ファンシーケーキ

揚羽(ageha)

ファンシーケーキ

 神木は、その話を聞いていなかった。正確に言えば、会議室にはいた。全国展開するケーキチェーン本社、白いテーブルの端。壁際で、時計が正面に見える席だ。誰が先に座り、誰が遅れて入ってきたかも覚えている。資料を配る順番、笑った人間の顔、フォークを落とした音まで、すべてだ。ただ、その「決まりごと」だけが、記憶にない。

「……確認しますけど」

松下が手を挙げた。肘は浮かさず、机の上で指先だけを少し上げる。話の途中で一拍置く癖がある。

「ランチタイム限定のケーキバイキングって、今日決める話でしたっけ」

空気が止まった。松重が笑った。

「前からの流れだよ。な?」

松下の顔色は青白く、頬の血の気はほとんど失われていた。目の奥に、かすかな震えがある。神木は息を飲んだ。

藤木は何も言わず、資料の端が二ミリほど出ているのを揃え直した。

「まあ、やらない理由もないですし」

今田が言った。

「私も……聞いてた気がします」

松本は少し遅れて言った。語尾が下がりきらない。神木は、全員が「聞いていた側」に立っていることに、背筋が冷たくなるほどの違和感を覚えた。松下だけが、立っていない。

「聞いてないってことは、ないと思うけど」

加瀬が言った。試食用のフォークを置く音が、やけに大きい。松下は反論せず、メモ帳を閉じた。神木は、その動きを見て、胸の奥が重くなるのを感じた。なぜなら、そのメモ帳の一行目に、ケーキバイキングの話は書かれていなかったからだ。

会議は進んだ。原価率、動線、アレルゲン表示。

「もし異物混入があった場合」

「もし表示ミスが起きたら」

まだ起きていないことだけが、丁寧に並べられる。だが、どこにも「決めた瞬間」はない。

 翌日、松下は会議室に現れなかった。欠席の連絡はない。遅刻とも断定されなかった。開始時刻になっても席は空いたままだったが、藤木は時計を一度見ただけで資料を配り始めた。その席の前にだけ、誰も座ろうとしなかった。神木は、言いようのない胸騒ぎを覚えた。

「では、始めましょう」

「埼京線沿いの主要駅で試食会だったな」

「そうでしたね」

神木は、喉の奥が冷え、手のひらにじんわりと汗をかいた。遅れてくる可能性も、体調不良という仮定も、どこにも置かれていない。

 昼休み、神木は倉庫に入った。使われなくなった紙袋、古いキャンペーン什器。甘い匂いが、かすかに残っている。棚の奥に、メモ帳が戻されていた。松下のものだ。最初のページ、日付と会議開始時刻。その下に、一行。

「※この話は、まだ出ていない」

抗議ではない。ただの記録だ。

 週の終わり、松下の空席はそのままだった。名簿から名前は消えていない。退職の話も出ない。ただ、誰も名前を呼ばなくなった。ケーキバイキングの試食会は予定どおり行われた。写真が撮られ、

「甘すぎないですね」

「値段はいくらですか」

という感想が並ぶ。

神木は、加瀬を見た。加瀬は、いつものように会議の途中で席を立つ。全体共有の直前だ。

 その日、加瀬は戻らなかった。途中退席の理由は共有されず、会議はそのまま終わった。加瀬の席には、半分残ったコーヒーがあった。湯気は、もう立っていない。

翌日も、加瀬の姿は確認されなかった。欠勤とも、有休とも扱われなかった。

「今日、有休でしたっけ」

今田が言う。藤木は首を傾げた。

「……そうだったかな」

それきりだった。神木は、何が起きているのか分からないまま、焦りだけが募り、仕事が手につかなくなっていた。

 三日後、加瀬の私物は少し減っていた。だが、誰が片づけたのかは分からない。ゴミ箱に、紙片が一枚だけ残っている。破られたメモだ。

「聞いていない、で止めろ」

神木は、それをポケットに入れた。誰にも言わない。

神木は、はっきりと焦り始めていた。次は自分かもしれない、という恐怖ではない。どう消えたのかが、分からない。松下も、加瀬も。辞めたのか、倒れたのか、巻き込まれたのか。どれも断定できない。それなのに、世界は何事もなかったように回っている。

 次の会議で、神木は言った。

「聞いていません」

空気が、わずかに歪む。

「またそれ?」

今田が笑う。

「聞いていません。だから、判断できません」

会議は長引いた。何も決まらない。だが、誰も苛立たない。ただ、目を合わせなくなるだけだ。

 数日後、神木は全員の前で言った。

「私、何も聞いていません」

声が、わずかに裏返った。昨日の決定。先週の合意。今月の方針。

藤木が、初めて声を荒げた。

「では、あなたは何をしていたんです?」

神木は答えた。

「記録していました」

沈黙。それでも、神木は消えなかった。ケーキは売れ続け、クレームは起きず、二人分の空席だけが、静かに使われなくなった。

 ある夜、神木は一人で考える。松下は、確認しようとした。加瀬は、拒否し続けた。どちらも、「聞いていない側」にいた。だから消えた。殺されたのか。神隠しなのか。決めたことにした世界から、姿を消しただけなのか。

 後日、神木は総務課で二人の安否を確認した。その瞬間、疑念は確信に変わった。見放されたのではない。最初から、自分も数に入っていなかったのだ。

神木は、今日も一行だけ書く。

「聞いていない」

それは抵抗ではない。告発でもない。ただの事実だ。だが、この会社では、事実だけが、最も居場所を失いやすい。甘い匂いの中で、神木は、それを静かに理解している。

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