてしまった。竹流はトイレに立っただけだったので、知らないふりでベッドに戻った。

 いつも朝まだ暗いうちに緒刀は帰ってしまう。出勤前の朝の光の中で、竹流は緒刀が立っていた場所に自ら立ってみた。床にあるのは、彼自身が置いたゴキブリ捕りの紙箱だった。確かいつだったか買ってきて仕掛けて、そのまま忘れてしまっていたものだ。顔をしかめ、指でつまみあげて中をのぞいてみる。獲物はいない。ただ隅に足だか触角だか黒い毛のようなものが残されている。緒刀がなにをしたのか想像したとたん、竹流はシンクに頭を突っ込み嘔吐した。

 初七日の前夜まで緒刀の訪れは続いた。


「どうしたんだ、おまえ!」

 実家に入ると同時に父が叫んだ。驚愕の表情はやがて恐怖に変わっていく。竹流は不可解な気持ちでそれを眺めていた。

「どこか悪いのか? 病院は行ったのか?」

 言われて初めて自分の状態を知った。玄関の靴棚の作り付けの姿見を見ると、青白い顔をした幽霊のような男がいた。その喪服も大きすぎてしわくちゃだ。たった一週間前はジャストサイズだったのに。

「体重を量ってみろ」

 促されるまま脱衣所で古い体重計に乗ると、記憶よりも十キロも減っている。背後で父の絞り出すような声が聞こえる。

「松輔もそうだった」

 竹流は振り返る。苦しげなその顔。

「病院でも結局、原因はわからなかった」

 竹流はうつむく。彼にはわかった。わかっていてどうしようもなかった。今日も緒刀は来るのだろうか、千葉まで? 

 脱衣所の引戸があき、おばの顔がにゅっと差し込まれた。

「住職さん来られたよ」

「ああ」

 何事もなかったかのように、すぐに父は行ってしまう。竹流もあわててあとを追う。

 昼でも薄暗い廊下に線香が立ち込めている。

 怖かった。緒刀が初めて心の底から怖くなった。いまの自分の状況が兄と同じだとすれば、行き着く先は……。あいつは何者だ?


「神社に行かれるがよろしいでしょう」

 読経のあと、年輩の住職は穏やかな声でそう言った。あの仏間、もう写真だけとなってしまった兄が母と並ぶ仏間で、家族だけで会話を持っている。父からの息子に関する相談を、この昔なじみの住職は至極当たり前に受けとめているようだった。竹流も藁にもすがる思いで、この一週間で体験したことを伝えた。むろんセックスのことを除いて。

「世の中に生き物でないモノというのはいろいろとおりますが」住職は竹流に視線を送る。「どうもお話を聞いていると、仏の世界のものではないような気がします。おすがりするとしたら寺でも病院でもなく、神社と思いますが」目を閉じて茶をすする。

 竹流は見放されたような気持ちになった。もう手遅れなのか?

「どこの神社でもいいんですか」と父。

「この辺りですと、T神社がよろしいのでは。ここと対岸の横須賀に横たわる海を、古代は走水はしりみずの海と言いまして、難所として有名だったそうです。T神社はその航海の祈願が由来と聞いております」

「航海? 航海がなんの関係が?」

「父さん、おれ行ってみるよ」

 会話を遮る息子の顔を、父は不審げにのぞきこんだ。



 宴会場が大混乱に陥る中、主賓席で美しい少女がたたずみ、微笑んでいる。あでやかに広がったの赤い花模様と見えるは血しぶき。唇にも飛び散ったそれを口紅のように薬指で引き、舐め味わっている。

 まつろわぬくまどもの悲鳴が聞こえる。御子の足元には熊襲首魁兄弟の兄の死骸が転がり、血が広がりはじめている。

「貴様は――貴様は男ではないか!」

 弟が叫び、背中を向けて駆け出す。御子はあとを追う途中、どうにも邪魔な裳裾を引き裂いて駆けていく。階段をこけつまろびつ昇っていく無骨な異民族の尻を、御子は剣で突き刺した。兄にしたのと同じように。

 弟はぎゃっと叫び、のけぞり、天井を向いたまま階段を赤く濡らして落ちてくる。

 顔を近づけ、御子は問う。

「おまえの名は?」

「タケル……」



 社殿奥から姿を現わしたのは、三十歳前後の女だった。浅葱色の装束を身にまとい、小作りな顔立ちをしている。彼女は微笑んで出て来たが、竹流を見るとハッとした様子で顔を強張らせた。

「ご祈祷とのことで」低い声で彼女は言った。

「ご祈祷というか……困りごとがありまして……」

「お入りください」

 竹流は靴を脱ぎ、本殿に足を踏み入れる。今さらながらまるで安っぽい配信動画のようで恥ずかしくなった。ご祈祷だって? この近所の女を困らせるつもりか? のろのろと、薄い座布団の上に正座する。神主は祭壇の前に座り、こちらを向いた。

「宮司をしております速水はやみと申します。とにかくお聞かせください。時間がないように思われます」

「わかるんですか?」

「失礼ながら、そのおやつれのご様子を見れば。いつから、なにがありました?」

 竹流はため息をつく。やっと決心がつき、しぼり出すように話しはじめた。「一週間前です――」

 聞き終えると、速水は事務的な調子でいくつかの質問をはじめた。

「その橘という人が現れる前、なにかきっかけと思われることはありませんでしたか?」

「えーと、実は死んだ兄の車のキーを海に投げ捨てました」

 そのころには竹流の舌もなめらかになっていたから、どうにでもなれという気持ちも手伝ってなんでも話してしまう。もしくは、この速水という女の雰囲気にあてられたのかもしれない。

「橘氏とは、その、肉体関係をお持ちになったと解釈してよろしいですか」

「はい、しかし最初は彼を女性だと――」

「それはどうでもいいです。それより、今日までで何日目になります?」

「ええと、六日目になりますね」

「明日で七日目ということですね」

「そうなります」

 速水は考え込んでいたが、やがてうなずいた。息を吸い込み、吐き出す。なにかとても重苦しいものを呑み込んでしまったかのようだった。次に彼女の言葉が紡ぎ出されるのには、しばらく時間を要した。社殿には磯の香りが漂い、空気は突き刺すように冷たい。なんの音も聞こえない。清浄な空間のはずなのに、守られているという気がしない。竹流はうつむき、足のしびれを辛抱していた。

 速水は唇をひらいた。

「ご祈祷はできかねます」

 反射的に、竹流は顔をあげた。速水は苦悶の表情を浮かべている。

「なんでですか」

「あなたに憑いておられるのは、非常に格の高いたまだと推測します。いくつかの示唆があるんです。まずは名前――橘緒刀。それから、毎晩通ってきて夜明け前に去ること。顕現のきっかけが海への干渉だということ。正体の候補は二柱だと私は思いますが、確かなことは申せません。一方であるならまだお願いの余地はあるように思いますが、もしより格の高い一方であるなら――私には無理です。たぶん日本中誰でも無理です。おそらく執着の理由のひとつは、あなたの下のお名前でしょう。お兄様はご逝去されたとのことですが、ほかのご家族は?」

「母はずっと前に出て行きました。父は健在です」

「お父様のご協力は得られますか?」

「心配してるようなふりはしてますが、無駄かと。正直言って、おれは父とは不仲です。父は兄を亡くしてすっかり気落ちしてて」

 速水は目を閉じ、深く息を吐いた。

「ああ、その状況はもしかすると決定打かも――」と言いよどみ、それから決心したように口をひらいた。「神を祓うことはできません。神は無邪気で天真爛漫な子供のようなものだと、私は考えています。清らかなものを祓うことはできません。人間ができるのは、鎮めることだけです」

「おれに憑いてるのは神なんですか?」

「はい」

 竹流は体の芯が冷えていくのを感じた。

「私にはなにもできません、ごめんなさい。でも、たぶん今日、橘氏はやってくるでしょう。どうか決してドアをあけないでください。あけなければ、境界を越えることはできません。返事もしないで、無視して、ドアをあけないで。七日目の今日が峠だと思います。今日を越えればきっと……」


 実家の自室で、竹流は布団をかぶって震えていた。

 結局誰からも助けてもらえなかった。この広い家で父とふたりきり。ひとりよりももっと孤独だった。孤独だからつけ込まれたのか。たった一度の何気ない嫌がらせが破滅への道と繋がっているなどとは、一週間前まで東京で過ごしていたときには想像もしなかった。

 インターフォンが鳴った。

 彼は縮みあがった。

 もう一度鳴った。

 布団を強く巻きつけ、目をつぶり、耳をふさぐ。

 もう一度鳴る。もう一度。

 ピンポーン……ピンポーン……ピンポーン……ピンポン……ピンポン……ピンポン、ピンポン、ピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポ!

 部屋の引き戸があく。

「おいなんだ、あれ?」

 父の声が困惑している。竹流は耳をふさぎながら叫ぶように答える。

「知らない。あけるな」

「松輔の関係かな? なんだってあんなにばかみたいに慣らすんだ?」

「神が来てるんだって」

「ばかか、おまえ」

 父は吐き捨てるように言い、部屋に侵入してきて布団を力ずくで引き剥がした。発狂したインターフォンの嵐は続いている。

「行って来いよ」

「嫌だ、父さんが行って来いよ」

「主はおれだぞ。おれが命令してる。行って来い」

「嫌だ!」

 こぶしが飛んできて、竹流は横っ飛びにベッドに倒れる。ひさしぶりに殴られて、懐かしい熱さが頬を襲う。

「行って来い!」

 竹流はふらふらと立ち上がり、階段を目指した。

 ピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポ!

 一階の階段口から玄関は目の前だった。磨りガラスの向こうで黒い影がうごめている。逆光のせいなのか、まるで大きな鳥がうめき苦しんで翼をばたつかせているように見えた。

 声が聞こえた。

「竹流、いるんだろ? どうして出てくれないんだよ」

 緒刀の声。あれほど快楽を分け合った。

「親父に遠慮してんのか? なら友達だって言えよ。兄さんの友達だって。そうだ、兄さんのセフレだってばらしてもいいぜ。最高の復讐だろ、なあ?」

 それは甘美な誘惑。だが、竹流は首を振った。息を殺し、階段の下から一歩も動かない。

 そのとき、板敷きのきしむ音がして、背後から父が降りてきた。

 それと同時にインターフォンの音がやんだ。おぞましい蝉時雨が一瞬にして消え、静寂が場を支配する。竹流と父は玄関の磨りガラスを見つめていた。

 声が聞こえた。それは妙に透き通った声だった。

「竹流さん……」

 無視しろ、祈りを込めて竹流は父を振り返る。父の表情は微動だにしない。

「松輔さん……」

 父は階段を駆け下りた。竹流は止める間もなかった。あとを追おうとして転倒して顎を激しく打ち、口内に血があふれる。

「はい、どちら様?」

 父の手で戸が音を立ててひらかれる。まばゆい光が怒濤のごとく流れ込んだ。いっそ暴力的なほどの光の中に、黄金の甲冑を身にまとった英雄が立っていた。


 速水は、その家を眺めていた。

「あなたの一言が竹流さんを終わらせる最後の一撃だったのです。御子の望みは成就しました。それは、あなたという父に対する復讐だったのだと、私は思います」

 ふたりの息子を失った父が隣に立っている。あれ以来ひとことも言葉を発していない。

「さねさし相模さがむの小野に燃ゆる火のなかに立ちて問ひし君はも

 私の神社は弟橘媛おとたちばなひめをお祀りしていまして、彼女は倭建命やまとたけるのみことの妻なのです」

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