不可侵職の手

ラズベリーパイ大好きおじさん

不可視境界線

朝の通学路は、いつもと同じ光景が広がっていた。桜並木の下を、紺色の制服を着た生徒たちがぽつぽつと歩いている。四月の空気はまだ冷たく、吐く息が白くぼやける。ミヨは鞄の肩紐をきつく握りしめ、俯き加減に歩いていた。


右手の手袋が、いつもより重く感じられた。


「おはよ、ミヨ!」


背後から声がかかった。振り向くと、同じクラスのカナがにこにこしながら近づいてくる。


「あ、おはよう」


ミヨはできるだけ自然な笑顔を作ろうとした。手袋をはめた右手を、わざとらしくないように鞄の陰に隠した。


「また手袋してるんだ。もう春だよ?」


カナが軽い調子で言った。


「うん…まだ寒いから」


「そうかな? 私、今日は薄手のジャケットでも暑いくらいだよ」


カナはミヨの手袋を一瞥し、少し怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに別の話題に移った。


「ねえ、昨日のニュース見た? またあの手の事件があったんだって」


ミヨの背筋が凍った。


「…あの手?」


「ヤガミだよ、ヤガミ。触れたもの全部燃やしちゃうか凍らせちゃうあの変異体」


カナの声はどこか興奮が混じっていた。最近の女子中学生の間では、ヤガミに関する噂が一種の都市伝説のように語られていた。


「怖いよね。でもどこか…カッコいいって言うか」


「カッコよくないよ」


ミヨの声は思った以上に鋭く響いた。カナが驚いた顔をして見つめてくる。


「だってさ、突然変異して超能力みたいなの手に入れるなんて、漫画みたいじゃん」


「現実は漫画じゃないの」


ミヨはそう言うと、歩調を速めた。カナは「ごめんごめん、怒らないでよ」と慌てて追いかけてきた。


校門が見えてきた。いつもなら安堵する瞬間なのに、今日はむしろ胸が苦しくなった。校門の脇に立つ警備員が、生徒一人一人の手をじっと見つめている。二年ほど前から、すべての学校に導入された「手の検査」だった。


警備員の前を通る時、ミヨは息を殺した。左手のバーコードをスキャナーにかざすと、小さな機械が「ピッ」と音を立てた。


「手袋を外してください」


警備員の声は事務的だった。


ミヨはゆっくりと右手の手袋を外した。素手が冷たい空気に触れた。警備員が持つスキャナーが、右手の甲にかざされた。


無音の数秒が過ぎる。


「通過」


その言葉で、ミヨはようやく呼吸を再開した。手袋を急いではめ直し、校舎へと駆け込んだ。


教室は相変わらずの騒がしさだった。しかしミヨには、その騒がしさの下に潜む緊張が聞こえるようだった。誰もが他人の手を気にしている。友達同士で手をつなぐことも、物を貸し借りすることも、以前ほど気軽にできなくなっていた。


「ミヨ、大丈夫? 顔色悪いよ」


隣の席のサチコが心配そうに声をかけてきた。


「うん、ただちょっと寝不足で」


「またあの夢?」


サチコの声が低くなった。ミヨだけが打ち明けている、繰り返し見る悪夢のことを彼女は知っていた。


「うん…でも大丈夫」


授業が始まり、ミヨはノートを取ろうとした。ペンを握る右手が、微かに震えているのに気づいた。最近、この震えが頻繁になった。手袋をしていても、中で手が小刻みに震える感覚が、一日中つきまとう。


昼休み、ミヨは屋上へ逃げた。ここなら誰にも邪魔されずにいられる。柵にもたれかかり、遠くの街並みを見下ろした。


三年前、最初のヤガミが確認された。最初は都市伝説だと思われていた。触れたものを瞬時に燃やす少年、握手をした相手の手を凍結させた少女──そんな信じがたい事件が散発的に報告され始めた。


政府は当初、デマとして処理しようとした。しかし事例が増え、動画証拠まで出回るようになると、もはや無視できなくなった。そして一年前、公式声明が出された。


「ヤガミ」と呼ばれる突然変異体の存在が認められたのだ。


彼らの特徴は二つに大別された。触れた有機物を摂氏千度以上で燃やす「焔手」と、触れたものの分子運動を停止させ凍結させる「凍手」。どちらの能力も、本人の意思とは無関係に発動し、理性では制御できないとされた。


パニックが起こった。ヤガミは人間社会にとって危険極まりない存在だと宣言され、すべての市民に遺伝子検査が義務付けられた。検査で陽性と判定された者は「保護施設」へ収容されることになった。


ミヨはその検査を受けた。結果は「陰性」。家族も友人も、安堵のため息をついた。


だがミヨだけが知っていた。あの検査の日、機械が右手をスキャンした時、一瞬だけ警告灯が点滅したことを。技師が首をかしげ、「ちょっと接触が悪かったみたいですな」と言いながら、再スキャンした結果が陰性だったことを。


それ以来、ミヨは右手を隠し続けていた。


「何か熱いものに触れたい」


ふと、そんな衝動に駆られることがあった。冬の寒い日、ストーブの前で手をかざしている時、掌がむずむずとする。火の温もりが、手の内側から涌き上がってくるような錯覚に襲われる。


「何か冷たいものに触れたい」


真夏の暑い日、冷蔵庫の前に立つと、指先が氷のように冷たくなる感覚が走る。ガラスのコップに触れれば、たちまち霜が浮くような気がする。


どちらも幻想だと自分に言い聞かせた。ヤガミではない。陰性なんだ。でも、なぜ手袋を外せないのか? なぜ人と触れ合うのが怖いのか?


「ミヨー! いたんだ、ここに!」


屋上の扉が開き、サチコが走り寄ってきた。


「大変! 職員室で騒ぎになってる!」


「何が?」


「教頭先生が…教頭先生がヤガミだったみたいなの」


ミヨの血液が逆流する思いだった。二人で階段を駆け下り、二階の職員室前まで来ると、すでに人だかりができていた。教頭先生の怒鳴り声が聞こえる。


「私は何も悪くない! ただの検査ミスだ!」


ドアが開き、白い制服を着た男たちが現れた。ヤガミ対策局の職員たちだ。彼らに挟まれて、小柄な教頭先生が引きずられるように連行されていた。


「先生!」


思わず叫んだ。教頭先生はミヨの方を見た。その目には、恐怖と絶望、そしてどこか諦めのような色が浮かんでいた。


「生徒たちよ…気をつけるんだよ…誰がヤガミかなんて…見た目じゃわからないからな…」


その言葉が、ミヨの心に鋭く突き刺さった。


職員たちが教頭先生を連れ去ると、廊下は重い沈黙に包まれた。やがて誰かが呟いた。


「あの先生がヤガミだなんて…信じられない」


「でもさ、思い出してみて。あの先生、絶対に誰とも握手しなかったよね」


「そういえば、いつも手袋してた?」


「冬はしてたけど、夏はしてなかったよ」


「でも触れないようにしてた。物を渡す時も、絶対に手が触れないようにしてた」


囁き声が波のように広がっていく。ミヨは自分の右手を見つめた。黒い革の手袋が、それを覆い隠していた。


「ミヨ、どうしたの? すごく震えてるよ」


サチコが心配そうに腕を抱いた。その温もりが、ミヨの皮膚を伝わってくる。ふと、もし今この手袋を外してサチコに触れたら、どうなるだろうか? 燃えるのか? 凍るのか? それとも…何も起こらないのか?


「大丈夫…ただ、ちょっと気分が悪くて」


ミヨはサチコの腕をそっと外し、トイレへと向かった。鏡の前で、ゆっくりと手袋を外した。普段日光に当たらない手の肌は不健康なほど白かった。掌の線は、深く刻まれている。


そっと水道の蛇口をひねった。水が流れ出る。右手をその下に差し出そうとしたが、躊躇した。


(もし…もしこの水が沸騰したら?)


(もし凍りついたら?)


深呼吸を一つ、また一つ。そして覚悟を決めて手を差し出した。


冷たい水が手の平を伝った。普通の水だった。沸騰もせず、凍りもしていない。ただの水道水だ。


安堵のため息が漏れた。しかし同時に、どこかで期待していた自分にも気づいた。もし能力があったなら…もし特別な存在だったなら…


「違う、私は普通の人間だ」


鏡の中の自分に言い聞かせた。手袋をはめ直し、教室へ戻った。


放課後、ミヨはいつもより遠回りして帰路についた。人通りの少ない路地を選び、ゆっくりと歩いた。今日の教頭先生の事件が頭から離れない。


「見た目じゃわからない」


あの言葉が、耳朶にこびりついていた。


突然、路地の奥から悲鳴が聞こえた。ミヨの足が止まった。もう一度聞こえた。女性の悲鳴だ。


迷わずその方向へ走り出した。路地を曲がり、小さな空地に出た。そこでは、若い女性が地面に倒れていた。その傍らに、十代くらいの少年が立ち尽くしていた。


少年は女性を見下ろし、自分の右手を見つめていた。その手は、普通の手だった。しかし少年の表情は、恐怖に歪んでいた。


「触れちゃった…また触れちゃった…」


少年が呟く。


ミヨが一歩近づくと、少年は飛び跳ねるように振り向いた。


「近づくな! 触るな!」


「あの…大丈夫ですか? 救急車を…」


「呼ぶな! 誰も呼ぶな!」


少年の目は狂気じみていた。彼は倒れている女性を一瞥し、また自分の手を見た。


「僕は制御できるって言ったのに…誰も信じてくれなかった…ほら、できるんだ、見て!」


少年は空き缶に触れた。何も起こらない。


「見ろ! 普通だろ? 僕は普通なんだ!」


しかし彼の声は明らかに普通ではなかった。高ぶり、震えていた。


「あんた…ヤガミなの?」


ミヨの問いに、少年はぎくりと反応した。


「違う! 違うんだ! ただ…たまに、熱くなることがあるだけなんだ…」


その時、倒れていた女性の体が動いた。ゆっくりと起き上がり、首をかしげた。彼女の顔の半分が、ひどい火傷を負っていた。皮膚は爛れ、目玉の一つが溶けかけている。


しかし彼女は痛がっていなかった。むしろ、無表情だった。


「お前…お前は…」


少年が後ずさりした。


女性は立ち上がると、少年に手を差し出した。その手の指先から、白い冷気が立ち上っている。


「こっち来るな!」


少年が叫んだ。しかし女性は無言で近づく。


ミヨはその場に釘付けになっていた。目の前で、二人のヤガミが対峙している。一方の手は炎を宿し、もう一方の手は凍気をまとっている。


「止めて! お願い、止めて!」


ミヨが叫んだ。しかし声は出なかった。


少年が女性に触れた。その瞬間、炎が噴き上がった。女性の体全体が、青白い炎に包まれた。しかし彼女は燃えていなかった。むしろ、炎が彼女の体を覆い、鎧のようになっている。


女性が少年に触れた。少年の右腕が、一瞬で真っ白に凍った。霜が肘から肩へと這い上がっていく。


二人は離れた。少年は凍った腕を見つめ、女性は炎の鎧をまとったまま立ち尽くした。


そして、突然、二人とも動きを止めた。まるで何かの合図を受けたかのように、同じ方向を見た。路地の出口の方だ。


ミヨもその方を見た。誰もいなかった。だが二人のヤガミは、何かを見ているようだった。


少年が呟いた。


「手が…呼んでる…」


女性も頷いた。


「みんなの手が…一つになろうと言ってる…」


彼らはミヨを完全に無視し、路地の奥へ歩き出した。あのひどい傷を負いながらも、女性は整然とした足取りで歩いていく。少年も、凍った腕をぶら下げたまま、彼女の後を追った。


ミヨはその後ろ姿を見送りながら、あることに気づいた。二人とも、手袋をしていなかった。手を隠そうともしていなかった。


家に帰り着いた時、ミヨはぐったりしていた。玄関のドアを開け、母親の「おかえり」の声を聞きながら、自室へ直行した。


机の前に座り、鞄を放り出す。そしてまた、右手の手袋を見つめた。


(手が呼んでいる…)


あの少年の言葉が頭の中で繰り返される。


(みんなの手が一つになろうと言っている…)


それは何を意味するのだろう? ヤガミ同士が何らかのテレパシーで繋がっているのか? それとも…


ミヨは手袋を外した。真っ白な手が現れた。そっと机の上に置く。木目が見える。


掌を机に押し当てた。何かを感じようとした。呼びかけに答えようとした。


何もなかった。ただ木の冷たさだけが、掌から伝わってくる。


「私はヤガミじゃない」


独り言のように呟いた。


「違う…違うんだ…」


その夜、ミヨはまたあの夢を見た。


夢の中では、ミヨは広大な平原に立っている。周りには無数の人々がいる。全員、手を高く掲げている。右手だ。皆の右手が、空へと伸びている。


そしてミヨも自分の右手を見上げる。その手は、透明になっていた。皮膚の下に、光の流れが見える。それは脈打ち、鼓動し、周りの人々の手の光と同調している。


遠くで、巨大な何かが動いている。それは手の形をしていた。人間の手よりもはるかに大きく、大地を這い、空を掴もうとしている。


「来い」


声が聞こえる。それは無数の声が一つになったような、不気味な合唱だった。


「我々のもとへ来い」


ミヨはその巨大な手の方へ歩き出した。周りの人々も、一斉に歩き始める。全員、無表情で、目は虚ろだった。


「お前も我々の一部だ」


ミヨの右手が輝き始めた。熱い。冷たい。両方の感覚が同時に走る。


「目覚めよ」


ミヨは目を覚ました。枕は汗で濡れていた。右手は布団の上に置かれたままだったが、手袋をはめていなかった。寝る前にはめたはずなのに。


震える手で明かりをつけ、右手をじっと見つめた。何の変化もない。普通の十五歳の女子の手だ。


しかし夢の感覚はあまりにも鮮明だった。あの呼びかけは、ただの夢ではないような気がした。


翌日、学校は異様な雰囲気に包まれていた。教頭先生の「摘発」以来、教師たちの態度が硬くなり、生徒たちも互いに疑心暗鬼になっていた。


「ミヨ、聞いた?」


サチコがこっそり近づいてきた。


「何?」


「またヤガミが見つかったんだって。今度は市内のショッピングモールで。五人も」


「五人も? 同時に?」


「うん。みんなバラバラに買い物してたんだけど、突然一か所に集まり始めたんだって。そして…」


サチコの声がひそひそとなる。


「手をつなぎ始めたんだって」


ミヨの背筋が寒くなった。


「手をつないだ?」


「うん。五人の輪になって。で、その中心で…何かが起きたみたいなの」


「何が?」


「わからない。目撃者はみんな、見てはいけないものを見たって感じで、詳細を話したがらないんだ。ただ、一人は『手が生えてきた』って言ってた」


「手が?」


「うん。地面から手が生えてきたって」


それは荒唐無稽に聞こえた。しかしミヨは、昨夜の夢を思い出さずにはいられなかった。巨大な手が大地を這う夢。


昼休み、ミヨは図書室に籠もった。ヤガミに関する資料を探そうと思ったのだ。公式の記録や報道は、すべて検閲され、同じような内容ばかりだった。危険な突然変異体、制御不能な能力、社会からの隔離の必要性。


しかし古い新聞のマイクロフィルムを漁っていると、興味深い記事を見つけた。


三年前、最初のヤガミが確認される少し前のものだ。ある研究所で事故が起き、遺伝子操作実験の被験者数名が逃亡したという記事だった。その実験の目的は「人類の進化的適応の促進」とだけ書かれていた。


逃亡した被験者たちは、全員「右手に異常な反応を示す」と記載されていた。具体的な症状は書かれていなかったが、医師のコメントとして「被験者の右手は、時に摂氏四十度以上に上昇し、時に氷点下まで冷却される。本人の意思とは無関係に」とあった。


まさにヤガミの特徴だ。


記事によると、被験者たちは全員捕まったが、その後の消息は不明だった。研究所は閉鎖され、関係者は口を封じられたようだ。


(遺伝子操作…)


ミヨは考え込んだ。ヤガミは突然変異ではなく、人為的に作り出された存在なのか?


その時、図書室のドアが開き、司書の先生が入ってきた。


「あら、まだいたの? もうすぐ授業が始まるよ」


「はい、すぐ戻ります」


ミヨは慌ててマイクロフィルムを戻し、席を立った。司書の先生が近づいてきて、ミヨの机の上を見た。そこには、偶然開いていた古い生物学の本があった。


「人間の手か…興味深いね」


先生が呟いた。


「先生?」


「手はね、人間の進化において決定的な器官なんだよ。親指が他の指と向き合うことで、道具を使えるようになった。それが知性の発達を促した」


先生は自分の右手を見つめた。


「もし手がさらに進化したら…人間はどうなると思う?」


その問いに、ミヨは答えられなかった。


「次の段階の進化…それがヤガミなのかもしれないね」


先生はそう言うと、どこか遠い目をした。


「先生…ヤガミについて何かご存知ですか?」


思わず尋ねてしまった。先生は一瞬躊躇い、周りを見回した。図書室には他に誰もいなかった。


「ここだけの話だけど…」先生の声が低くなる。「私の妹が、ヤガミなんだ」


ミヨは息を呑んだ。


「三年前、あの研究所から逃げてきた被験者の一人だ。彼女は今…『施設』にいる」


「会いに行ったことありますか?」


「一度だけ。でも彼女は…もう私の妹じゃなかった」


先生の目が潤んだ。


「彼女は言った。『手がすべてを教えてくれる』って。『手が真実を示す』って」


「真実?」


「わからない。ただ、彼女はこうも言っていた。『間もなく、すべての手が目覚める。選ばれし者たちの手が』」


ミヨは自分の右手を見た。手袋に覆われたその手が、急に重く感じられた。


放課後、ミヨは真っ直ぐ家に帰らず、街を彷徨った。人々の手が気になって仕方なかった。手袋をしている人、素手の人、物を握る手、誰かと触れ合う手。


カップルが手をつないで歩いているのを見た。普通の光景なのに、なぜか不気味に映った。


公園のベンチに座り、ぼんやりと空を見上げた。雲が流れていく。その形が、巨大な手のように見えた。


(私はおかしくなってる)


そう思った。ヤガミのことを考えすぎて、すべてがヤガミに関連して見える。


ふと、隣に誰かが座った。振り向くと、見知らぬ老人だった。老人はミヨの右手をじっと見つめていた。


「その手…見せてくれないか?」


老人の声はかすれていた。


「え?」


「手袋を外して、その手を見せてほしい」


ミヨは身を引いた。


「どうしてですか?」


「私は探しているんだ。あの印がある手を」


「印?」


老人はうなずいた。


「ヤガミの印だ。右手の甲に、三本の線が交差する印が現れる。それは目覚めの前兆だ」


ミヨは思わず右手を隠した。手袋の下に、そんな印はない。少なくとも、昨日まではなかった。


「あなたは誰ですか?」


「私はあの研究所の元研究者だ」


老人は遠い目をした。


「あの実験は失敗だったと思っていた。被験者たちは右手に異常を示したが、それ以上の変化はなかった。ところが三年後、彼らの中で目覚める者が現れ始めた」


「目覚める?」


「能力が顕在化するんだ。そして彼らは言う。『手が呼んでいる』『すべての手が一つになろうとしている』と」


それは、昨日路地で聞いた言葉と同じだった。


「なぜ手なんですか?」


老人は深く息を吐いた。


「手は神経が集中している場所だ。触覚を通じて世界を認識する。もし人類が次の段階へ進化するとしたら、その突破口は手なのかもしれない」


「でもヤガミは制御不能なんでしょ? 人を傷つけてしまう」


「最初はね。でも時間が経つと、多くのヤガミは制御を学ぶ。むしろ、彼らは新たな感覚を得ている。熱と冷たさを自在に操る感覚を」


老人はミヨの目を真っ直ぐ見た。


「君はまだ目覚めていない。でも印はある。感じているだろう? 手の中の鼓動を」


ミヨは黙っていた。確かに感じていた。手袋の下で、右手が脈打っているのを。それは心臓の鼓動とは違うリズムだった。


「目覚めが近い。すべてのヤガミが感じている。大いなる手が、我々を呼んでいる」


「大いなる手?」


老人は空を指さした。


「あそこにいる。見えないか? 雲の向こうに、巨大な手の影が」


ミヨは空を見上げた。ただの雲だった。しかしじっと見ていると、確かに何かが見えてきた。巨大な五指が、空全体を覆おうとしているように。


「来るんだ。すべての手が一つになる日が」


老人は立ち上がった。


「逃げることはできない。目覚めは避けられない。受け入れなさい。君の手の真実を」


老人は去っていった。ミヨはベンチに座ったまま、右手を見つめ続けた。そして、ゆっくりと手袋を外した。


右手の甲には、昨日までなかった印が浮かび上がっていた。三本の線が、奇妙な模様を描いている。それはまるで、手そのものが目を開いたようだった。


掌を上に向けた。何も起こらない。しかし感じることはできた。手の内側に潜む力のうねりを。それは炎のように熱く、氷のように冷たい。


立ち上がり、公園の出口へ向かった。街灯が点り始めていた。人々のシルエットが、長い影を伸ばしている。


その時、すべての街灯が一瞬で消えた。真っ暗な闇が街を覆った。悲鳴が上がる。


ミヨは立ち止まった。右手が光り始めた。オレンジ色の炎のような光と、青白い冷光が、掌の中で渦巻いている。


周りを見回す。暗闇の中、無数の光点が浮かび上がっていた。一つ一つが、人の手の形をしている。右手だ。街中の人々の右手が、様々な色に輝き始めていた。


炎の赤、氷の青、その中間の紫や緑。


人々は混乱し、叫び声が飛び交う。しかしミヨには別の声が聞こえた。無数の声が、一つの合唱となって響いてくる。


「来い」


「我々のもとへ」


「すべての手が一つになるときが来た」


ミヨは右手を高く掲げた。光がさらに強くなる。地面が震え始めた。アスファルトが割れ、その隙間から無数の手が伸びてくる。光る手だ。


空を見上げる。雲の間から、巨大な手が現れた。それは都市全体を覆うほどの大きさだった。五本の指が、ゆっくりと閉じ始める。


「受け入れよ」


「目覚めよ」


「手よ、手よ、大いなる手よ」


ミヨは叫びたいと思ったが、声が出ない。代わりに、右手から力が迸り出た。それは炎でも凍気でもなく、純粋な光だった。光が周囲を包み込み、すべての音を消し去った。


そしてミヨは理解した。これは進化でも変異でもない。回帰なのだ。人類がかつて持っていた、そして忘れてしまった何かへの回帰。


手はただの器官ではない。世界と繋がる扉なのだ。触れることで世界を認識し、変容させる力。


光が収まった時、街灯は再び点り、人々は何事もなかったように歩き続けていた。しかしミヨの目には、すべてが違って見えた。


人々の右手が、微かに光っているのが見える。誰もが気づいていないが、確かに光っている。


老人の言葉を思い出す。


「すべての手が一つになるときが来た」


ミヨは自分の右手を見つめた。印は消えていた。代わりに、掌の中心に小さな光点が浮かんでいた。それはゆっくりと脈打ち、周りの人々の手の光と同調している。


家路につく。歩くたびに、右手が温かくなる。それは恐怖ではない。安心感に近いものだった。


玄関のドアを開け、母親が迎えてくれる。


「遅かったね、心配したよ」


「ごめん、ちょっと寄り道して」


ミヨは手袋を外し、靴を脱ごうとした。母親がその手を見て、目を大きく見開いた。


「ミヨ…その手…」


「うん」


ミヨは右手を差し出した。何も変わっていないように見える。しかし母親にはわかる。娘の手が、かすかに光っているのが。


「もしかして…」


「うん。でも大丈夫だよ、ママ。怖くないから」


母親は涙を浮かべた。恐怖の涙ではない。何か別の感情の涙だ。


「ママにも、いつかわかる日が来るよ」


そう言ってミヨは自室へ上がった。机の前に座り、ノートを開く。ペンを握る。右手は震えていなかった。


窓の外を見る。街の灯りが、無数の星のように輝いている。その一つ一つが、右手の光と繋がっているように感じる。


ミヨはノートに書き始めた。


「手は真実を示す。目覚めの時が来た。すべての手が一つになる日まで──」


書き終えると、ミヨは右手を窓にかざした。街の光と、手の光が、一つに溶け合っていく。


遠くで、大いなる手がそっと握りしめる。すべてを包み込む、温かく冷たい抱擁の中で。


目覚めは始まった。

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