鏡の包丁と、白い残像
白波 瀬奈
第1話:地獄の一丁目
不眠の闇が部屋を浸食し始めると、私は決まってキッチンへ向かう。 引き出しから取り出すのは、一振りの包丁だ。 鏡のように磨き上げられたその刃先を見つめていると、濁った意識が少しだけ透き通るような気がする。
この包丁を研いでくれたのは、彼だった。 かつて何百人もの部下を率い、国という巨大な盾の最前線に立っていた精鋭部隊の指揮官。 観閲式で太陽を背に受けて行進する彼の姿は、あまりにも強く、眩しく、そして私からは遠い世界の住人のように見えた。
けれど、私の前で見せる彼は、少しだけ違っていた。
約束の時間は、いつも決まって「ヒトマルサンマル(10時30分)」。 静まり返った自宅の前に、音もなく滑り込んでくるのは、磨き上げられた真っ白なSUV。 ドアを開けた瞬間に私を包み込むのは、洗練されたイタリア製フレグランス――ジュングレ・セタの、甘くも鋭い香りだ。
アヴィレックスの黒いTシャツから覗く、鍛え上げられた逞しい腕。 その大きな手でハンドルを握る彼は、国家の重圧を脱ぎ捨て、ただの一人の男として私を迎えに来てくれた。
彼は今、その軍服を脱いでいる。 戦うための武器を置き、白いコックコートに身を包んで、一人の料理人の卵として「新しい夢」を研いでいるはずだ。 そのストイックな背中を思い出すたび、私の胸の奥は、熱い痛みに似た何かで満たされる。
私たちは、よく笑った。 車内を流れる夜風の中、彼はふと、幼い頃の記憶を辿るような少年っぽい顔をして、私を促す。
「次は~」
私は、子供のように声を弾ませて答える。
「地獄の一丁目〜! 地獄の一丁目〜!」
通園バスの運転手さんが教えてくれたという、嘘みたいに純粋で、少しだけブラックな、二人だけの合言葉。 何百人を率いる「大隊長」が、私の隣でだけ見せてくれた、世界で一番無防備な素顔だった。
あの時、私たちは確かに幸せだった。 けれど当時の私たちはまだ知らなかった。その合言葉の先に、二人の運命を揺るがす大きな試練が待ち受けていることを。
これは、誰にも言えなかった、私と「かつての英雄」との、再生と再会の記録。 私が彼との間に一度は引かなければならなかった「境界線」が、やがて二人を本当の絆へと導いていくまでの真実を、ここから少しずつ綴っていこうと思う。
止まっていた私の時間が、今、彼と共に再び動き出す。 その先に待つ、光に満ちた結末を信じて。
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※次回、彼の作る一皿が、私の眠れなかった夜をほどいていく。
第2話:『幸せの味がするチキンフリカッセと、江の島に響く波の音』へ続く
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