第4話

鏡を見ると、思ったよりも幼い顔をした自分と目が合う。寝癖がついたままの髪の毛は重力なんか知らないふりで、私は歯ブラシを持っていない方の手を冷たい水で濡らして頑固な髪の毛を撫でつける。唾液が溢れそうになるので、歯磨きをする手を止めてシンクに吐き出す。ぴしゃりと跳ねた白い水がふつふつと鏡を汚す。それを後ろで見ていた鶺鴒が、むっとした声をだす。

「ねえ! いつも鏡が汚れるから優しく吐き出してって言っているのに!」

私は鏡越しに鶺鴒をちらりと見て、ごめん、と短く返す。いつものやり取りなので、鶺鴒は少し文句を言いながらも、てかてかしたイチゴジャムを塗ったトーストを適当に食べている。

口を濯いで、そのまま顔も洗ってしまう。癖の強い髪の毛を水で濡らして抑え込みながら、なんとかまとめて後ろで一つに結ぶ。簡単な作業のはずなのに、割と時間がかかって嫌になる。それでもいつもうまく結べないので、結局は鶺鴒を呼ぶ。

「鶺鴒、ごはん終わった?」

「今行くよ」

ばたばたと空気の動く気配がして、それから鶺鴒がやってくる。私はおねがい、とゴムを差し出す。鶺鴒は慣れた手つきで私の髪を結ぶ。しゅ、くるん、と直ぐにきれいに髪が結ばれて、少しだけ悔しい。自分の髪なのに、どうして鶺鴒の方が上手に結べるんだろうか。

「はい、できたよ」

「ありがとう。ほんと助かる……!」

鶺鴒が、どうも、と苦笑する。私は鶺鴒と洗面台を交代して、いつもの制服ではなく、昨日出しておいたスーツに着替える。

「今日、何かあるの?」

鏡越しに鶺鴒が私の方を見る。私は慣れないストッキングにてまどう。

「訪問の対応」

「そっか、それは大変」

ふっ、と。鶺鴒が優しく歯磨き粉の混ざった白い唾液を吐き出す。シンクに落ちる液体は緩やかに跳ねるが鏡を汚しはしない。

「うん。でも、先生から任されてしまったから仕方ないよ」

くいっと、なんとかストッキングを太ももからお腹まであげる。張り詰めて締め付けられた足に、どことなく違和感を覚える。

「…………最近、駄目になる子が多いからかな」

独り言のように鶺鴒が言う。顔を上げて鶺鴒の方を見るが、けれども、下を向いて赤いイチゴジャムの付いたバターナイフを洗う鶺鴒の表情は見えない。私はスカートのファスナーをゆっくりと上げながら答える。

「どうかな。でも、きっとあの子のことだと思うよ」

少し間をおいて、鶺鴒が、そっか、と言う。私は整った白いシャツの上にジャケットを羽織る。スカートのポケットにハンカチとモバイル端末を入れ、ベッドの下の引き出しからあまり使われていないヒールの入ったローファーを取り出す。

「そろそろ行くね」

ローファーを持って扉へと向かいながら鶺鴒に声をかける。綺麗に支度を整えた鶺鴒が振り返り、ローファーを持っていない手を優しく包み込まれる。水に濡らしたせいか、鶺鴒の手はひんやりと冷たかった。

「頑張って」

鶺鴒の黒い瞳に、少し、不安が混ざる。私は鶺鴒の華奢な手を優しく握り返して、大丈夫だよ、と安心させるように笑って言った。



藤屋惟臣、と書かれた名刺を差し出される。私はどうしていいのかわからず先生の方を見る。先生は、受け取りなさい、と目で言うので、私は骨ばった長い指から名刺を受け取る。

「柿崎さんではなくなったのですね」

「はい。先日、人事異動があったので」

藤屋がそつなく答える。私は手持無沙汰に名刺の角を手のひらの中で弄る。先生が促して藤屋が椅子に座ったので、私も先生の隣に座る。それを見計らって、水蜜桃がグラスを三つ載せたお盆を持って部屋に入ってきた。

「本日お伺いする件ですが、」

水蜜桃が退出してすぐ、置かれたグラスに手を付けず藤屋が本題に入る。先生はグラスを両手で持つ。徐々に、空気が張り詰めていく。

「先週報告された件について、です」

藤屋が鞄から資料を取り出して先生に渡す。先生はグラスを置いて、資料を受け取りぱらぱらと捲る。私はその横で、ぼんやりと二人の会話を聞いていた。



午後二時。

あらかたの用事が済んだようなので、先生に促されて藤屋を食堂に案内する。先生と水蜜桃も来るかと思ったのに、二人で行ってきなさい、と言われる。知らない人とご飯を食べるのはあまり得意ではないけれど、仕方がないので頷く。

「あの、」

無言で歩くのも疲れるので、私は会話の内容も思い浮かばないまま横を歩く藤屋に声をかける。藤屋は何も言わないまま、少し視線を私の方に移す。

「藤屋さん、は、前はどこにいたんですか?」

「金沢です」

「あ、北陸の方なんですね…………冬は、雪がまだ降るんですか?」

「たまに」

はあ、そうですか、と返す。ふつ、と会話が途切れて、私は視線を窓の外に逃がす。外はどんよりと灰色で、けれども植込みの躑躅の葉は鮮やかな緑色をしている。三月に入ってもまだ寒いけれど、ここは、雪は降らない。

「…………あ、」

ため息のような、淡い声が藤屋の薄い唇から漏れる。見開かれたその瞳の先を追えば、透き通るような桃色がきらきらと滲んで空を拡がっていくところだった。

「ペルセポネ、きれいでしょう?」

声をかけると、はっとしたように藤屋がこちらを向く。正面から見上げるようにして、藤屋のことをやさしい気持ちで見る。

「お役所の方は資料だとかパソコンの画面上でしか…………、ううん、じっくりとなんて見たことがないから知らないと思いますが、ペルセポネはきれいなんです………………きらきら、と、していて……透明で、純粋で。だから。溶けてしまえそうでしょう?」

「なにが、」

「わたしたち」

藤屋の顔が強張る。それを知っていても、私は言葉を続ける。

「わたしたち、ペルセポネに溶けてしまえれば、きれいな存在に還れると思いませんか」

藤屋が息を呑む。すう、と。透明な冷気に満たされて、ゆるやかに、藤屋の表情に理性が戻ってくる。

「それは、救いとして?」

藤屋が先生と対峙していた時と同じ、神経質な硬い声で聞く。じんわりと、血の味が口内に広がる。無意識に口元は笑っていて、気づけば唇の端が切れていた。

「そんなの、関係ないですよ」

きらきら、きらきら。窓の外。ペルセポネが爆ぜて、光って、落ちていく。淡い桃色から、閃光、赤茶けた錆色に。きらきら、きらきら、光って。光って、鈍色になって落ちていくその瞬間まで。空にいる間は、きれいなまま。

「救いでも、罰でも、永遠の罪だとしても、………………きれいに。きれいな存在に還れるのなら」

空が侵食されていく。砕けて、散って、滲んで、それで、青色が揺らいで桃色に。そうして、爆ぜて、落ちて、鈍色に。

地上で、私たちばかりが汚れる。

空に浮かぶペルセポネは、永遠にきれいなまま。


「…………俺には、わからない」

藤屋が吐き捨てるように言う。

それでも、私はやさしく微笑んで藤屋を見ている。



二時すぎという中途半端な時間のせいか、食堂にはひとけがあまりなかった。券売機で食券を買い、私はサンドイッチを、藤屋はカレーを受け取る。席はどこも空いていたけれど、なんとなく、窓から遠い席を選んで座る。藤屋がさりげなく、壁に面した席の方を譲ってくれたので、私はありがたくそっちの方に座る。その慣れた感じが意外だったので、少し不思議な顔をしてしまう。

「……なにか」

「あ、いえ、すいません。別に」

「そうですか」

きゅっと、藤屋が鞄から出したポケットティッシュで机を真四角に拭きながら言う。私は気にせず、サンドイッチの載ったトレーをそのまま置く。


温いおしぼりで手を拭いて、食べなれたサンドイッチをもそもそ齧る。藤屋はカレールーとご飯の一対一のきれいな比をスプーンの上で器用に実現させて、口元を汚すことなく食べる。お互い、とくに共通の話題があるわけでもないので、無言で。

そういえば、と。重苦しい空気を裂くように私は言う。けれどもこれといって話すことも思いつかず色々と記憶を遡っていると、丁度良く世間話にできそうなペルセポネの噂を思い出す。

「藤屋さんはペルセポネの目的を知っていますか?」

「ペルセポネに目的――――、いや、そもそも意思があるのですか?」

「いえ、そうではなくて…………噂、と言うか、うー…………ん、と、そう、その、都市伝説と言うか。いわゆる信じるか信じないかはあなた次第です、ってやつですね」

軽く冗談を混ぜてみるが、藤屋は少しも表情を崩さない。愛想笑いくらいしてくれてもいいじゃないかと思う反面、私は顔から火が出るような心地になる。平静を保とうと、水滴の付いたグラスを手持無沙汰に撫でる。

「ペルセポネは、恋人に会うために地球に帰ってきた、って」

藤屋は几帳面にカレーを食べる手を止めずに聞いている。私は話を続ける。

「そもそもペルセポネは、不慮の事故で宇宙の遥か彼方の星に漂着したまま朽ちたある研究者の死体から芽吹いた、みたいです」

そう、忘れもしない。忘れられはしない。

ペルセポネは二年前、春を連れて突然にやってきた。そうして、淡い桃色のひかりで、きれいで暖かなひかりで、地球を侵して数多の生命を呑み込んだ。だから、冥界の女王で春をもたらす女神の名を取って「ペルセポネ」と名付けられたのだ。

「本当は、ペルセポネは私たちを――――地球を、呑み込んで死滅させるためにやってきたのではないみたいです。だから、ペルセポネは自ら私たちを殺しはしない。それが目的ではないから。

ペルセポネが、今、私たちを殺すのは、先に、私たちがペルセポネを攻撃するから――――彼女の目的を阻害しているから、だって」

「はじめて聞きました」

藤屋が乾いたティッシュで几帳面に口を拭いながら言う。

「まあ、すべて噂なので。これが真実かどうか、確かなことはわからないんですけれど」

私は少し照れくさくて誤魔化すように笑いながら言う。藤屋はまた少しも表情を崩さず、そうですか、とさして興味もなさげに相槌を返すだけだった。



食事を終えると、またもと来た道をたどって、応接室へと帰る。

「失礼します」

軽くノックして中へ入ると、先生が藤屋の持ってきた資料をぱらぱらと眺めていた。

「ああ、お疲れ様」

資料から顔をあげて、先生が笑う。私のうしろから、藤屋も部屋へと入る。

「藤屋さん、ここの食堂なかなかおいしいでしょう?」

先生に聞かれて、藤屋が曖昧に頷いた。きっと、お役所の食堂の方がおいしいのだと思う。

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春と少女と終末と 遠野閃 @mem_itori

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