蒼の死神 林檎組編
南雲ひざし
プロローグ
冬の横浜は、骨まで凍る。
中華街の極彩色から切り離された裏路地には、残飯と汚水の臭いだけが澱んでいた。
男は、湿った煉瓦に背を預け、うずくまっていた。
空腹はとうに通り越し、内臓が鉛に変わったように重い。視界の端を、祝祭に浮かれた観光客の影が通り過ぎる。足音も、笑い声も、男のいる場所だけを避けるように遠ざかっていった。
「気の毒やこと」
ふと、甘い煙草の香りが鼻をくすぐった。
顔を上げる気力もない男の視界に、仕立ての良い革靴が止まる。
「こんな寒いのに。誰も君のこと、よう見てくれはらへんのやね」
男が見上げると、そこには場違いなほど美しい青年が立っていた。
細身で、色素の薄い肌。金縁眼鏡の奥で、糸のように細められた瞳が笑っている。
「……誰、だ」
「僕? ただの通りすがりの慈善家」
青年は屈み込み、男の汚れた掌に『それ』を握らせた。
硬貨の冷たさではない。何かは分からない。だが、確かに温かかった。
「使うたらええわ。返さんのは、いつでもええから」
そう言いながらも、青年の口調には押しつけがましさが一切なかった。
どこの訛りともつかない、妙に上品な関西訛り。親切を装いながら、拒否という選択肢だけを静かに消していくような声音だった。
「あ……あんた、俺は」
「ええ、お構いなく。困っとる人を見捨てるんは、僕の趣味やないねん」
男が震える指でそれを握りしめると、青年は満足そうに頷いた。
その笑顔は、聖母のように優しく、そしてどこか、出来の良い果実を検分する農夫のようでもあった。
「君、名前は?」
「……
「そか。ほな、李――お大事にな」
青年は緑色の紫煙を残し、闇へと溶けていった。
それから数日後。あるいは数週間後。何日経ったのかを思い出せない。
李は、また同じ場所に立っていた。
身体は羽毛のように軽い。
内臓の重みも、凍える寒さも、将来への不安も、すべてが消え失せている。
ただ、奇妙なことがあった。
自分のことが分からなくなった。今はあれから何日後なのか、今自分は笑っているのか、泣いているのか。何も分からない。
胸の奥にあったはずの熱源が消え、代わりに冷たくて甘い空洞だけが広がっている。
満たされているのに、空っぽだ。
「……あれ?」
自分の足元を見る。
影がない。
いや、影が自分から離れ、勝手に動き出しているような錯覚。
背後に、気配が立った。
「うん。ええ感じになったな」
あの時の、甘い煙草の香り。
耳元で囁かれた声は、恋人のように柔らかく、死刑宣告のように冷徹だった。
「ようこそ、林檎組へ」
李は振り返ろうとした。
だが、首から下が石になったように動かない。
背中に、冷たい手が添えられる。
痛みはなかった。ただ、熟しきった果実をもぐような、軽やかな感触だけがした。
視界が暗転する。
最後に脳裏に焼き付いたのは、青年の赤く艶やかな唇だけ。
ああ、と李は思う。
どうして気づかなかったのだろう。
あんなにも、美味しそうだったのに。
次の更新予定
2026年1月21日 21:00 隔日 21:00
蒼の死神 林檎組編 南雲ひざし @Mackey008
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