生肉
塩見佯
第1話
ついにやっちゃったんですよ、と一ヶ月ぶりに合うH君が下ろしていた髪を上げると、側頭部に幾何学模様のタトゥーが刻まれていた。両耳のピアスもいくつか数が増えているようだった。
H君は美容師である。オーバーサイズの服でうまく隠してはいるが、ピアスやタトゥーが身体中至るところに入っている。職場ではファッションは自由なようだが、いまや日常生活に支障がないか心配になってしまう量になっていた。
「好きでやってるんである程度はね」
しょうがないっすよ、とH君は耳のピアスを弄びながら言った。
「それにどうしてもね、確かめたくなるっていうか」
どうもなにか理由があるらしく、気になった僕はH君に尋ねてみた。H君はしばらく悩んでいたが、信じてもらえないと思いますけど、と前置きをしつつ、ゆっくりと話しはじめた。
それはH君が九歳のころの話だという。
その日、放課後いつものように友達と公園で遊んでいるうちに夕方になり、スピーカーからかすれた「ゆうやけこやけ」が流れはじめた。それは町に午後六時を告げる音楽であり、子どもたちはこれが鳴ったら、すぐに解散して家に帰るのがルールだった。
名残惜しくはあったが、親に怒られるのは恐かったから、H君たちは解散してそれぞれの家に向かった。
家は公園から十五分ほどの距離である。走ればすぐにつける、はずだった。
「それがね、あの日はなんでか、帰れなかったんですよ」
生まれ育った町である。たいていのところは文字通り駆け回っていたから、道に迷うということはあり得ないはずだった。
この道を抜けて、左に曲がって、二つ先を右に──
いつもの道を、いつもの順序で進んでいたはずなのに、いつのまにか知らない場所にいたという。不思議に思いつつ、来た道を引き返したが、なぜか元の場所には戻れなかった。
とはいえ家の近所であることは間違いがなく、大したことではないだろうとたかをくくっていたH君だったが、何度やってみても家にはたどり着けなかった。
夕暮れの町を何度も、何度も、何度も走り回ったが、最後には決まって見知らぬ道路に出てしまう。その道は夕焼けに向かって真っ直ぐに延びていて終わりが見えなかった。両脇にはやけに古びた電柱が道なりに、どこまでもどこまでも真っ直ぐに並んでいた。
町には人の気配がなかった。車は一台も通らず、人通りの多い時間帯のはずが、人影ひとつ見かけなかったという。
気がつけば太陽はずいぶん沈んで、空も町も真っ赤に染まっていた。まるで血が滲んでいるようだった。
どこからかカレーのいい香りが漂ってくる。もう大分長いこと歩き回っていたH君は、空腹を覚えると同時に、強烈な恐怖に襲われてしまった。
「あれ、俺、もう帰れないんじゃないかって、そこで」
まだ子供だったH君は泣いてしまった。生まれて初めて「死」を身近に感じた瞬間だった。
その時だった。
「道の向こうのほうでなんか動いたんですよ」
H君は泣くのをやめ、えずきながらも目を凝らした。逆光でよく見えなかったが、自分と同じくらいの大きさのものがゆっくりとこちらに近づいてくる。
H君もその影に向かって歩き出した。不安はあったが、人だろうと獣だろうと、この際動くものなら確かめずにはいられなかったのだ。
だが、距離が近づき影の姿が明らかになったとき、H君は驚愕した。
「小便ちびらなかったのを褒めてほしいくらいですよ」
H君は苦笑した。
「肉の塊、だったんですよ、そいつ」
H君と同じくらいの大きさの肉の塊がぬらぬらと揺れながら動いていた。ピンクがかったつやつやとした赤い肉がそそり立ち収縮を繰り返している。脂肪なのか、ところどころに白い部分があり、青黒い血管もぷくぷくと蠢いている。汗なのか何かの汁なのか、白濁した液体が全身から染みだし、後方に跡が長く長く延びて夕陽に光っていた。
化け物だ、とH君は思った。あれは出会ってはいけないものだ。
あんなものが、生きている肉の塊が、まっとうなものであるはずがなかった。
本能的な恐怖に従って、H君は肉塊に背を向けてふたたび走り出した。
「捕まったら絶対マズいって思いました。ぜってえヤベぇことになるって」
それに、とH君は言葉を区切った。
「俺にはあれが肉に見えなかったんですよね」
説明が難しいんですが、とH君は言葉を濁した。間違いなく、眼前には気味の悪い肉の塊が、夕焼けのなかにそそり立っている。だが同時に、どうしても、H君にはそれが、違うものに見えてしまったのだった。
「……俺には、それが、両手を広げて走ってくる人間のこどもに見えました」
H君は全力で走った。
血が滲んだような夕焼けの町を、五分か、十分か、息が上がり、耳が痛くなっても走り続けた。目的地などなく、ただあの肉から離れるためだけに走った。走って、走って、もうどうしても足が動かない、そこまで走って、ようやく後ろを振り返った。
目の前に肉の塊がいた。
H君は気を失った。
「で、気がついたら家にいて家族とメシ食ってたんですよね」
H君は笑った。
夕飯のおかずは肉じゃがだったそうだ。
「そこはカレーじゃねぇのかよ、とは思いましたね」
食事中に急に様子がおかしくなった息子を心配する母親に、H君は先程までの体験を説明したが、当然信じてはもらえなかった。
母親が言うには、H君は普通に六時半には帰宅しており、風呂も済ませたということだった。H君はそれ以上なにも言えなかった。以降、今に至るまであの肉の塊も、変わった夕焼けの町も見てはいない。
「結局、あれはなんだったんですかね?」
なにか理由があるのか、意味はなくたまたまなのか。あの夕焼けの町と肉塊がいったい何なのか。どれだけ考えても答えは出るはずもなく、ずっと心のどこかが宙ぶらりんのままなのだとH君は言った。
ちょっとした疑問から、予想外にいい話を聞けて僕としてはありがたくはあった。だが、H君がピアスや刺青を増やし続けている理由はわからないままである。
僕が改めてそのことを聞いてみると、H君は長い長いため息と沈黙の後、絞り出すように語りはじめた。
「俺にはあの肉が人間のこどもに見えたって言ったじゃないですか」
最後に追い付かれたとき、血まみれのような夕焼けのなかでH君はその肉の、そのこどもの顔を、はっきりと見てしまったのだという。
「…………俺だったんですよ」
H君にそっくりの、いや、H君そのものが、そこにいた。
「俺、すげー楽しそうに笑ってやがったんですよね」
H君はピアスをしきりに弄んでいる。その手首には文字のような傷が幾重にも刻まれていた。
「だから、ときどきどうしても確かめたくなっちゃうんですよね。俺、俺は、ほんとうに俺、なのかなって」
そして、その時にもし血ではなく、あのてらてらと白濁した液体が出てきたら、
「俺は、どうなっちゃうんでしょうね?」
そう、H君は言った。
生肉 塩見佯 @genyoutei
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