平安時代の若緑ちゃんは今日も和歌を詠む

@pusuga

平安時代の若緑ちゃんは今日も和歌を詠む

 昔々の日本でも、神や天――そしてその化身の怒りを鎮めるために人心供養……つまり、生贄を捧げた……なんて昔の神話や伝承の物語を一度は聞いた事があると思います。

 しかし、そのような事が実際行われた史実はあるのか? と言われると歴史上の一次資料には記録がなく、伝説や民間伝承の領域に留まっているのが現状です。但し、火のないところに煙は立たずというように、実際行われていた可能性はゼロではない……と、個人的には思っています。


◇◆◇◆◇


 平安時代――この物語の主人公、10歳の若緑は、貴族である母親の急な呼び出しを受け不満な想いを露わにし、着物の長い裾を引きずりながら、寝殿造と呼ばれる貴族の住居内にある屋根付きの廊下を踏み鳴らし、バタバタと異音を奏でながら歩いていた。

(なんですの? せっかくひいなを始めたばかりですのに……私は暇じゃないですわ。くだらない用件ならば、母上様と言えども怒り遊ばせますわよ)


※ひいな遊び

 土や紙で作ったひな人形のような物を使う遊び。現代でいう『おままごと』に該当する女児の遊び。

 

 若緑は興を削がれた不快感と、普段からお世辞にも仲睦まじいとはいえない母親の他愛もない内容だろうという予測が複合し、今日こそはあわよくば一言物申すつもりで襖の外から声を発した。

「母上様。若緑でございます」

「お挿れ……ではありません。お入りなさい」

「……はい」

 あり得ない言い間違えに不穏な予感を察知しながらも、普段は来客など公の場において使用する、広さ二十畳を誇る寝殿の襖を開け入殿する若緑。そして、その寝殿内の中央にて母親と二人だけで正座対峙した。

「若緑。そなたはまた貝合わせで遊んでいたのですか? なんといかがわしい……」


※貝合わせ

 性技以外に、貝殻の美しさを競うなど色々ありますが、一対の貝殻の内側に同じ絵柄を描き、伏せた多くの貝殻からぴったりと合う一対を見つける――つまり、トランプの神経衰弱に似た遊びです。


「いいえ? ひいなでございますが? 母上様、いかがわしとはどういう事でございますか?」

「そのような屁理屈はどうでもよいのです。若緑、今日はそなたに極めて大事を伝えなければなりません」

「……」

 理解不能で理不尽な返答を受けた若緑の憤りはいきなり業火に陥り、正座から立ち上がろうかと足をくずしかける。

「そのため、君も間もなく参上致しますゆえ」

「えっ!? 父上様が?」

 若緑の父は貴族でありながら、武士も舌を巻くほど武勇に秀でており、なおかつ筋肉隆々、男の平均身長が155センチといわれたこの時代にはそぐわない、180は優に超える大男であった。もちろん、若緑もその存在には一目置いており、娘でありながらも恐れ慄く事さえあった。そのため、若緑の業火は一瞬にして鎮火した。

 その直後、ドカドカと大地を踏み鳴らす轟音のような異音と共に襖が開く。

「桃音。若緑は――おお、もうすでに来ていたか」

「あ、はい。父上様……」

 父親の登場で崩しかけた足を再び整え、背筋を伸ばす若緑。そして、父親と母親である桃音は並んで激しいオーラを放ちながら正座し、その正面に緊張する若緑という図式に変わった。

「若緑。改めて聞くが、そなたは齢いくつになったのじゃ?」

「は、はい。10になったばかりでございます。父上様、なにゆえそのようなことを――」

「そうか。だが、そなたには貝合わせはまだ早いな」

「はい?」

 誕生日祝いの席が設けられたのはわずか1週間前の事。だが父親は、若緑のなぜそんなわかりきった事を聞くのか? との問いをガン無視。

「君の仰るとおりでございます。兜合わせくらいがちょうどよいのではありませぬか?」

「おい桃音。それはどちらも同じではないか?」

「そうでございましたね。うふふ」

「ガハハハ!」

「……」

(お二人は何を仰ってるのでしょう? それより、父上様のその笑い方やめてくれませんか?)

「ところで若緑……いと疑はしく、たやすくは信じがたき事があります」

「なんでございますか? 母上様」

「そなたへ求婚の文や歌が三通参っておるのです」

「はい? き、求婚?」

 ちなみに平安貴族の結婚は、夫が妻の家に同居する婿入り婚が主流。まずは、滅多に外出しない貴族女性に対して、噂話を流すなど好意を間接的に伝えたり、女性の乳母や侍女を通して手紙や歌を贈っていた。

「さようです。なにゆえ、兜あわせに興じてばかりいるあなたへ文や歌を贈り申すか、心惑ひて理解に苦しむばかりですが」

「……」

(なにゆえ、いちいち嘲るような物言いなのでしょうか? あと、そのなんとか合わせとはなんなんですの?)

 ちょいちょいディスる母親の言葉に困惑とイラつきを覚える若緑。

「あの……母上様、私は婚姻するのでしょうか?」

「いいえ。今日そなたを呼び出したのはその事ではございません」

「さよう。婚姻よりも重要な内容だ」

「え? こ、婚姻よりも重要……でございますか?」

 両親は若緑の問いに対して返答はせず、ここで一分ばかりの静寂が寝殿内を包む。その間、両親はまばたき一つせず若緑を凝視。その張り詰めた空気に耐えきれず、若緑は口を開く。

「あ、あの……そろそろ」

「若緑」

「は、はい。なんでございましょう父上様」

「お主もそろそろ和歌を嗜んだらどうだ?」

「和歌……」


 ※平安貴族においての和歌

 和歌を詠むというのは、遊びの他に様々な意味合いがありました。

 ◯宮廷での儀礼の一部として行われ、政治的な意味合い。

 ◯互いに、今の気持ちを和歌にして詠み伝えるという恋愛の駆け引きにおいて重要なコミュニケーションとしての意味合い。

 ◯文化的素養の証とみなされ、自身の教養の高さを示すものとしての意味合い。

 

 普段の貴族生活において、遊びに全振りしている若緑。その事は両親も将来に対して多少の危機感を持っており、1年前から週に3回程度であったが、強制的に文字の読み書きを父親からマンツーマン指導を受けていた。


「君の仰るとおりです、若緑」

「……」

「毎日毎日、そなたは鉄板……じゃなく、呑んべんだらりといかがわしい貝合わせや、逃げる鰻を握りなおしてばかり」

「はい?」

「そうじゃ若緑。わしがこれから出すお題に基づいて、即興で和歌を詠むがいい」

「え?! 今……ですか?」

 無論、和歌などは詠んだ事はない若緑。但し、和歌の書などは目を通した事があり、どのような物かは理解していた。

「わ、わかりました。お父様、お題を……」

「……」

 ここでしばしの長考に入る父親。

 若緑は、大事な話を早く聞きたいという想いから若干苛ついた。

「お父様。早く仰っ……言って下さい」

「若緑。わしはそんなに早くイケないぞ」

「はい?」

「君。そのイクではありませぬわ」

「おお、そうか。ガハハハ!」

「オホホホ!」

「……」

 そして3分後。

「お主はここ1ヶ月ばかりの長雨をなんと心得ておる」

 お題というより、一見ただの世間話と思われる内容であったが、父親の鋭い眼光を察した若緑は毅然と返答。

「はい。私が物心ついた時から、このような長雨は記憶にございません」

「その通り。我も人生においてこのような長雨は経験した事がない。それを歌にせよ」

「え? という事は長雨がお題……」

「そうじゃ」

「……」

 若緑は背すじを伸ばしたまま静かに目を閉じ長考。

(父上様……早く大事とやらの話を始めて頂きたいのですが?)

 若緑は、ひいな遊びを開始直後に中断された事、及び恋文の件で母親にディスられた事、更に大事な話があると苦手な父親が登場したが、一向に話が進まない挙句、なんの興味もない和歌を読めと強要されている事に憤りを感じていた。だが、いかがわしい遊びをしていると誤解されている濡れ衣を晴らしたいという気持ちが十のうち一つあり、半ばやけくそ気味に全知全能を使用し和歌を考え始めた。

 一分が経過し更に二分経過。

 その間も若緑を凝視したまま静かに待つ気の短いはずの両親に、若干の圧と違和感を感じていた。

 そして三分後――

「で、出来ました。詠みます」

「聞かせてくれ」

 両親は目を閉じる。

 スーッと息を吸い、若緑は口を開く。

「雨音の、草木も濡らす、引きこもる、興をそがれる、天の岩戸……」

(あっ……最後の句、字が足りないや……)

※天岩戸(あまのいわと)

 日本最古の歴史書、古事記の神話に登場する洞窟。

 太陽の神であるアマテラスオオミカミが、弟であるスサノオノミコトの横暴に耐え兼ね、閉じ籠もってしまった洞窟の名前。


 若緑が詠んだ和歌はある意味、叱責覚悟でこの状況から逃げ出したい……早くひいな遊びを再開したいという気持ちを両親に当てつけた内容だった。

「……」

「……」

「……」

 三人の静寂。

「い、いかがでごさいましたでしょうか……?」

「なるほど……若緑」

「は、はい」

「良い歌だ」

「えっ?!」

「まだまだ貝合わせを覚えたての未熟者と思っていたが、お前もそのような齢になったのだな」 

「……」

 余計な一言はあったにしろ、はっきりとした肯定的な一言を聞いた若緑は生涯初めて父親に褒められたような気持ちに陥り、赤面し俯いた。

「だが、それは置いとくとして若緑」

「え? あ、はい」

「一つ問いたい事がある」

 全知全能を使い捻り出した和歌をスルーされた困惑もあったが、やっと大事とやらの内容を聞けるかもと安堵した若緑。

「婚姻にあたり、夫婦には三つの大事な袋があるのは知っておるか?」

「い、いえ……」

(婚姻の話じゃないはず……)

「その一つは知恵袋。知識や知恵を蓄え、夫婦で困難を乗り越えることを意味する」

「はい」

「もう一つは堪忍袋。これは我慢すること、許し合うことを意味する。相手の欠点――例え貧相な竿や腰使いにおいて興ざめる耐久力など至らない部分を大目に見て、穏やかに過ごすための心構えだ」

「はい」

「さて、最後……もう一つは男子が体の一部に持つ袋だ。なんだと思う?」

「え? か、体の一部?」

 普段外出などしない若緑にとって、屋敷内で男子は父親と一部の従者以外と接した事がない。無論、子孫を残す行動に関しては無知に等しかった。しかし、体の一部というヒントを聞いた若緑は、あれやこれやと自身が持つ知識の範囲内で裸体を想像し困惑。

「えっと……それは……」

「胃袋だ」

「……」

(なんですの? こんなくだらない話が大事なのですか?)

「――この話はお前が婚姻する際に話そうと考えていた」

「はい?」

「だが、それは叶わぬ現実になった」

 その瞬間、父親の表情は更に鋭さを増し、まるで戦場に赴く眼光を放っていた。若緑もただならない様子を察した。

「さて……若緑。戯れもここまでだ」

「は、はい」

 やっと本題に入る雰囲気に安堵する若緑。

「これから話す事、お主には理解し難い内容だが心して聞け」

「はい」

(前振りはいいから早くして欲しい……)

「最近の長雨だが……海神様の仕業であるとの話がある」

「え? 海神……様?」

「実は毎年、庶民の幼い女の子――若緑、お主と齢が近い女の子を神龍様の供物として、輿と共に海に沈めていたのだ」

「えっ?!」

「そして、今年も同様に儀式が行われたのじゃが、一向に長雨が収まる気配がない」

「はい……」

「そこで、改めて我々貴族の中から供物となる女子を神龍様に差し出す事になり、先程帝から下知が下った」

「……」

(まさか、私ではないですよね)

「これが帝からの書状だ」

 懐から一枚の紙を差し出す父親。

 これほどのフラグが立ちながら、若緑は自分であるとは微塵も思わず、書に目を通すと、他の文字よりも倍の大きさのフォントで綴られた自分の名を発見。更に今日の日付と3日後の日付が書かれていた。

「……」

(嘘でしょ……)

 若緑が俯き察したのを表情で感じた父親はスッと立ち上がり仁王立ちで腕を組みながら見下ろす。

「若緑。これは我家においてとても名誉であり、光栄な事であるのだ」

「……」

 普段から呑んべんだらりと遊びに全振りしていた若緑に、突然降り注ぐ絶命という近い未来。

 父親の組んでいる腕の中では、必要以上に強く拳を握り締めている様子を察した若緑。それはいつもの威圧感が影を潜め、とても名誉でも光栄でもあるように感じている事など微塵もなく見えた。

「……甘んじて受けるな?」

「……」

(なんで? イヤに決まってるじゃん)

「受けるな?」 

「あ……はい」

 まだ自身が置かれた状況を整理しきれない若緑であったが、未知の絶命というピンとこない現実と父親に逆らった際に起こる修羅場とを天秤にかけた結果、咄嗟に返答をしてしまう。

 だが返答をした瞬間、若緑の目から自然と涙が溢れだした。その涙を母親は懐から取り出した布で拭った。

「若緑……涙を流す必要はありません。足りない頭で考えてごらんなさい。たくさんの貴族女子の中から、貴方は海神様にお近づきになり、永遠にお側にお使えする女子に選ばれたのです。君の仰るとおり大変名誉な事なのです……それを感じるのです。わかりましたか?」

「は、はい。わかり……ました母上様」

「若緑、よくぞ申し……た。それではさっさと3日後に控えた出立に備えて、離れの間で身を清めるがよい」

 そう言い放った父親はくるりと背を向け寝殿を跡にしようと襖に向かう。だが、若緑には父親の頬につたう涙がはっきりと確認出来た。その瞬間、ここが抗う好機到来、父親を立ち去らせては駄目だという生への本能が発動したように、若緑は立ち上がり声を荒げる。

「お、お待ち下さい父上様!」

 襖に手をかけたまま振り向かなかった父親であったが、動きを止める父親。正座したままの母親も若緑を見上げる。

「い……いやでございます! 私は誰にもお仕えする気は毛頭ありません! お断り致します!」

「……」

「私はここに居たいのです!」

「若緑……だが、これは帝が下した命なのだ」

 背を向けたまま俯く父親。その姿はもはや武勇のかけらもなく、なんのオーラも感じない後姿に若緑は更に声を荒げる。

「だったら私が帝の所に行き、直談判致します! 連れてって下さい!」

「なんじゃと?」

 予想だにしないあまりの突飛な発言に父親は振り向き、つかつかと若緑の前に詰め寄る。

「若緑、お主が今言った事、もう一度言ってみい」

 父親は睨みつけ圧を放つが、興奮しきった若緑には一切効かない。

「何度でも言いますわ! 私から帝に直談判致します! イヤです! イヤです! やだやだやだ!」

 若緑は座布団を持ち上げ、父親に向かって八の字に振り回し、何度も父親を叩いた。さすがの母親も後ろから羽交い締めにして若緑静止を試みるも、払い除けられてしまう。そしてやむを得ず、父親が若緑の両手を掴み、そのまま肩で担ぎ上げる。

「わかった。わかったから気を静めるのだ若緑」

「降ろして下さい! とにかく私はイヤなのです!」

深いため息をつく父親。

「わかった……とにかく明日、帝の元に参上する事に致す」

「え?」

 父親の言葉を聞き、若緑は落ち着きを取り戻す。父親は両脇を抱え若緑を床に降ろし、若緑の両肩に手を置き見つめる。

「若緑。その癇癪……お主はやはり儂の娘だったか。血は争えないというものだな」

「……」

「儂が同じ立場であれば、帝の元に行く事が叶うまで暴れていたであろうからな」

「も、申し訳ありません……」

「桃音。ご覧の通りだ。明日若緑と共に帝の所に参上致す。宮中の使いの者にその旨の書を携えておいてくれ」

「かしこまりました。若緑、帝の前で我が家の名誉を汚す事がないよう、失礼なきようにするのですよ。あとは君を信じてお任せするのです。今日は寝所で貝合わせでもして休みなさい。明日、どのような結果になろうとも私は受け入れる事としましょう」

「は、はい……」



◇◆◇◆◇◆


 翌日、海神様への供物となるため身を清めなければならないはずであったが、大暴れというパワープレイで反故にした若緑は父親と共に宮中にやって来た。


 約5枚の着物を重ね着した十二単衣もどきの正装に身を包み、宮中内の待機室として使用している亀甲の間にて呼び出しを表面上は緊張した面持ちで待っていた。

 だがしばらくすると、廊下を歩く1人の女性のシルエットが障子に映し出された途端、父親は障子を開け声をかけた。

「紫殿ではござらぬか?」

「あ、はい――あ……藤原亀頭様。お久しゅうございます。昨年の食事会以来で……その節は私のような者をお招き頂き、ありがとうございました」

「いや、こちらこそ申し出を受けて頂き感謝致す。紫殿はもはや宮中では知らぬ有名人――ここに参上しているという事は、帝にお目通りをしていたのですな?」

「は、はい」

「源氏の物語、続きの献上ですな?」

「あ、はい……」

「おおっ! それでは写本が出回るのは1週間くらいじゃな? 妻が続きを楽しみにしておったからな」

「はい、お待たせして申し訳ありません」

 その女性は終始低姿勢で俯き会話をしていた。その様子を若緑は不思議そうに眺めていた。


 紫式部と源氏物語

 紫式部の本名は不明ですが、父親である藤原為時の役職名であった「式部丞」と源氏物語に登場する人物「紫の上」を合わせて紫式部とされています。

 実は物語中に作者の表記はなく、彼女が作者であるという決定的な物的証拠はありません。有名な竹取物語も作者は不詳となっているように、当時は物語作品に作者名を記載する事はありませんでした。

ですが――

◯紫式部が残した紫日記の中に自作である根拠となりえる記述が複数あること。

 その一例

 ①藤原公任が紫式部をからかって「源氏の物語の若紫」という呼びかけをしたという記述。

 ②藤原道長が好色の和歌を紫式部の前で詠み、返歌を求める際の「源氏物語の作者とあろうものが」という発言の記述

 ③源氏物語と思われる作品の製本を行っている記述。また、誤って清書前の下書きが藤原道長に献上されてしまって不本意だったとの記述。

◯別作者の他一次資料、例えば更科日記には源氏物語の事を「紫の物語」「紫のゆかりの物語」と記述がある。

◯紫式部が精通していたとされる漢文の素養――当時の一条天皇が源氏物語を称賛しており、作者は漢文に精通している者だという記述。

◯宮中に仕えていた時代との一致。

 こういった周辺一次資料の中での状況証拠の積み重ねから、紫日記の作者=源氏物語の作者と考察され、学術的には作者は紫式部で間違いないだろうと結論づけ、現在に至っています。

 複数人執筆説など異論を唱えている方もいますが、そもそも「勉学は女性には不要とされた男尊女卑の時代背景の中で、このようなすごい作品を女性が1人で書けるはずがない」という偏見が根底にあるからではないか? という解説は、なるほどと思いました。

 そしてその源氏物語ですが、経過時間約70年を記載した典型的な大長編王朝物語、約100万文字、和歌795首、登場人物は500人にも及びます。物語としての虚構の秀逸、それまでの作品には見られない繊細な心理描写、筋立ての巧妙さ、文章の美と美意識の鋭さ、これだけの大長編でありながら作中の矛盾のない内容など、宮中の行事や生活・人々の様子などが詳細に記載されており、一次資料にも匹敵する貴重な内容から、しばしば日本文学史上最高傑作ともされています。

 ちなみに紫式部にとって唯一の物語作品で、この作品を執筆する事に関しての並々ならぬ情熱や熱意を個人的には感じました。


「では、私はこれで……」

「そなたは彰子様の女房であったな……忙しい中引き止めてしまい申し訳ござらんな」

「いいえ。お気になさらずに」


※紫式部は藤原道長の娘の世話役のような仕事に従事していました。


 立ち去る際に、父親の背後で眺めていた若緑とその女性は一瞬目が合った。若緑は軽く会釈をし、女性もそれに応えるように頭を下げ立ち去った。

 

「父上様、あの方が源氏の物語を書いた方ですか?」

「無論な」

「さ、さようでございますか……」


 源氏物語は若緑の母親が特に愛読している書の一つであり、読書中は若緑の呼びかけにはもちろんガン無視。それどころか、突然キャーキャー騒いだり、泣き出したりと一喜一憂しながら読書に勤しむ母親に対しては、ジト目で軽蔑の視線を送っていた若緑。


(母上様をあのように虜にする物語を書いていたのが女の人だなんて知らなかった……)


 驚愕する若緑であったが、その直後部屋の外からの声がけに我に帰る。

「藤原亀頭様。帝の間へご参上下さい」

「わかり申した」

「……」

 ついに今日の本題――若緑にとっては生か死かという運命をかけた帝へのお目通りの儀が始まる。若緑は目を閉じ顔を左右に振り、緊張をほぐしていた。

「さ、行くぞ若緑。まずは儂が帝にご挨拶をする。その後、名を名乗り床にひれ伏すのじゃぞ」

「は、はい」

 今日は朝イチで叩き起こされ、帝にお目通りした際の手順を父親から入念に指導を受けた若緑。その指導は入室した際の立ち位置、正座するタイミング、指の一本一本に及ぶ所作など、かなり細かい箇所にも及んだ。そのような面倒くさい作法は右から左の若緑であったが、さすがに自らの生き死にがかかるこの状況ではそうもいかず、完璧に頭に叩き込んでいた。

 しずしずとすり足で廊下を歩き、父親と共に帝の間へ向かう若緑。途中、自宅にはない高級感満載の調度品が目に入り、否が応なしに若緑の緊張は絶頂を迎えていた。

 まずは閉められた障子戸の外で正座し、父親が声を発する。

「帝――藤原亀頭でございます」

「藤原亀頭様、どうぞお入り下さい」

 帝の従者の声を合図に入室する。

 一段高い床の金屏風の前には帝が座っているのが若緑の目に映る。

(あれ? 意外と小さい? 優しそうな方ですね)


◇◆◇◆◇◆


 その後、今朝指導を受けた、お目通りの手順を完璧に進める父親。若緑は斜め後ろで三つ指を突きながら眺めていた。そして、振り返った父親の鬼の形相を合図に若緑の挨拶が始まる。


「み、帝……藤原亀頭の娘、若緑にございます。本日は突然のお目通りの申し出、誠に感謝しております」

(あ! 誠に申し訳ございませんでしたわ!)

「……」

(帝……なんか言って下さい……)

 何も言わない帝であったが、正座してひれ伏している若緑にはどんな表情をしてるかはわからず、少し不安を覚えた。

「まあ、堅苦し挨拶はそれまでにして、亀頭殿も若緑殿も面を挙げてよい」

 その言葉に部屋は一瞬にして、光が挿し込んだような空気に変わり、若緑の緊張もほぐれた。

「亀頭殿、先程紫殿とすれ違ったであろう」

「はい。源氏の物語の続きを献上したとの話をお聞きしました」

「そうじゃ。たがら朕も今日は気分が良いのじゃ」

「さようでございましょう」

「ところで亀頭殿。今日はなんの話じゃ?」

(えっ?!)

 自分の生き死にがかかった大事な話をしに来たのにも関わらず、その決定を下した張本人の帝が呑気に何の用だ? との発言をかました事に驚愕する若緑。だが、この状況では憤りの導火線は着火しない。

「昨日の書――海神様への供物の人選に関してのお話で参りました」

「昨日の書とは……?」

(えっ!?)

 自分の生き死にがかかった書を送りつけた張本人にも関わらず、送りつけた事さえも覚えていないの? というとぼけた発言に再び驚愕する若緑。しかし、まさか帝が送った書ではない? という疑念も瞬時に生まれると同時に安堵もよぎった若緑。

「海神様への供物を捧げる儀においての書――これにございます」

 懐から書を取り出し帝の前に差し出す父親。もちろん若緑同様、驚愕している様子。

「……ああ。この書じゃな。源氏の物語の献上があり失念していたようだ」

(え?!)

 帝が送った書ではない……という希望の疑念があっさり否定された挙句、自分の生き死にがかかった書のことを、たかだか物語の続きが献上された事のために帝が失念していた事に本日3度目の驚愕。そして遂に導火線に種火が灯る。

「み、帝……私は自分が海神様の供物になる事をお断りしに参りました」

「断る? どういう事じゃ?」

 若緑の言葉に父親は振り向き驚愕。しかし、すぐに帝の方を向き援護射撃。

「帝……実は、昨日書を頂き若緑に伝えたところ、嫌だ嫌だとかなり駄々をこねまして。このような我儘な娘では海神様の供物となるには相応しくないと考え、人選の再考をお願いしたく参った次第なのです」

「そうか」

 数秒の沈黙が部屋を包んだ後、襖戸の外から声がする。

「帝。紫殿が再びお目通りを……」

「紫殿が? よい。入れ」

 今後の展開が、修羅場か平穏かのこのタイミングで先程の女性――つまり紫式部が再びやって来たのだ。

「帝……申し訳ございません。先程献上した物語ですが、一部が抜けておりましたのでお持ち致しました」

「なんじゃと? そうかそうか。わざわざ済まないな紫よ」

 立ち上がり、紫式部の元に近寄る帝は、食事に呼ばれてやって来たヘラヘラした子供のような姿に若緑には見えた。

「こちらにございます。丁度最後の3枚でございます」

「なんと! 大事ではござらんか!」

「そ、それでは、お話し中に腰を折ってしまい申し訳ございませんでした。失礼致します」

「よいよい。朕にとってこの3枚に勝るものはない」

(え?!)

 昨日書を見た時のショックと悲しみ、人生初の大暴れが走馬灯となり若緑の脳裏をよぎる。そして、改めて自分の生き死には帝にとって、物語の続き以下の事象であると確信した若緑の導火線は、種火から激しい炎となり焼き尽くし暴発する。

「帝!」

 誰が聞いても明らかな怒声が響く。

「いい加減にして下さい!」

「ちょ! 若緑!」

 若緑は立ち上がり、帝と紫式部の方に向かいツカツカと歩み寄る。そして、そんな若緑を思わず制止する父親。しかし、身体は制止出来ても若緑の怒声は止まらない。

「昨日……私が昨日どんな気持ちで書を見たかおわかり頂けていないようですね!」

「……」

 帝、紫式部、従者2名、父親――今この場にいる全員が絶句する。

「私は海神様の元へは参りません! 供物だとか遠回しにおっしゃいますが、要は死ねという命ではありませんか!? 好き好んで死を望む女子がどの世にいましょうか!」

「こ、こら! 若緑! 帝の御前であるぞ! 口を慎め!」

 父親の諌めにも動じず帝に対して正論をぶつける若緑。しかし、この時代にとって若緑の行動は無礼極まりないものであった。事と次第によっては父親が責任をとり自害させられてもおかしくないレベルの発言であった。

 その重大さは、この場にいる誰もが持っている共通認識であり、皆が口を閉じる中、紫式部が意外な言葉を口にした。

「帝……申し訳ございませぬ」

 途中からこの場に現れたとはいえ、紫式部は完全な部外者である。なぜ彼女が謝るのか……素早く父親が否定する。

「紫殿が謝る事ではありません。全ては私の娘の不敬にござる。帝、改めて我が娘の無礼を代わってお詫び致します。全責任はこの藤原亀頭にあります――無論、どのような処分を受けようとも甘んじて受け入れますゆえ」

「……」

 若い帝にとっても、このような小さな女子が正式な場で自分に無礼をはたらいた事は初体験であった。その為自身の反応に苦慮し、咄嗟に何も言えないというのが正直なところであった。若緑はというと、まだ興奮冷めやらぬ様子でギリギリと歯ぎしりをしながら帝を見ていた。その表情を確認したあと、紫式部は帝に申し出る。

「帝……藤原亀頭様……お願いがございます。どうかその子と女同士二人だけで話をさせて頂けないでしょうか?」

「え? そ、そうじゃな。それもよかろう……」


◇◆◇◆◇◆


 若緑と紫式部は宮中内にある、石畳と小石が敷き詰められた中庭の縁側で並ぶように座っていた。そもそもの元凶であった長雨は止んでおり、陽射しも照りつけていた。しかし、その事には一切気づかない若緑であった。

「私は紫と申します」

「あ、若緑です……」

「若緑様と仰るのですね。とても麗しゅうお名前でいらっしゃいます」

「……」

(すごい上品な方ですね……母上様とは雲泥の差……)

 一通りの自己紹介を済ませた2人。

 そして紫式部は優しく問いかける。

「ところで若緑様は歌をお詠みになられますか?」

「え? あ、はい……昨日、父上様に言われて初めて詠みました」

「では、今の気持ちを詠んでみて下さいませ。口にし吐き出したもう事できっと落ち着かれますゆえ」

「え? あ、はい――えっと……宮中に、参上しするも、心通じず、おかしな風習、やめたもうなかれ」

(字余りばかりだよ……)

 あまりに興奮しきっていた若緑は、先日3分ほどかかった和歌の詠みを瞬時に対応出来ていた。

「……さようでございますか。若緑様は幼い女子が毎年毎年供物となり、身を捧げている風習に対して憤っていらっしゃるのですね」

「あ、は、はい! 紫様も風習の事はご存知だったのですか?」

「はい、もちろん。そして、先程襖の向こうから今年は若緑様が供物となる事も……」

「……」

「でも、その杞憂は無くなる事でしょう」

「え? どうしてですか?」

「若緑様は興奮しきっていらっしゃってお気づきになりませんか?」

 紫式部は胸元で上を指差す。

「あ……雨が……止んでます……」

「さようです。供物を捧げるまでもありません。海神様はおとなしくなりました」

「は、はいっ! あ……」

「若緑様、どうかされましたか?」

「……私……帝にとんでもない事を……」

 ここにきて初めて、事の重大性を認識した若緑。部屋に残された父親が処分されてしまうかもという恐怖心が襲いかかる。

「謝ってしまいましょう」

「え? 謝る? で、でも……」

「大丈夫です。帝はそんな話のわからない方ではございません。若緑様が誠心誠意謝ればきっと、お許し賜われます。だから……」

「……わかりました」

「しっかりと謝るのですよ。中途半端はいけませんこと」

「はい……徹底的に謝ります」

 若緑はスッと立ち上がり、紫式部よりも先に廊下を小走り。襖を開ける前に一旦躊躇するも、両手で頬を張り声を発すると同時に襖を開ける。礼儀もへったくれも皆無であった。

「先程は申し訳ありません! 若緑にございます」

 そして、すぐさま現代でいうところのスライディング土下座をかます。更に、床に額をつけたまま怒涛の如く謝罪する。

「帝! 先程は大変失礼致しました! 私はどうなっても構いませんので、父上様は処分しないで下さい! う、うっ……ウワ〜ッ!」

 涙し、泣きじゃくる若緑。その光景に部屋は呆気に取られた空気になる。後からやって来た紫式部は思わず裾を口に当て笑ってしまう。それに釣られて帝と従者も吹き出す。父親だけは呆れ果てた様子で見守る。

「わかった、わかった、もうよいぞ若緑とやら、面を上げい」

「え?」

「たかだか子供の戯れ。気にしておらぬ」

「……」

「それにしても、さすがは亀頭殿の娘。男勝りじゃのう。ハッハッハ!」

 その言葉を聞き、父親も素早く若緑の隣で土下座をした。こうあっさりと許しを乞えたのは、ガチムチ父親の宮中内での立場、若緑が小柄で実年齢よりも幼かった事も幸いしたといえるのであった。

「寛大なお言葉、誠に感謝致します。2度とこのような事がないように、我が厳しく諭しますゆえ」

「亀頭殿も大変であろうな」

 その言葉通り、当然今回の話は宮中から、またたく間に各家に広まった。その反応は失笑に近いもので、ある意味要注意人物として若緑は認識される事となる。ただ救いと言えば、毎年行われていた供物の風習は、帝のお達しにより、村々で廃止された事であった。結果的に若緑の暴走は志を果たしたと言える。

 だが――


◇◆◇◆◇◆


 住居に戻った若緑と父親。

 牛車の籠の中では無言を貫いていた父親であったが、降りた途端若緑の襟を掴み、持ち上げる。

「苦しい! 苦しいです父上様!」

「このジャジャ馬娘が! 寝殿へ行くぞ」

 そのまま、引きづられるように寝殿まで連れていかれる若緑。

 すぐさま駆けつけた母親も事情を聞くと一度その場を立ち去り、数分後改めて登場した姿は墨染めと呼ばれる喪服の黒装束に身を包んでいた。

(……)

 そして先日同様仁王立ちする父親、喪服で正座する母親の前に意気消沈の若緑が対峙する――という異様な図式になる。

 当然父親は閻魔の表情、母親は呆れ果て蔑んだ視線を若緑に突き刺していた。


「若緑。今日の醜態はなんなのじゃ」

「父上様……申し訳ありません……」

「君……普段から兜合わせに興じてばかりいる若緑が、宮中に参上すると決まった時点でこのような事になると思うべきでございました」

「まったく……その通りじゃ」

「……」

「若緑。あなたはわが藤原亀頭家の恥を晒したのです。欲望にまみれた嵐山の猿並みの頭しかないあなたには理解し難いかも知れませんが」

「……」

(お母様……そんな酷い物言いしなくてもよくない?)

「この噂はすぐさま広まる事でしょう。そして、それは若緑……あなたの貰い手が無くなるという事を意味するのです。子も作れず、心身共に枯れ果てるのです。そういう意味では嵐山の猿の方がまだマシです」

「……」

(……)

 母親はその後も二の矢、三の矢を放つが如く若緑への罵倒を続けていた。父親はその間も若緑を睨みつけ、反抗出来ないよう間接的に圧をかけていた。

 

「さて、若緑」

「は、はいお父様……」

「今後、お主には決まりごとを設ける」

「え? あ、はい……」

「一つ、学問の場を毎日に増やす」

「……」

「返事は!」

「あ、はい……」

「一つ、毎日歌を50首詠め!」

「ご、ごじゅ……あ、なんでもございません……そのように致します」

「一つ、薙刀の修練も毎日行う」

「薙刀?」

「もはやお主は婚姻する事は叶わぬからな。我は男子として育てる事とする」

「……はい。父上様のお好きにして頂き構いません……」

(酷いよ……)

 若緑の遊び時間を粉砕する厳しい決まりごとを申し付ける父親はどこか嬉しそうな表情にも見えた。


「若緑、私からは禁則事項を3つ申し付けます」

「はい……」

「兜合わせ及び貝合わせ、1人せせり等のいかがわしい行為、ひいな遊び、蹴玉――ではなく蹴鞠、そして双六」

「……はい」

(全然3つではありませんね……それに、私はいかがわしい事は何一つしてないのですが?)

 その後も約1時間に渡り、若緑は両親から厳しい叱責、母親からは嵐山の猿と比較する比喩表現を用いられディスられまくった。


◇◆◇◆◇◆

 

 数日後――

 

 若緑は365日耐久の和歌詠みを誰もいない一室で、和紙にしたためていた。ちょうど10首詠み終えたあたりで、母親が呼んでいると侍女から聞かされ、しずしずと寝殿へ続く廊下を歩いていた。

(なんですの? 今日は和歌の詠み進めが順調でしたのに……この後、薙刀の修練もあるのに食事が遅くなりますわ……)

 一切合切の遊び権利を剥奪された若緑にとって、あの日から楽しみといえば決まった時間に与えられる食事だけであった。


「若緑、和歌詠みには慣れましたか?」

「はい」

「薙刀もかなり上達したと君より聞いております。もし、戦があればすぐにでも参上出来る腕前とか」

「……」

(はい? 戦? ふざけないでください)

「今日あなたを呼んだのは他でもありません。嵐山の猿でさえも驚愕する文が3通も参っているのです」

「……文? ですか?」

「恋文です。つまり求婚です」

「……」

「帝の前で暴れ猿にも匹敵する無礼をはたらき、普段から欲望にまみれた卑しいあなたに恋文とは、心惑いて本当に理解に苦しみますが」

「……」

「その為、間もなく君も参上致します」

「え?」

(また?)


 若緑の平穏な日常はまだまだ先の事である。


《完》

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平安時代の若緑ちゃんは今日も和歌を詠む @pusuga

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