ゴッドハンド輪舞曲(ロンド)
斬条 伊織
第1話
最初の一撃で、理解した。
――これは、勝てない。
神崎悠真の頬をかすめた拳が、空気を裂いた。
見えてはいた。だが、反応が追いつかない。
次の瞬間、腹部に拳がめり込む。息が肺から叩き出される。
歪む視界が消えかけるのを、悠真は歯を食いしばって引き留め、後方へ跳ねた。
体格ではこちらに分があるはずだった。
だが、目の前の女はそれをまるで意に介さない佇まいで立っている。
力みのない姿勢。
無駄のない呼吸。
視線と拳に、一瞬の逡巡もない。
女が、ゆっくりと踏み出す。
――ここまでか。
神崎悠真は、静かに両手を挙げた。
「……イグレス」
空間が歪む。
次の瞬間、身体の感覚が引き剥がされるように消えた。
久城凛は焦りも見せず、消えた空間を見つめていた。
そして、静かに右手で指を鳴らす。
「……オン・ザ・パーム」
その言葉に応じるように、歪んだ空間が凛の周囲を包み込んだ。
膝をつき、悠真は激しく咳き込んだ。
喉の奥に残った痛みと鉄の味が、なかなか引かない。
ゆっくりと顔を上げる。
足裏から伝わってくるのは、冷えきった石の感触だった。
「撒いたか」
そう言ったあと、腹を擦りながらもすぐに警戒を始めた。
空気が重い。湿り気を帯び、どこか澱んでいる。
悠真は息を整えながら、周囲を見回した。
開けた広場だった。
円形に敷かれた石畳の中央に、低い噴水。その向こうに、黒ずんだ尖塔を持つ巨大な建物がそびえている。
「聖堂、か」
建物の壁面には古い浮き彫り。
意味をなさない文字列。
風化した彫像の眼窩は、空洞のままこちらを見下ろしている。
人の気配は、ない。
悠真はゆっくりと息を吐き、膝に手をついて立ち上がった。
腹部の鈍い痛みは、先ほどよりもだいぶ引いている。だが、完全ではない。
(……念のため、処置したほうがいいか)
この世界なら、簡単な薬草や軟膏の類は道具屋に並んでいるはずだ。
剣と魔法の文明圏――それは、これまでの経験則から導ける。
悠真は広場の縁へ向かって歩き出した。
――かすかな音。
足を止める。
今のは風ではない。
金属が擦れた音だった。
悠真はゆっくりと振り返る。
広場の入口にひとりの人影が立っていた。
銀の鎧。
無駄な装飾を削ぎ落とした、実戦用の簡素な意匠。
手にしたのは、細身の剣。長さも重さも、過剰ではない。
そして――兜はかぶっていなかった。
長い黒髪を背に流し、感情の読めない目でこちらを見据えている。
久城凛だった。
悠真は目を見開いた。
だが、その驚きはほんの一瞬だった。すぐさま右手を前に出し、半身に構える。
――やるしかない。
唇をわずかに噛み、迫る凛へと視線を定める。
神崎悠真には、二つの“天賦異能(ギフト・スキル)”がある。
ひとつは〈イグレス〉。
両手を天にかざし、別世界へと強制的に移行する能力。
そして、もうひとつ。
悠真は、握った右手を胸の前へ持ち上げた。
空気が微かに震える。
拳の奥へ、熱が集束していく。
「ゴッドハンド・コレクション」
声は低く、静かだった。
次の瞬間、光が爆ぜた。
淡金の輝きが渦となって悠真を包み込み、足元から天へと巻き上がる。
光の奔流は彼の輪郭を溶かし、存在そのものを飲み込んだ。
やがて、渦は粒子となって空中に散り、静かに消える。
その中心に、ひとりの男が立っていた。
全身を覆う黄金の鎧。
それはもはや、防具というより顕現した権威そのものだった。
装甲は濃密な金の輝きに満ち、刻まれた文様はすべて光を帯びて脈動している。
肩部には翼を思わせる意匠。
胸部には円環状の紋章が浮かび、ゆっくりと回転していた。
腰から垂れる装飾は、歩くたび微かな光の粒子を散らす。
関節部は鋭角に研ぎ澄まされ、指先に至るまで造形は異様なほど精緻だった。
ただ立っているだけで、周囲の空気が押し退けられていく。
美麗――だが、それ以上に威圧的だった。
人間が身にまとうには、あまりにも過剰な存在感。
そして、その右手には――大剣。
刃は長く、厚く、圧倒的な質量を感じさせる。
それでいて、悠真の手に収まるその姿は、あまりにも自然だった。
〈エンペラースレイヤー〉。
かつて“剣聖オリエル”が携えたと伝えられる、到達者の剣。
悠真はゆっくりと剣先を下げ、久城凛を見据えた。
広場の空気が、張りつめる。
もはや、風の音すら遠くなっていた。
冷えきった空気の中を、黄金が奔った。
踏み込みと同時に、悠真の身体が光を引き裂く。
加速のすべてが大剣へと収束し、その質量と輝きを余すことなく刃に乗せた。
華奢な女剣士の正面へ。
躊躇はない。
迷いもない。
ただ、断ち切る。
剣聖再臨の一閃〈落星斬〉。
大剣が、空を割った。
轟音。
石畳がひび割れ、衝撃波が広場を走る。
――だが。
久城凛の表情は、些かも動かなかった。
振り下ろされた大剣の軌道に、ただ細身の剣を差し入れる。
それだけだった。
甲高い金属音が、一度だけ響いた。
次の瞬間、大剣の軌道が、わずかに逸れる。
斬撃は凛の脇をかすめ、背後の石畳を深く抉った。
凛は、何事もなかったかのように剣を元の位置へ戻す。
呼吸も、姿勢も、まったく乱れていない。
ただ静かに、悠真を見つめている。
悠真は、戦慄した。
剣を握るこの手が――いや、剣聖の“手”が、脳内で警報を鳴らし続けている。
――危険だ。
――近づけるな。
――間合いに、入れるな。
再び大剣を構えようとした、そのときだった。
久城凛が、歩き出した。
鋭い踏み込みでも、音を殺した隠密歩行でもない。
ただ、トコトコと無防備に。
散歩でもするかのように、彼女は歩いてくる。
反射的に、悠真は大剣を横薙ぎに払った。
刃が空気を爆ぜさせ、広場を丸ごと薙ぎ払う。
だが、凛はその剣閃を、段差でも越えるような軽やかさでひょいと跳び越えた。
空中で、彼女の細身の剣が揺らめく。
音は、なかった。
ただ、鋭利な光が走った。
着地と同時。
黄金の鎧に、無数の「線」が刻まれる。
一拍おいて、それらは音を立てて崩れ落ちた。
――鉄壁を誇った装甲が、一瞬で細切れにされていた。
「……なっ」
悠真が息を呑む間もなく、凛はすでに眼前にいた。
一歩、二歩。
威圧しようとする様子はない。
それが、逆に恐ろしい。
悠真は本能のまま後方へ跳ねた。
だが、それでも距離が死ぬほど近い。
無理やり大剣を立て直し、盾にするように構えた、その瞬間。
凛の剣が、ふたたび走った。
静かな手応え。
伝説の〈エンペラースレイヤー〉の刃が、紙細工のように真っ二つに断たれる。
静寂。
折れた切っ先が重力に従い、石畳に突き刺さる。
乾いた音が、剣閃の敗北を告げた。
戦慄が、脊髄を駆け上がる。考えるより先に、両手が天を仰いでいた。
「イグレス」
空間が歪み、世界の境界が溶ける。
身体を引き剥がすような跳躍感覚が、悠真を別の世界へと連れ去った。
凛は少しだけ目を細めた。そして淡々と指を鳴らす。
「オン・ザ・パーム」
視界が爆ぜるような白光に塗りつぶされた。
肺に流れ込んできたのは、焼けつくような熱気と、細かな砂の混じった乾燥した空気。
悠真は激しく咽せながら、顔を上げた。石畳も聖堂も、もはやどこにもない。
見渡す限り広がるのは、ひび割れた赤茶けた大地。
目の前には、映画で見たような木造の家屋が数軒、砂嵐に晒されて立ち並んでいる。
足元には、踏み固められた砂の道。左右に並ぶ建物の壁には、弾痕のような黒い穴がいくつも穿たれていた。
黄金の重圧は消え、代わりに身体は羽のように軽くなっていた。
悠真は、自分の格好を見下ろす。
砂に汚れたポンチョ。
歩くたび、足首で鳴る拍車の音。
腰には、使い込まれた二丁のリボルバー。
初めてのはずなのに。
長年愛用してきたかのような手つきで、悠真はハットのつばを押し上げた。
――馬の嘶きが、どこかで響いた。
悠真の背筋が強張る。
凛がまた追ってくるかもしれない。
剣の世界での記憶が、まだ身体の奥に残っている。
あの距離感。
あの静けさ。
ここに長居するべきではない。馬を手に入れて、できるだけ遠くへ。
ゆっくりと歩き出した。
砂を踏む靴底の感触が、不思議なほど自然だった。
通りの奥へ進むにつれて、建物の間に薄暗い影が落ちる。
看板の軋む音。
乾いた木の匂い。
遠くで鳴るガラス瓶の転がる音。
通りの角に――酒場があった。
色あせた木の看板。
【SAL O O N】と書かれた歪んだ文字。
扉の前には、何脚かの椅子と、ひび割れたテーブル。
中からは人の気配がする。
低い話し声。
笑い声。
一息入れたい思いに駆られたが、唇を噛んで歩を進めた。
下を向きながら店の前を通り過ぎようとしたとき、ギィっとサルーンのスイングドアが跳ねた。
つられて目をやる。
ひとりの女が、立っていた。
砂色のロングコート。
風を受けているはずなのに、裾はほとんど揺れていない。
足元は、黒いブーツ。腰には、無骨なリボルバー。
そして――長い黒髪と、感情の読めない目。
久城凛だった。
考えるより早く、砂を踏みしめて後方へ下がる。
二人の間を、乾いた風が横切った。
舞い上がった砂ぼこりに紛れて、悠真は静かに拳を握る。
「ゴッドハンド・コレクション」
呟いた瞬間、悠真の両手を淡い光が包み込んだ。
脳内に流れ込んでくるのは、砂塵の荒野で数多の賞金稼ぎを葬ってきた男の記憶。
指先の震えが止まり、心拍が落ち着く。
世界の動きが、まるでスローモーションに変わったかのように感じられた。
不敗のマーシャル(連邦保安官)ビル・ヘイデン。
その魂がいま、悠真の両手に煌々と宿っている。
凛の表情は変わらなかった。
ただ静かに、そこに立っているだけだ。
通りの空気が変わった。
最初に気づいたのは酒場の前に腰掛けていた男だった。動きが止まり、視線だけが二人へと向く。
続いて、椅子が引かれる音。
スイングドアが揺れ、店内から数人が顔を出した。
ひび割れた通りの奥でも、人影が立ち止まる。
建物の影から、窓辺から、次々と視線が集まってくる。
人が増えるにつれて、通りは騒がしくなっていった。
二人の様子を見て、これから始まる対決を察した者たちが荒い声を上げる。賭けを取り仕切る者まで現れ、熱は瞬く間に伝播していく。
通りは、もはや日常の空間ではなかった。
二人は向かい合ったまま、動かない。
風が吹き、枯れ草が転がる。
先に痺れを切らしたのは観客のほうだった。
手にした酒瓶を高く放った。宙を舞い、地面に落ちて砕ける。
――パリン、と。
乾いた音が響いた瞬間、悠真の両手が跳ね上がった。
迷いのない二条の火。
右手の銃弾が一直線に凛の胸元に向かい、左手の銃弾は建物の壁や金具を掠めていく。
直線の一撃と、予期せぬ角度から襲いかかる跳弾の嵐。ビル・ヘイデンの神業――終焉の二重奏(デス・デュエット)。
いける。
コンマ数秒の世界で、悠真は確信した。
凛が動いた。
跳弾の軌道を見切り、軽く跳ぶ。背後と側面の弾が空を切る。
正面の一発が迫る。凛はコートから素早く手を出す。
乾いた金属音。
フライパンの中心で弾が潰れ、地面に落ちた。
悠真の思考が、一瞬だけ止まった。
――は?
確信したはずの弾道が、誰もいない空を切っていた。
視界の端。
凛が跳んでいた。通り脇の馬の背を軽やかに踏み、空中へ。
その右手が、悠真を捉える。
直後、雷鳴が連なった。異常なほど短い発砲間隔。宙を舞う凛の左手が、撃鉄を叩き続ける。
扇ぐような動き――ファニング・ショット。
弾丸は「点」ではなく、「線」になった。
乾いた衝撃。
悠真の両手が弾かれる。右の銃が宙を舞い、左の銃が砂に転がる。
音が止んだとき、凛はすでに悠真の眼前に立っていた。
銃口から立ち上る一筋の煙が、ただ静かに、実力差を告げていた。
悠真は、息を吐いた。
痺れた両手を無理やり持ち上げる。
「イグレス」
空気が歪み、悠真の姿が掻き消えた。
砂だけが残る。
凛は、その場所を一瞥した。
そして、指を鳴らす。
「オン・ザ・パーム」
歪みが、凛を包んだ。
視界が裏返った。
悠真は――空中にいた。
雲を突き抜ける風圧が、全身を打つ。重力が四肢を掴んで離さない。
落下の感覚の中で、手に力を込める。
「ゴッドハンド・コレクション」
皮膚の下で、見えない線が走った。
掌紋が変わる。円と曲線が重なり合う、古い術式。
指が、自然に動いた。
折る。
絡める。
重ねる。
結印。
空気が、掌の前で歪む。
次の瞬間、空そのものが裂けたように――巨大な影が、上方から滑り出てきた。
翼。黒に近い深藍の羽毛。夜空を切り裂くような輪郭。
大鳥。
悠真は迷いなく、その背へ降りた。
羽毛が衝撃を受け止め、身体が静かに沈む。落下が止まる。鳥は何事もなかったかのように、空を滑空する。
悠真は掌を見た。記憶が脳裏に流れ込んでくる。
王都を呑み込もうとした大津波。崩れゆく城壁。玉座の間で泣く赤子。
そして――ただ一人、掌で印を結び、
大鳥を呼び出して王子を空へ連れ出した召喚魔導師アシュレイ。
悠真は眼下を見下ろした。
白亜の王都が遠く広がる。空という絶対的な距離があれば、今度こそ――。
そう確信した瞬間、背後で空気が爆ぜた。
大気を震わせる重低音。
振り返った悠真の視界に、三つの巨大な影が迫る。
右翼には、石の肌を持つ巨鳥ガーゴイル・ロード。
左翼には、翼から黒い霧を滴らせる深淵の怪鳥、アビス・グリフォン。
その最禍の二大魔獣を従え、天空を焦がしながら翔け迫る邪神龍ブラックドラゴン。
久城凛は、その邪龍の額に悠然と立っていた。
悠真は、反射的に指を動かしていた。
折る。
絡める。
重ねる。
掌紋が灼けるように光り、空気が震える。
現れたのは、三つの気配。
白銀の獅子王アエルウィン。
月光を纏う蒼蛇鳥ルナシア。
心臓に聖光を宿す小翼竜ハートウィング。
三体の聖獣が、空に陣を描く。
――勝負だ。
そう思った瞬間だった。
凛の指が、高速で動いた。
同じく、印を結ぶ。
それだけで、空が割れた。
裂け目の向こうから、次々と名が零れ落ちてくる。
ヴォルガザード。
グラヴェノクス。
ザルガドレイス。
デスヴァルグ。
ギルザラーク。
ブラッドヴェイン。
ネクロヴァルス。
……まだ、終わらない。
さらに裂け目が増え、
さらに影が増え、
さらに名前が増えていく。
腐りかけの胎動。
皮膚の裏で笑うもの。
星を喰らう空洞。
名を持たぬ王の影。
終わりだけを知る門。
形の定まらぬ、腐蝕の亡者どもが空を埋めていく。
悠真は、口を開けたまま、それを見ていた。
――い、いや、ちょっと待て。いくらなんでも、それはないだろ。この世界の住人ですらなさそうなのが混じってるぞ。
闇が迫る。
悠真は即座に両手を持ち上げた。
「イ、イグレス!」
目を開いた瞬間、視界を埋め尽くしたのは全天周囲モニターの光だった。
宙に浮く計器、低く唸る駆動音。
――宇宙(そら)にいた。
正面モニターに赤い敵影が映る。悠真の指が、勝手に動いた。
光子放射銃が一閃。敵機はあっけなく爆散する。
「……まだ宇宙のGに慣れないな」
次の瞬間、脳裏に鋭い閃光(フラッシュ)が走った。
ニューライト特有の空間認識。
「これは……。赤いやつか」
警告音が鳴り響き、モニターに赤いシグナルが乱舞する。
映像が切り替わる。
赤い。あまりにも赤い。
通常のザルクの三倍の速度で迫る、異様に禍々しい機体――リン・ザルク。
「……来たか」
悠真は迷わず、右手を掲げた。
「ゴッドハンド・コレクション」
脳内を埋め尽くす戦歴。
八年戦争。宇宙要塞。白い悪魔。
人類初のニューライト能力保持者、アムーロ・ペイ。
「……見える。見えすぎる。重力に魂を縛られた連中とは、次元が違うんだ!」
操縦桿が、完全に手足と一体化する。
だが、回避に入るより早く、モニター上の赤い機体が「加速」を置き去りにした。
「え、ちょっと待って。ニューライトとしてはこっちのほうが上のはず」
残像。
次の瞬間、背後。
衝撃波すら置き去りにした「蹴り」が、悠真の白い機体を粉砕した。
「待って待って!連邦軍の新型は伊達じゃないんだって!」
機体は四散し、脱出ポッドが宇宙へ投げ出される。
モニターに映るのは、無慈悲に静止した赤い機体。
悠真は叫びながら、両手を振り上げた。
「イ、イグレス!イグレス!イグレス!!」
目を開けると、そこは眩しいほどの照明に満ちた空間だった。
観客席。巨大なキッチン。鳴り響くファンファーレ。
――キッチンスタジアム。
ゴッドハンド・コレクションの力で、悠真の右手が勝手に動く。
包丁を握る。火加減を調整する。ソースを詰める。
宿ったのは、フレンチの鉄人の“手”。
一方、対面の調理台では、久城凛が静かに食材を並べていた。
出汁を引く。包丁が走る。盛り付けが完成する。
審査。
結果は、満場一致。
「和の創作懐石料理」の勝利だった。
悠真は皿を見つめながら、呟いた。
「いや、レシピは完璧だったんだけどな……。イグレス」
世界が裏返る。
証言台。
傍聴席。
裁判長の木槌。
悠真は弁護人席に立っていた。
「異議あり!」
指が勝手に伸びる。
声もよく通る。
あの伝説の弁護士、ナットク君の力で完璧な反論。
論理の積み重ね。
証言の矛盾を次々に突く。
――これはいける。
そう確信した瞬間、眼鏡をかけた検察席の凛が静かに指を突きつけた。
「異議あり」
提出されたのは、決定的な証拠。
反論不能。
論破。
沈黙。
判決。
「被告人を有罪とする」
木槌が落ちた。
悠真は天井を見上げた。
「……ム、ムジュンありませんでした?」
裁判長は、ゆっくり首を振った。
「……イグレス」
盤を挟んで、二人が向かい合っていた。
静寂。
持ち駒。
悠真の手が、勝手に動き出す。
「ゴッドハンド・コレクション」
脳裏に流れ込むのは、名人マングース善治の棋譜。
先読み。
詰み筋。
最善手。
――これは、いける。
そう思ったのは、十手目までだった。
凛の一手。
王手飛車取り。
二十手目。
敗勢。
三十二手目。
「……投了です」
盤上には、完璧な詰み形が残っていた。悠真は盤面を見つめ、小さく息を吐く。
「マングース名人、九段だったんすけど……」
そして、両手を上げる。
「……イ、イグレスぅ」
視界が、今度こそ静かに裏返った。
風圧もない。爆炎もない。歓声もない。
ただ、波の音だけがあった。
気づけば、夕焼けの海岸に立っていた。
人影はまばらで、遠くに散歩する家族がいるくらいだ。
空は橙から群青へと滲み、水平線はほとんど輪郭を失っている。
悠真は靴を履いていなかった。
裸足のまま、波際をゆっくりと歩いている。温い水が、くるぶしを撫でては引いていく。砂が足裏にまとわりつき、現実の重さだけが残った。
……疲れた。
それが、ようやく言葉になった。戦いでも、技でも、世界でもなく、ただ、歩いているだけなのに。
波打ち際から少しだけ離れた。湿った砂が、乾いた砂へと変わる境界。足裏の感触が軽くなる。
ゆっくりと腰を落とす。手のひらを後ろにつき、息を吐いた。胸の奥に溜まっていたものが、静かに抜けていく。
波の音は変わらない。
風も、同じ調子で吹いている。
沈む夕日をただ眺めてた。
「もう、終わり?」
背後から声がした。悠真はゆっくりと振り返る。
少し離れた砂浜に、ひとり立っていた。
黒い髪。感情の読み取れない目。
いつもと変わらない、久城凛だった。
悠真は、なんとなく両手を見下ろした。試すように、静かに言う。
「ゴッドハンド・コレクション」
……何も起きない。光も、疼きも、記憶の奔流もない。
悠真は、肩を落として両手を広げた。
「ああ……もう打ち止め」
「そう」
凛はそれだけ言って、悠真の隣に腰を下ろした。砂がわずかに鳴る。
しばらく、波の音だけが続く。
やがて、凛が悠真の手に触れた。指先が絡み、確かめるように、軽く握る。
「じゃあ……この手は、間違いなく悠真の手なのね」
「ああ」
凛は小さく頷いて、ポケットから何かを取り出した。
細い銀色の輪。何の前触れもなく、悠真の薬指に通される。
「……なにこれ」
「ペアリング」
悠真は、自分の左手で鈍く光る銀色の輪を、呆然と見つめたまま動けなかった。
(……や、やっぱり)
喉の奥で、言葉にならない声が詰まる。
(さっき見た光景、夢じゃなかったんだ……。本当に……買ったんだな、これ……。あの、高いやつ……)
思い出す。デパートの宝飾品売り場。
ショーケースの前で、じっと指輪を見つめていた凛。
店員が打ち込んだ電卓の表示。桁を見た瞬間、脳がフリーズしたあの感覚。
……だから俺、宇宙まで逃げたのか。
悠真が固まっているのを見て、凛がわずかに眉を下げた。
「……ダメだった?」
「え?」
「……怒ってる?」
凛が、悠真の顔をうかがうように、下からじっと覗き込んできた。
夕陽の残光を吸い込んだ瞳が、いつもより潤み、期待と不安のあいだで揺れている。
白い頬が、潮風のせいか、それとも照れのせいか、淡く桜色に染まっていた。
今にも触れそうな距離で、唇がわずかに揺れる。
悠真の顔は、見る間に緩みきった。目尻が下がり、完全にバカ面になった。
「いやいや、違う違う。怒ってない、怒ってないから」
慌てて両手を振る。
「ただ……びっくりしただけ。ほんとに」
凛はまだ納得しきれない様子で、じっと顔を覗き込んでくる。
「……本当に?」
「本当に」
「……本当の本当?」
「本当の本当だって」
それでもまだ、わずかに不安げな顔。
悠真は観念して、視線を逸らしながら言った。
「……だってさ」
「凛が欲しいって思って買ったものを、俺が嫌がるわけないだろ」
数秒。凛の目が、わずかに見開かれた。次の瞬間、
「……やった」
心底うれしそうな声だった。
「……ありがとう」
そう言って、凛は何の躊躇もなく、悠真に抱きついてきた。砂浜に座ったままの姿勢で、ぎゅっと。
悠真の思考が、完全に停止する。
「……お、おい」
凛は顔を埋めたまま、ぽつりと言う。
「心配しないで」
「なにが」
「支払いは私も出すから」
少しだけ顔を上げて、真面目な顔で。
「……ちゃんと、半分こ」
悠真は一拍おいて、ふっと、小さく笑った。
「……もう、それを先に言ってくれよ」
凛は、ほんの少しだけ照れたように、口元を緩めた。
「へへ。ごめんね」
凛はまだ腕を離さなかった。
悠真は、小さく息を吐く。
「……ほんと、しょうがないな」
「なにが」
「全部」
凛は意味が分からない、という顔のまま、
でも少しだけ、うれしそうに目を細めた。
波の音が続く。
指輪が、淡く光る。
まあ、悪くない。
こういう現実も。
悠真はそう思いながら、もう一度だけ、凛の手を握り直した。
ゴッドハンド輪舞曲(ロンド) 斬条 伊織 @zanjo_iori
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