心休まる喫茶店を
名月 楓
心休まる喫茶店を
『命令、この通りを利用する人数を推定せよ。地図データは添付するファイルを参照すること』
『命令、人々に注目されるキャッチフレーズを考えること。なお下記の店舗のチラシに用いるものとする』
『命令、なぜうまくいかなかったのか、教えなさい』
暗い部屋でパソコンに向かう彼女は、社会から分断されていた。古びているが、なお活気を保っている商店街の空きテナントを借りることができたのは、彼女にとっての数少ない幸福であった。
22になる頃に社会に出た彼女がまず始めに思ったことは、企業勤めは続かないだろうな、ということだった。様々なルールと規範の下、無駄な業務はやらされる癖に改善策を提案しても却下される。裁量権がない、というのは、大学時代に不真面目なサークル長に代わって、副サークル長という立場でボランティアサークルを立て直した彼女からしたら耐えられぬものであった。そこに約1年に渡る鬱屈とした日々を過ごす中に親戚がカフェを引き継ぐ人を探しているという話が飛び込んできたものだから、彼女は真っ先に話を聞きに行って、1ヶ月もしないうちに職場を退職してしまった。
駅から徒歩5分、徒歩10分圏内には病院や学校、役場まで揃っている好立地。開店から1年になろうとする彼女の喫茶店は、条件だけで見たら悪くない、むしろこれ以上ないほどであった。しかし、昼時にも関わらず店内には誰もいない。それはこの日だけではなく、決して珍しくもない。大学や元勤め先の周りにあったお洒落なカフェを参考にして考案したランチメニューは、友人たちからは好評であったはずだ。ならば、何故、なぜ。
プライドが高い。それは彼女を表すのに適切ではない。もちろん他者から見た一面はそうかもしれないが、実のところ彼女は臆病なだけである。皆の期待に応えなければ居場所がないという恐怖でサークルを立て直し、うまく行っていないならば人は離れてしまうという不安で友人に相談できずにいた。だから今や彼女の相談相手はパソコンの中の人工知能しかいなかった。
初めこそ人工知能はただの調査ツールやアドバイス役であった。時間が経ち、焦燥感が彼女の思考を覆い尽くした時には、彼女は自身の決断すら信じられなくなっていた。必然的に、彼女の決断は人工知能が代替することになった。人気になるメニュー、人が来やすい時間帯、チラシのキャッチフレーズ、のぼりのデザイン。今や彼女自身で考えたものは少なくなってしまった。
一向に改善しない客足の理由を問うと、返って来るのは変わらない謝罪の言葉と新たな改善案。人の言葉をまねようとしている様子からは怒りが沸くのを通り越して、全身から力が抜けるのを感じる。ああ、明日も客足は増えないだろう。
寝不足の目を擦り店を開ける。午前中はいつもと変わらず、2.3組くらいの客が来た。そして昼時、今日も昼は誰も来ないかと思っていたところにドアについている鈴の音が響いた。
「いらっしゃいませ何名様でしょうか?」
「1人です」
「カウンターとテーブルのご希望はありますか?」
「そしたら……カウンターでお願いします」
彼女は珍しい客だな、と思った。30〜40代に見えつつも落ち着いた、真面目そうな男性が1人というのは確かにこの店にとっては珍しいが、それ以上に全く人がいないのに、店主と顔を突き合わせることになるカウンターを選ぶことが不思議であった。
席に案内してメニュー表を渡すと、男性はあまり悩まずにおすすめメニューの1つであるホットサンドとカフェオレを注文した。メニュー表のおすすめの大半は、彼女の本来のおすすめからは乖離していたが、ホットサンドだけは彼女が当初からおすすめメニューに置いているものだった。自分が大切にしたメニューが注文されたことで少し身体が軽くなったように感じながら調理する。10分ほど経ち、カウンターをぐるっと周り男性の横からホットサンドが乗った皿とカフェオレが入ったグラスを差し出す。
「こちらご注文のお品物になります」
「ありがとうございます」
軽い会釈をしてカウンターに戻る。食べてるところを見られるのは嫌だろうから午前中にお客さんが使ったテーブルを再度拭き、入り口の観葉植物に水をやる。店内に流れるジャズが1周回ったあたりでカウンターに戻り、お客さんが帰ったら飲もうかと思い、コーヒーのドリップを始めた。そんな時に声がかかる。
「店主さん、今お声掛けしても大丈夫ですか?」
「…はい?はぁ、大丈夫ですが……」
なんとも不躾な返事だったか、と後悔するが男性は気にしていないようで言葉を続ける。
「よく眠れていますか?」
「……え、えーと……何故でしょうか?」
唐突な質問に身構える。今までカフェをやってきて、声をかけられたことがなかったわけではないが、こんなことを聞かれるのは初めてだった。
「少しふらついているように見受けられましたし、目の下に薄っすらとくまができているのが見えてしまいまして」
「……よくお気づきになりましたね、あまり寝れてなくて」
「そうなんですね、何か心配ごとでもあるんですか?」
うーん、と悩んだような声を出す。彼女が悩んでいたのは心配ごとの内容ではなく、彼に話すべきか否かだ。彼の声は警戒心を薄れさせるのに十分で、見た目に不審なところはない。何よりホットサンドを注文した、というだけで彼女の中で彼への信頼度は上がっていた。
「えぇ、その、あまりお客様に言うべきじゃないかもしれませんが……」
「安心してください、誰にも言いませんよ」
「……その、見ての通り客入りがあまり良くなくて……今までに色々してきましたけど、どれもあまり効果がなかったんです」
「そうなんですね、話しづらかったでしょうに、教えてくださってありがとうございます」
「い、いえ……礼を言われることなど何も……」
男性の言葉は温かくも彼女の懐で反響する。特別ではない、優しい言葉、それだけで彼女の緊張がほぐれていく。
「私はこのお店はとても良いと思いますよ」
「そう、ですか?」
「えぇ、清掃は丁寧で音楽もちょうどいい、何よりいただいたホットサンドはとても美味しかったですよ」
柔和な彼の微笑みは、ついぞ彼女の心を拾い上げた。彼女は涙を見せぬためにも俯きながらお礼を述べる。
思い返せば、彼が褒めてくれたものは、全て自分が大切にしてきたことだった。自分で決めて、考えて。彼に褒められたからと言って、正解だったとは限らない。けれど、これは彼女にとって、最も大切にすべき、一つの指針だったのかもしれない。
わざとらしく洗い立てのフォークを落として、拾うふりをしながら涙を拭う。
「嬉しいです、これからも頑張ろうって思えました。本当にありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言われることなんて何も」
さっきの言葉を返しながらまた柔らかく笑う。初対面なのに、普段ならこんな風に話さないのに、一つ、今日はいい日だったのかもしれないな、と思う。
カフェオレを飲み切ったところで、彼は席を立ち、会計を行う。ご馳走様でした、と言ってドアに手をかけたところで、彼は立ち止まる。
「どうされました?」
「……蛇足になってしまったら申し訳ありませんが」
「何でしょう?」
「周りへの相談は気軽になさってください、みんな意外と優しくて、頼りになるものですよ」
「……はい、心に留めておきます」
「ただの客なのに出過ぎた真似を失礼しました、それではお邪魔しました」
彼女は彼の背中に向けて深々とお辞儀をする。全く彼はどこまで見通していたのだろうか。先程向けられた笑みを真似ながらカウンターに戻って食器を片付ける。すると机の上に手帳が忘れてあるのに気がついた。どうやらダークブラウンのカバーが机の色と似ていて気づかなかったのだろう。今から追いかけてもきっと間に合わないだろう。店を出てどちらに行ったかもわからない。どうしようかと悩みながら手帳の中身をのぞいてしまう。すると1ページ目には名刺が何枚か挟まっていた。写真から全て彼のだろうことがわかった。そして彼女はついつい笑ってしまった。どこまで見通していたか、その答えは多分「全て」なんだろう。そんなことを思いながら手帳を汚れない棚の脇に置いておく。
翌日、彼女は初めて臨時休業の看板を掲げて店を出る。病院に到着すると、受付に向かう。
「こんにちは、本日ご予約はされてますか?」
「いえ、診察ではなくて忘れものを届けに来て。心療内科の××先生はいらっしゃいますか?」
心休まる喫茶店を 名月 楓 @natuki-kaede
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