更紗のヴェール

辛口カレー社長

更紗のヴェール

 その日は、朝からぬるい雨が降っていた。

 私の仕事場である工房「水鏡みずかがみ」は、東京の片隅、築五十年を超える雑居ビルの三階、一番奥まった場所にある。湿気を含んだコンクリートの匂いと、微かに漂う藍の香りが混じり合う廊下を抜け、重い鉄の扉を開けると、そこだけが時間の止まったような空間が広がっている。

 部屋の壁を埋め尽くすのは、世界各地から集めた古布の端切れや、色とりどりの糸が巻かれた木製のリールだ。中央には、使い込まれたにれの巨木の作業台が鎮座している。私はここで、人々の思い出が染み付いた布を診察し、その綻びと共に、時には持ち主の心も縫い合わせる。


 午後二時。約束の時刻ちょうどに、控えめなノックの音が響いた。

 ドアの外に立っていたのは、ベージュのトレンチコートを着た若い女性だった。

「あの、神代かみしろしきさん……でしょうか。紹介を受けて」

「ええ、どうぞ」

 佐倉さんというその女性は、雨に濡れた傘を丁寧に畳み、まるで壊れ物を扱うような手つきで、腕に抱えた風呂敷包みを机に置いた。

「看板も出されていないと伺っていたので、案の定、少し迷いました」

 彼女の声は細く、頼りなげだった。

「隠しているわけではないのですが、あまり大っぴらにする仕事でもありませんから」

 私は彼女に温かい焙じ茶を出し、向かいの椅子に座るよう促した。

「今日はどのようなご依頼でしょうか」

 佐倉さんは、震える指先で風呂敷の結び目を解いた。中から現れたのは、息を呑むほどに精緻せいちな文様が施された、一枚のヴェールだった。それは、インド更紗さらさの流れを汲む、あるいはジャワのバティックの影響を受けた、独特の美しさを湛えていた。深い藍、燃えるような茜、そして、長い年月を経て象牙色へと変化した下地の白。中央には、天に向かって枝を広げる生命の樹が描かれ、その周りを空想上の鳥や花々が埋め尽くしている。

「美しい……。でも、ひどくお疲れのようですね」

 私が呟くと、佐倉さんは小さく息を呑んだ。

「お分かりになるのですか?」

「ええ。布は、それを愛した人の想いを吸い込みます。このヴェールは……あまりに多くの隠し事を吸い込みすぎて、悲鳴を上げている」

 私は白い手袋をはめ、慎重に布を広げた。中央の生命の樹を切り裂くように、無残な裂け目が走っていた。それは、刃物で切ったような鋭い断絶ではなく、布自体の繊維が内側から弾け飛んだような、不自然な綻びだった。

「これは、私の家に三代前から伝わるものです」

 佐倉さんは、膝の上で手を握りしめ、語り始めた。

「我が家では代々、婚礼の際にこのヴェールを被るのが習わしでした。これを纏う女性は、一生、本当の悲しみを見せずに済む……つまり、完璧な妻、完璧な母として、微笑み続けていられるという言い伝えがありました」

「完璧な妻、完璧な母、ですか」

「はい。母もそうでした。父との仲は冷え切っていたはずなのに、母は一度も愚痴をこぼさず、いつも穏やかに微笑んでいました。でも、三か月前、母が亡くなった夜、形見分けのために箪笥たんすを開けたら、このヴェールがこんな風に裂けていたんです。まるで、母の心が壊れてしまったみたいに」

 私はそっと、裂け目の縁に指を這わせた。その瞬間、私の背筋に冷たい電流が走る。視界が急速に狭まり、工房の風景が掻き消される。


 ――える。


 それは、私の持つ共感覚に近い、奇妙な体質のせいだった。物に触れることで、その物が経験した記憶の断片が、映像や匂いとなって私の脳内に流れ込んでくる。

 湿った土。スパイスの混じった風。遠くで聞こえる誰かの啜り泣き。そして、鏡の前で真っ赤な口紅を引き、このヴェールを被る一人の女性の姿。彼女の瞳は凍てついた湖のように静かだが、その奥底では、煮えたぎるような怒りと悲しみが渦巻いている。

『ああ、誰にも見られなくて済む。この布が、私の代わりにかたどってくれるから』

 私は反射的に手を離した。心臓が早鐘を打っている。

「あの、大丈夫……ですか?」

「ええ、いつものことですから」

 私は動悸を抑え、作り笑いを浮かべた。

「これを直せば、母の魂も救われるような気がして。でも、近所の仕立て屋さんには『こんな特殊な織りと染めは、どうにもできない』と断られてしまったんです」

 佐倉さんは、すがるような目で私を見つめた。

「分かりました。お預かりします。ただし、一つだけお伝えしておかなければなりません。このヴェールを元の姿に戻すことが、必ずしも正解とは限らない。それでもよろしいですか?」

 佐倉さんは一瞬、戸惑ったような表情を見せたが、やがて覚悟を決めたように深く頷いた。

 佐倉さんが帰った後、私は工房の鍵を閉め、作業灯の明かりを落とした。部屋を支配するのは、窓から差し込む街灯の微かな光と、私が焚いた沈香じんこうの煙だけだ。

 私は古い金庫から、小さな桐の箱を取り出した。中には一本の古びた針が入っている。それは、私の師匠であり、かつてこの場所で同じように布を直していた祖父から譲り受けたものだ。

 祖父は物言わぬ布たちの声を聴くことができる人だった。


『いいかい、しき。布を直すということは、その布が刻んできた時間を肯定するということだ。破れたからといって、無かったことにしてはいけない。綻びは、その人が生きた証なんだから』


 この針は「影通し」と呼ばれている。通常の針は、布の表面と裏面を行き来するだけだが、この針は、布の記憶の層を縫い合わせることができる。祖父が異国の行商人から譲り受けたという、呪物にも近い道具だ。

 私は更紗の前に座り、深く、深く呼吸を整えた。

 修復師にとって、最も重要なのは技術ではない。対象となる物と、精神を同調シンクロさせることだ。

 私は指先に意識を集中し、裂け目の縁に影通しの針を差し込んだ。途端に、私は現実の世界から、意識の深淵へと引きずり込まれる。

 気がつくと、私は色彩の迷宮に立っていた。更紗の文様がそのまま実体化したような、狂気を感じさせるほど鮮やかな庭園。空は茜色に燃え、足元には深い藍色の草が波打っている。頭上には巨大な生命の樹が、天を覆わんばかりに枝を広げている。

 だが、その景色は美しくも残酷だった。生命の樹の幹には、底の見えないほど深い、真っ黒な亀裂が入っている。そこからドロドロとした灰色の霧が絶え間なく溢れ出し、周囲の鳥たちを飲み込もうとしていた。鳥たちは声にならない叫びを上げ、翼をバタつかせている。

『……もう、縫わないで……』

 どこからか、幾重にも重なった女性たちの声が聞こえた。

 佐倉さんの母、祖母、曾祖母。このヴェールを被って、完璧な妻を演じ続けてきた女たちの怨念に近い、重苦しい声。

『私たちは、この布に守られてきたんじゃない。この布に閉じ込められてきたのよ。悲しむことも、怒ることも、泣き叫ぶことも許されず、この綺麗な模様の裏側に、私たちの心は全て塗り込められた……。だから、もうこれ以上、私たちを繕わないで』

 灰色の霧が、私の足元まで迫ってくる。それは氷のように冷たく、触れた場所から感情が凍りついていくような感覚があった。

 私は影通しの針を握りしめた。

 確かに、彼女たちの言う通りかもしれない。このヴェールは、悲しみを消し去る魔法の布などではなく、感情を抑圧するための、美しくも残酷な牢獄だったのだ。

「でも――」

 私は迫りくる霧に向かって声を張り上げた。

「このまま裂けたままでいれば、あなたたちの記憶はただの壊れた思い出として消えてしまう。それはあまりに悲しすぎませんか?」

 霧の勢いが、一瞬だけ弱まった。

「私はあなたたちの悲しみを無かったことにするために来たんじゃない。その悲しみを、誰にも見られないように隠すためでもない。あなたたちが生きた証として、この模様の一部に新しく織り込みに来たんです」

 私は針を構え、生命の樹の亀裂に向かって一歩踏み出した。

 修復が始まった。それは、私の指先を通じた過去の魂たちとの対話だった。

 私はまず、自分のバッグからこの日のために用意しておいた特別な糸を取り出した。それは、私が各地を旅して集めた天然染料で染めた絹の糸だ。一色ではない。深い海の底のような「深藍ふかあい」、夕暮れの最後の一瞬を切り取ったような「黄昏茜たそがれあかね」、そして、夜明け前の静寂を宿した「銀鼠ぎんねず」。

 私は影通しの針に、まず銀鼠ぎんねずの糸を通した。

 生命の樹の亀裂に直接針を突き立てると、キャンバスを裂くような、鈍い音が意識の中に響く。抵抗は凄まじかった。布が意志を持っているかのように、私の針を押し返そうとする。

「隠さなくていい。その涙を、私に預けて」

 私は溢れ出す灰色の霧――歴代の女性たちが飲み込んできた涙を、針先で掬い取った。そして、それをそのままヴェールの地色に縫い込んでいく。

 一針縫うごとに、私の脳裏に強烈な感情が流れ込んでくる。

 夫に裏切られた夜の孤独。やりたかった夢を諦め、台所に立ち続けた日々の虚しさ。愛する子供にさえ、本当の自分を見せられないもどかしさ。

 それらの感情は、あまりに重く、毒のように私の指先を痺れさせた。だが、私は止めなかった。

 針を通す場所を、伝統的な更紗のルールから少しずつ外していく。左右対称であるはずの文様を崩し、灰色の糸で小さな波紋のような模様を描き加える。それは、静かな湖面に落ちた一滴の涙が、世界を揺らしていく様子をイメージしたものだった。

 次に、深藍ふかあいの糸に替える。

 生命の樹の枝で休んでいた鳥たちの瞳を、この色で刺し直す。今までの鳥たちは、無表情で、どこか作り物のようだったが、深い藍色の瞳を与えられた鳥たちは、まるで命を吹き込まれたかのように、鋭く、けれど慈しみ深い光を宿し始めた。

『視える……。世界が、こんなに鮮やかだったなんて』

 女性たちの声が、今度は驚きを含んで響いた。

 私は休むことなく、最後に黄昏茜たそがれあかねの糸を手に取った。裂け目の縁を無理に引き寄せて塞ぐのではなく、その裂け目自体を花の蕾へと作り替えていく。

 かつて無残な傷跡だった場所は、今や真っ赤な情熱の色を宿した、大輪の架空の花へと姿を変えようとしていた。それは、抑圧された感情が、ついに弾けて花開いた姿だった。


 気がつくと、周囲の灰色の霧は消え去っていた。

 極彩色に彩られた庭園は、以前のような不気味な鮮やかさではなく、どこか穏やかで、懐かしい夕暮れのような光に包まれていた。

 生命の樹は、新しい樹皮――私の縫い跡を纏い、堂々と根を張っている。

「これで……いいんですよね?」

 私は誰にともなく問いかけた。返事はなかったが、吹き抜けた風が、私の頬を優しく撫でたような気がした。

 意識が急速に引き戻される。

 作業灯の熱。藍の匂い。にれの木の感触。

 私は現実の工房に戻っていた。机の上には、更紗のヴェールが横たわっていた。裂け目は完全に塞がっている。だが、そこには以前のヴェールにはなかった、新しい風景が広がっていた。

 生命の樹の中央に、見たこともないほど力強く、美しい赤い花が咲き、その周囲を、憂いを含んだ瞳の鳥たちが守るように飛び交っている。

 私は全身から力が抜けるのを感じ、椅子に深く沈み込んだ。窓の外では、いつの間にか雨が上がり、雲の間から星が顔を覗かせていた。


 数日後。

 完成の連絡を受けた佐倉さんが、再び訪れた。彼女は包みから取り出されたヴェールを見た瞬間、あっと小さく声を上げ、その場に立ち尽くした。

「これが、あのヴェール……?」

 彼女は震える手で布に触れた。

「面影はありますが、以前よりもずっと……なんて言えばいいんでしょう。生きているみたいです。この赤い花、こんなの以前は無かったはずなのに」

「勝手な真似をしてすみません」

 私はお茶を出しながら静かに言った。

「裂け目を塞ぐだけでは、またいつか同じことが起きると思ったんです。だから、お母様やそれ以前の方たちが閉じ込めてきた想いを、新しい模様として外に引き出しました。この赤い花は、彼女たちの情熱や、言葉にできなかった想い、そして願いです」

 佐倉さんは食い入るようにその花を見つめた。やがて、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。それは悲しい涙ではなく、何かが解き放たれたような、清らかな涙だった。

「私……ずっと怖かったんです」

 彼女は声を震わせながら言った。

「母のように、私もいつか、本当の自分を殺して笑わなきゃいけない日が来るんじゃないかって。このヴェールを受け継ぐということは、その呪いも引き継ぐことだと思っていました。でも……」

 彼女は、新しく生まれ変わったヴェールをそっと自分の肩に掛けた。

「この布なら、大丈夫な気がします。悲しい時は、この鳥たちが代わりに悲しんでくれる。苦しい時は、この花が私の代わりに燃えてくれる。そう言ってくれている気がするんです」

 窓から差し込む午後の光が、ヴェールの文様を浮き上がらせる。

 佐倉さんの顔に、更紗の影が落ちた。それはもはや仮面ではなく、彼女の素顔をより美しく、気高く見せるための光彩オーラのように見えた。

「ありがとうございました。私、来月の結婚式で、胸を張ってこれを被ります。お母様にも、見せてあげたかった……」

 彼女は晴れやかな笑顔を残して、ビルを去っていった。彼女の足取りは、初めて会ったときとは見違えるほど軽く、力強かった。


 一人になった工房で、私は使い終わった影通しの針を丁寧に磨き、桐の箱に納めた。

 ――更紗。

 その語源には諸説あるが、私は祖父から聞いた話を信じている。


『更紗の更は「新しくする」という意味があり、紗は「薄い布」を指す。つまり更紗とは、古い記憶を新しい形へと織り直し、何度でも生まれ変わる布のことなんだよ』


 人は誰しも、自分だけの「ヴェール」を纏って生きている。それは自分を守るための鎧であり、時には他人の期待に応えるための仮面でもある。でも、その裏側にある悲しみや怒りを、すべて「悪」として切り捨てる必要はない。それらさえも模様の一部として受け入れることができた時、人の心は更紗のように、より深く、複雑で、美しいものになる。

 ふと、作業台の隅に、茜色の糸屑が落ちているのが見えた。それは、あのヴェールを修復した際に残った、新しい記憶の欠片だ。

 私はそれを指先で丸め、小さなガラス瓶に入れた。瓶の中には、今まで私が直してきた無数の布たちの記憶――糸屑たちが、万華鏡のように積み重なっている。


 壁の時計が、午後六時を告げた。

 私は工房の電気を消し、コートを羽織った。鉄の扉を閉める時、背後の暗闇から微かに鳥の羽ばたきが聞こえたような気がして、私は少しだけ微笑んだ。

 明日はどんな風が吹くだろう。どんな綻びを抱えた人が、この古びた扉を叩くだろうか。

 私は冷え始めた廊下を歩き出し、夜の街へと踏み出した。私の左手首には、あの日以来、一本の更紗の糸が結ばれている。それは、過去と未来を繋ぐ、細くとも決して切れることのない、記憶の導線だ。

 ――工房・水鏡。

 今夜も私は夢の中で、まだ見ぬ誰かの悲しみを、美しい文様へと変える準備をする。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

更紗のヴェール 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画