第8話 襲来
今日も今日とて、やることは実験である。
瑞白町の中でも比較的汚染が少ないところの土を用意して、濃度の違う溶液と混ぜ合わせる。そして機械に試料を入れて、汚染物質の濃度をひとつずつ測定し、ひたすらデータ化していく。
1回の実験に30分はかかる。本来は最低2時間は置かなければいけない実験が、ナグモ女史の技術によって30分に短縮されたという。物理現象を無視しているかのような短縮だが、それと引き換えに、データの演算や書き出しはすべて自分で行わなければいけない。
天才・ナグモ女史が、自分が使うためだけに開発したピーキーすぎるマシンだ。「コンピューターにダラダラ書き出させるより、自分でグラフ化した方が早い」と、計算速度がコンピューターを上回っている特殊な生き物しか言えないセリフを言っていた。コンピューターの速度を「ダラダラ」なんて表現する人間が居ていいのか。
そんなナグモ女史と、過集中しているときの俺しか使えない機器。通称「ナグモ専用脳焼き器」。卒業生が名付けた俗称らしいが、確かにアレを使っているときの脳が焼き切れる感覚には覚えがある。
ぶっ通しで、かなりの時間、実験をしていた気がする。ふと気になって時計を見ると、時刻は深夜1時を指していた。
「…うわ、」
またやってしまった。実験を始めたのが朝の10時だから、かれこれ15時間はここにいることになる。それに気づくと急に、喉がカラカラに乾いているのがつらくなってきた。また、ずしりと全身にかかる脳疲労。かつてナグモ女史専用だった「脳焼き器」の名に恥じない、脳への負荷。体中の糖分を使い切って、めまいすら覚える。ちょうど目の前にあったエナドリに手を伸ばし、プルタブを開けた。命の水だ。
以前も同じように、気づかずに深夜まで実験機器に向かっていたことがある。翌日サカイやキシに「帰るときに声をかけてくれ」と頼んだが、二人はばっさりと「かけたよ。聞こえてないっぽかったけど」と言われた。集中しすぎて、声をかけられたくらいでは反応できない。それには幼いころからの心当たりがある。
「はぁ…」
一気に飲み干して、喉が焼ける感覚。5分もすれば最低限動けるようになるだろう。昔キシに言われた「うわあ、命の前借りだぁ…」という言葉がよみがえってくる。俺も早死にはしたくないが、こんな、体内の糖分を奪いつくすようなピーキーな機械があるのが悪い。
脳焼き器に新しい試料を入れて、実験の準備をする。一応、今日用意した試料はこれで最後だ。キリのいいところまで実験を終わらせて、今日も寝袋で寝よう。もうこんな時間だから寮に帰るのは面倒だ。
「…あ、戻ってきたな」
霧が晴れるように、視界が開けてくる。いまが好機と、実験開始のボタンを押した。機械に表示される波形、一定のリズムを刻むランプの点滅、試料のわずかな状態変化。すべてが脳にダイレクトに届けられる。
一瞬たりとも見逃さず、すべての状態を記憶する。変化量の計算をしながら、視線は試料と波形から離さない。手元にメモを作成することを試みたこともあるが、意識がそちらに向いてしまい、変化を見逃すことがある。だから、すべて覚える。記憶と計算を同時に行う。これこそが俺なりの最速であり、最高効率だ。
そして、その集中は突如途切れることになる。
バツン!けたたましい音を立てて、部屋の電気が落ちた。俺は思わず顔を上げる。照明、空調、そして実験器具。すべての電力が遮断され、たちまち暗闇に包まれた。
窓の外からはわずかな光が見える。手探りで窓際まで歩き、カーテンを開ける。遠くに見える医学部棟、大学病院、学生寮、そして駐屯地のほうは明るく、電気が通っているようだ。しかし今いる工学部棟と食堂のあたり、そして狩場付近は完全に停電している。
「…最悪だ、」
今機械に入っているサンプルは駄目になってしまうだろう。もう一度やり直さなければいけなくなる。大きくため息をついて、荷物を手に持った。今日は諦めて帰ろう。本当は今日も研究室に泊まろうと思ったが、電気の復旧が何時になるかわからないし、スマホの充電ができないのも困る。スマホのライトで足元を照らしながら、仕方なく歩いた。
階段を降りて、1階の廊下を歩く。研究室から見えた遠くの光は建物に遮られて、完全な暗闇となっている。
自分の足音と呼吸音だけが、長い廊下に響いていた。時折他科の学生も泊まり込んでいることもあるのだが、現在この棟には、たまたま自分しかいないようだった。
そんな静寂の中——突然、けたたましい咆哮が響いた。
「えっ」
獣の遠吠えのような音に、足が止まる。
ガシャン!と、背後から何かが割れる音がする。振り返ると床にガラスが飛び散っていて、割れた窓の隙間から、次々に獣のような影が飛び込んできた。スマホのライトでそちらを照らすと、光を反射した無数の目と、目が、合う。
一つの顔に3つの目があるもの、5本の肢をもつもの、体長に対して大きすぎる角をもつもの。それぞれ熊や象くらいの大きさだろうか。それでも、世界中のどの生態系にも存在しない、異形の獣。
——モンスターだ。
理解した瞬間、脚ががくん、と折れ曲がった。床に勢いよく両膝をつく。
どうしてこんなところにモンスターがいるのだろう。考えても分からない。狩場の周囲と大学の外周には、モンスターの侵入を防止するゲートがあるはずだ。常に150人規模で警戒をしているはずで、こんなところまでモンスターが入ってくることは、ありえない。
逃げなければ。そう思うのに、幼少期のあの思い出がフラッシュバックして、爪の先まで体が冷えていく。
えぐり取られた山肌。燃え盛る街並み。炎をまとった超大型モンスター。瓦礫の下の無数の死体。人間が焼け焦げた匂い。喉を突く痛み。呼吸ができない。
(…動け)
モンスターがじりじりと、こちらに向かってくる。3つの目の下にある裂け目から大きな牙がのぞいて、涎を床にぼたぼたと垂らしながら、俺のほうに歩いてくる。
(…動け、)
立ち上がって、走らなければ。そう思うのに、神経が遮断されたように、体が言うことを聞かない。
(…動け!)
モンスターの肢が俺の頭めがけて振り下ろされて、上顎ががくん、と開かれる。びっちり生えそろった無数の牙。飛び散った涎が、俺の手足に付着する。生暖かく、どろどろしている。
死ぬんだな。そう思った。
しかし覚悟した痛みは、いつまでも訪れなかった。
「…?」
強く閉じた目を、恐る恐る開ける。今まさに俺を飲み込もうとしていたモンスターは後方に頽れて、床に倒れている。視線を上に向けると、深くフードを被った小柄な男が、モンスターと俺の間に立ちはだかっていた。
屈強な男というより、少年といった印象の、小柄な人間。一本だけ携えたナイフの切っ先に、スマホのライトが鈍く反射していた。
彼は床を勢いよく蹴りだすと、前方にいるもう2体のモンスターの首元に飛び込んで、次々と切りつけた。切り口から鈍色の液体が噴き出して、2体の獣が叫び声をあげる。バタバタと5本ある肢で暴れるものの、すぐに動かなくなった。
呼吸一つ乱さない彼が、ゆっくりこちらを振り返った。深く被ったフードに遮られて、顔はよく見えない。
助けてくれたのか。間一髪、彼のおかげで助かったのだ。安心して、四肢に血が巡る感覚がする。
いまだに地面に這いつくばっている俺に、彼は手を差し伸べた。しろくて小さい手だ。自力では起き上がれそうもなかったので、ありがたくその手を握らせてもらう。血が通っていないみたいに冷たいその感触。強く引っ張り上げられて、ようやく俺は立ち上がる。
「あ、ありが…」
その言葉を遮るように、彼は再び俺の手を強く引いて、そして走り出した。俺はされるがまま、一緒に走ることしかできない。途中、窓やドアを今にも破ろうとする無数のモンスターの姿が見えて、心臓が止まりそうになった。ざっと見ただけでも数十体、下手したら百体以上いそうな、異形の獣。それらが脆いガラス窓に大量に押しかけて、校舎へ侵入しようとしている。
窓の外からは銃声と、爆発音が聞こえる。大人数の男たちの鬼気迫る声と、時折闇をはらうような閃光。軍がモンスターの討伐に来たのだ。彼の持ち物であろう、無線機からは伝令の怒鳴り声が聞こえる。停電でゲート停止、モンスターが次々に大学構内に侵入。現在も継続して湧き続けている!ゲートの前で止めろ、もう一体も入れるな!
廊下の突き当たり、一番奥の講義室に、少年は俺を投げ飛ばすみたいに放り込んだ。机に背中が当たり、大きな音を立てる。彼は入り口のドアを外から閉めると、俺を置いてまた駆け出して行った。
講義室のドアの小窓から、廊下の様子をうかがう。彼が向かう先には、数え切れないほどのモンスターがいた。すでに玄関扉は突破されている。そこから大量のモンスターがなだれ込んで、一直線に彼に向かっていった。
彼はナイフ一本で次々に小型モンスターを切りつけて、前進していく。彼が通ったところは異形の獣の死骸の山になっていた。窓の外の砲撃音は激しさを増し、ガラス越しに見えるモンスターの身体が次々に弾け飛んでいく。
軍に子供がいるのか。少年を戦わせているのか。そんな拒否感は、脳から抜け落ちていた。彼が戦う姿は、ただ、きれいだった。
「!」
刹那、彼の後方から、中型モンスターが彼に飛びつく。体格に対して大きすぎる牙が、彼の左腕に嚙みついた。俺は思わず息をのむ。しかし彼はそれを振り払うことはせず、腕を噛ませたまま、右手でナイフを獣の頭部に突き刺した。
ナイフを抜き去ると同時に、鈍色の飛沫が噴きあがる。中型モンスターはその場に崩れ落ち、下顎をだらりと下げて、力尽きた。
息絶えた中型モンスターの口内から、ごとり、鈍い音を立てて、人間の腕が落ちる。あまりにも非日常の光景に、彼の腕だと理解するのに時間がかかった。彼は左肘から先を失ってもなお、そこに立っていた。
いてもたってもいられなくて、俺は講義室の扉を開けた。彼は強い、それは見ていればわかる。それでも、こんな大けがを負ってしまったら、戦い続けるのは無理だ。彼を、逃がさなければ。
転びそうになりながら講義室を飛び出す。そこで初めて、扉のガラス越しではなく、直接見た彼に、出血がないことに気が付いた。
床に転がっている前腕からも、彼の肘の断面からも、出血がない。かわりに、本物と見まがうほどに滑らかな人工皮膚が千切れ、金属のパーツと銅の配線が露出していた。
その光景に、息を呑む——彼は、機械化人間だ。
「…あはは、」
彼は、床に転がった自分の前腕のパーツを見ながら、高く笑った。
「あははははは!」
心底楽しくてたまらない、そんな笑い声。彼は再び走り出すと、片手で次々とモンスターを切り裂いていった。
その声を聞いて、まさか、と思う。「それ」を知っている気がした。いや、でも、まさか。そんな、ありえない。
無数のモンスターが彼に向かっていくけれど、彼はそれを避けることさえしない。脚を噛まれようが、頭を殴られようが、お構いなしに切り続ける。
モンスターがどんどん減っていく。それに合わせて、彼の身体はどんどんボロボロになっていった。噛まれた皮膚はめくれ上がり、金属の冷たい質感がのぞいていた。それでも、彼は止まらない。
子供のような笑い声を上げて、自分の身体よりも大きなモンスターも、足元めがけて視覚から飛び込んでくる小型モンスターも、鮮やかに処理していく。まるで踊っているようだと思った。その度に噴きあがる液体を拭うこともせず、彼は踊り続ける。
そうして視界を埋め尽くすほど大量にいたモンスターは、残すところ、大型1体となっていた。校舎内に侵入した中でひときわ大きなそれは、姿は熊に似ているものの、現実ではありえない大きさと、それを覆う緑色の体毛をしている。窓や教室の扉を次々破壊するパワーを持ちながら、動きが遅いように見えた。
少年は地面を蹴りこんで、大型の首元に飛び込んでいく。そしてナイフを突き立てるが——
摩耗したナイフは、モンスターの皮膚を裂くことはなく、継ぎ目のところから二つに折れた。
モンスターが頭を振りかぶって、少年の右脚に噛みつく。そのまま彼の大腿を引きちぎって、床に放り投げた。がちゃん!音を立ててパーツが散る。彼の小さな体は吹き飛ばされ、その拍子に、少年の顔を覆っていたフードが脱げた。
ああ、と思った。その顔を、俺は知っている。暗くて顔ははっきり見えなくても、それでも、わかる。笑い声を聞いて、もしかして、いやあり得ないと、一度は否定した可能性。
彼——いや、「彼女」は地面に倒れたまま、片方の手足を失ってもなお、それでも壊れたおもちゃのように笑い続けている。
「…スイ!」
気づけば俺は彼女と大型の間に飛び込んで、彼女の身体を覆っていた。機械化人間といえど、心臓部、基幹部が破壊されたら終わりだ。彼女の機械の心臓を守りたかった。彼女がこれ以上傷つくのを見たくなかった。
どうかしていた。俺は激しく後悔した。戦い方が美しいから、なんだっていうんだ。強いからなんだ。機械化人間だからなんだ。こんな子供に、戦わせてしまった。
驚いたように開いた彼女の目が、まっすぐ俺を見た。宝石のような輝き。うつくしい濃緑。
翡翠の瞳がこぼれそうなほど見開いて、小さく揺れた。
ゼン。彼女は小さく、俺の名前を呼んだ。
「…ごめん、スイ」
絞りだした声は、情けなく震えていた。——瞬間、灼けるような痛みが、背中を襲った。
文字がわからない少女。自分の名前さえ書けずに、それでも学ぶことが楽しくて仕方がないと、むさぼるように講義を聞いていた。彼女がはじめて書いた文字。少女と、俺の名前。少女は、チョコレートを食べなかった。食べられなかった。機械化人間だから。
事情は分からない。どうして、こんなところにいるのか。どうして、戦っているのか。どうして、自分を傷つけるような戦い方をするのか。
分からない。なにもかも、分からないことだらけだ。
ブラックアウトする意識の中、一発の発砲音だけが、遠く聞こえた。
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