バラとアザミ

別れと再開




「乳の絞れない牛は飼えないのよ。」





いかにも農家らしい皮肉だ。


腹を立てても良かったのに、義母の放ったその皮肉のセンスに心を打たれた私は、何も言い返さないまま黙って顔を伏せた。






荷物は驚くほど少なかった。


化粧もオシャレもしなくなって数年経っていた私の手荷物は、旅行カバン一つに丸々収まってしまっていた。






実家へと向かう電車を待つ駅のホーム。


電話で離婚の事実を告げた私に、父は「そうか…」と力無く答えた。


「帰って来い」ではなかった。


娘が嫁ぎ先から追い出された現実が、ただただ悲しかったのだろう。




電車を待つ時間が永遠のように感じた。


足が重かった。


帰りたくなかった。


このまま時間が止まってくれればと思った。




どうせなら、もっと遠くに嫁げば良かった。


ここから7駅しか離れていない実家のある私の町は、父に顔を合わせる覚悟を決める時間を稼ぐには近過ぎた。




ふと、悪魔が私の手を引く。


ふらつく右足が白線を超えた時、駅員の笛の音が、私を現実に引き戻した。






「お世話になりました」と無表情のまま玄関で頭を下げた私に、旦那は見向きも返事もしなかった。


元々、跡継ぎ目当てのお見合い結婚だった。


子供が産めないと分かった私には、何の未練も愛着も無かったのだろう。




ドームの数で表すのがバカらしくなるほど広大な土地を持つ豪農だった。


真面目で暗く、愛想が悪い。


お見合いで感じた第一印象がそれだった。



そんな相手と結婚をしたのは、単純な理由だった。





適齢期を過ぎていた焦りと、お金という魔力。





悪魔の契約書に判を捺した私を、父は三つ指をついて送り出した。



妻を亡くして老い先短い自分と、未婚の娘。


父も焦っていたのだろう。





金持ちの家で遊びながら過ごす、なんて遥か遠い夢のまた夢だった。



私を待っていたのは、日の出前から始まる果てしない農作業だった。






花に米、野菜に鶏、牛に豚。



人間が育てられるあらゆるものを育てていた彼の家では、人間は単なる「労働力」だった。


朝も夜も無く、夏も冬も無く、ただひたすらに育て、ただひたすらに収穫する。




手荒れも肌荒れも気にならなくなった二度目の春、私は「不妊」という事実を知った。





隠す事は出来なかった。


出来るとも思えなかった。




旦那に話す勇気が出なかった私は、苦肉の策で義母に最初に事実を話した。





烈火の如く怒るかと思いきや、「そう…」と少し悲しそうにしていたのを覚えている。






私に自分を重ねたのかもしれない。






彼女は後妻だった。


旦那は彼女の子ではない。


彼女も子を産めなかった。






まだ体裁を気にする時勢の話だ。



病で妻を亡くした当主が、若いうちから未亡人では格好がつかないからと、まだ18だった義母とお見合いをし再婚した。



女に拒否権が無かった時代。


当時将来を誓い合った相手が居た義母は、涙を拭ってあの家に嫁いだ。



彼女は、強くなるしかなかった。





険しくも優しい目をした、厳しくも快活で賢い女性だった。






私があの家に嫁いでから一月も経たないうちに、一人娘で甘やかされて育った私の心はポキリと折れかけていた。


夜中にこっそりと寝室を抜け出し、逃げ出そうと玄関に向かった私を見つけた義母は、自室の障子の隙間からゆっくりと手招きをした。



夜逃げのような風体で、着の身着のまま逃げ出そうとする私を、彼女は責めなかった。



「私にも覚えがあるもの。」




義母は笑っていた。


義母が笑った顔を見たのは、その一回だけ。



あの一夜限りの義母との会話で彼女の過去を知り、私は強くなる覚悟を決めた。






思い出に浸っていると、唐突に電車が来た。



思い思いの方向に散って行く乗客達を座席から見送りながら、私はポケットの中に手を入れる。



ぐしゃりという紙の手触り。




玄関から出た私を追いかけて来た義母が、「達者に暮らしなさい」とひび割れて硬くなった手で私に握らせた茶封筒の存在を、今の今まですっかり忘れていた。




ゆっくりと中を覗くと、紙切れが一枚。



それは、聞いた事はあっても見た事など無かった「小切手」という代物だった。



手切れ金のつもりなのだろうか。



ただ、そこに書き込まれていたゼロの桁は、呆けた頭を叩き起こすには充分な数だった。






あれから5年が経つ。




女の独り身には有り余る資金を手に入れた私は、町の片隅で花屋を始めた。



あの家での生活に感謝しているのは、花が好きになれた事。




自分の手で育ててみるまでは、あんなに手間がかかる子達だとは知らなかった。


子供が産めない私には、その手間がなんだか愛おしかった。


 



知らない事の多かった私は、育て方から切り方まで義母に叩き込まれ、今では「町のお花屋さん」として暮らしている。





「バラとアザミの花束を作ってちょうだい。」




ガラスケースを拭いていた私の背後から、聞き慣れた声が飛び込んで来た。




「ほら、さっさとしなさいよ。客をいつまでも待たせるもんじゃないよ。」



相変わらずの勝気な喋り方。


元気そうでなによりだった。




何も聞かないまま淡々と作業をする私を見ながら、義母は安心したように言う。





「あの世間知らずが成長したのね。小切手にゼロを足しておいたのは正解だったかしら。」



 


私は目を丸くした。


やけに金額が多いと思っていたら、あれはこの人の仕業だったらしい。



 


自分と同じ立場で、同じ境遇にならなかった女に、せめてもの餞を。





彼女なりの別れの挨拶と、あの家への復讐だったのだろう。



案の定、銀行から大金が無くなった事に気付いた「元」旦那は大慌てで私を探そうとしたらしいが、義母の「およしなさい!みっともない!」の一喝で黙り込んだらしい。




豪気な人だ。


私も見習わなければいけない。




ラッピングの用紙の色を聞いた私に、義母は悪びれもせずに答える。



「墓前に供える花だもの。うんと派手にしてちょうだい。」




先日、あの家の当主が亡くなり、「元」旦那が家を継いだそうだ。



自分を縛る物が何も無くなった事を思い出した義母は、家の人間の静止も聞かず、荷物をまとめて家を飛び出していた。




なるほど。


この人らしい。



こんなトゲだらけの花束を亭主の墓前に供えるのは、この人なりの「離縁の証」なのだろう。





いくら血が繋がっていないとはいえ、実質的な支配者だった義母を失ったあの家の末路は、考えるまでも無いだろう。




「長かったけど、ようやく身軽になったわ。人手が要る時は言いなさい。」



義母はあの強い眼差しのまま、ゆっくりと微笑んだ。






ホテルで寝泊まりしているという義母を、私は無理矢理家に連れて帰った。





ぼんやりと競馬実況を見つめていた父は、義母の顔を見るなり、急にバタバタと茶棚を引っ掻き回し「コーヒーはお好きですか?」などと宣った。






「えぇ」と笑いながら答えた彼女の顔は、少し幼く見えた。




陽の光を受けながら、庭先でたんぽぽが綿毛を飛ばしていた。

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バラとアザミ @gin5656

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