天墜の境界 ――その踏切を渡る時、あなたは「誰」を捨てますか?

ソコニ

第1話 天墜の境界 ――その踏切を渡る時、あなたは「誰」を捨てますか?

第一章 限界

 午前二時。

 誠二は軽自動車の助手席に母を押し込んだ。母は抵抗した。老いた細い腕で誠二の顔を引っ掻き、「泥棒! 誰だお前は! 私の息子はこんな顔じゃない!」と叫んだ。

 五年前から、毎晩同じ言葉だった。

 誠二は母の細い手首を掴み、シートベルトを締めた。母の爪は誠二の頬に三本の赤い線を引いていた。痛みは感じなかった。もう何も感じなかった。

「母さん、ドライブに行こう」

 誠二は言った。母は答えなかった。窓の外を見て、誰かを探すように首を振り続けていた。

 エンジンをかける。アパートの駐車場を出る。深夜の国道を北へ向かう。カーナビは消してあった。行き先は決まっている。

 二週間前、誠二はネットの掲示板で「その場所」のことを知った。

 書き込みは簡潔だった。

『岬の廃駅に、どこにも通じない踏切がある。深夜二時、遮断機が降りる。渡れば、過去の最も幸せな日へ堕ちることができる』

 最初は馬鹿げていると思った。オカルトだ。嘘だ。

 でも、その晩も母は叫んだ。「お前は私の息子を殺した! 返せ! 誠二を返せ!」

 誠二は母の叫び声を聞きながら、スマートフォンで地図を検索した。岬の廃駅。確かにあった。

 会社は三ヶ月前に辞めた。貯金は底をついた。デイサービスの職員から電話があった。「お母様の症状が進行しています。施設への入所を検討されてはいかがですか」

 検討した。見学にも行った。待機者リストに名前を書いた。順番が回ってくるのは二年後だと言われた。

 二年。

 その日数を数えた時、誠二の中で何かが音を立てて壊れた。

 海岸線の道路は暗かった。対向車はない。月明かりだけが、波打ち際を照らしていた。

 母は眠っていた。穏やかな寝息を立てていた。誠二は母の横顔を見た。

 この顔を、誠二は愛していた。

 この顔を、誠二は憎んでいた。

 両方とも本当だった。それが一番辛かった。

第二章 踏切

 午前一時四十五分。

 廃駅は本当にあった。

 草に覆われたホーム。錆びた駅名標。そして、崖の縁に立つ踏切。

 線路は踏切の先で途切れていた。その先には何もない。ただ、夜の海が広がっているだけだった。

 誠二は車を降りた。後部座席からドライブレコーダーを取り出し、三脚に固定した。記録を残そうと思った。なぜかはわからなかった。

 母を起こす。母は混乱していた。「ここはどこ? 誠二は? 誠二はどこにいるの?」

「ここだよ、母さん。俺がここにいる」

「嘘つき! お前は泥棒だ! 私の息子を返せ!」

 誠二は母を背負った。軽かった。骨と皮だけになった母は、昔の半分の重さしかなかった。

 踏切へ向かう。午前一時五十八分。

 誠二は踏切の前に立った。遮断機は上がっていた。警報機は沈黙していた。

 嘘だったのかもしれない、と思った。

 でも、午前二時ちょうど。

 それは鳴った。

 カンカンカンカンカン――

 警報機の音が夜を裂いた。遮断機がゆっくりと降りてくる。

 誠二の心臓が激しく打った。

 本当だったのだ。

 母が誠二の背中で動いた。「誠二……? 誠二なの……?」

 初めて、母が正しい名前で誠二を呼んだ。

 涙が溢れた。止まらなかった。

「ごめん、母さん。ごめん」

 誠二は遮断機を潜った。一歩、踏み出す。

 その瞬間、世界が変わった。

第三章 境界

 夜空が歪んだ。

 星が消え、代わりに何かが降ってきた。

 菜の花だった。

 誠二が子供の頃、実家の庭に咲いていた満開の菜の花が、夜空から雪のように降り注いでいた。黄色い花びらが誠二の頬に触れ、溶けるように消えていく。

 足元を見る。線路が逆さまになっていた。上下が入れ替わり、崖の下から「上」へ向かって線路が伸びている。

 海の底から、声が聞こえてくる。

『お母さん、見て! 菜の花がいっぱい咲いてる!』

 幼い頃の自分の声だった。

 誠二は足を進めた。二歩、三歩。踏切の中央へ。

 重力が消えた。

 背中の母が、ふっと軽くなった。いや、重さがなくなった。

 振り返る。

 そこにいたのは、認知症の母ではなかった。

 三十年前の、若く聡明な母が、微笑んでいた。

「誠二」

 母は誠二の頬に手を伸ばした。温かい手だった。

「泣かないで。大丈夫よ」

 誠二は声を出せなかった。ただ泣いた。嗚咽が止まらなかった。

「母さん……母さん……」

「ありがとう、誠二。今まで本当にありがとう」

 母は誠二を抱きしめた。菜の花の香りがした。

「でもね、誠二」

 母は空を指差した。踏切の向こう側、逆さまの夜空を。

「あんたがあそこに行くには、重荷を一つ、この踏切に置いていかなきゃいけないの」

「重荷……?」

「自分を最も愛してくれた人の記憶。それを捨てていくの」

 誠二は理解した。

 この踏切は、救済の場所ではなかった。

 選択の場所だった。

第四章 呪い

 警報機の音が変わっていた。

 カンカンカンという機械音ではなく、心臓の鼓動のような、低く重い音になっていた。

「母さん、これは……」

 母は悲しそうに微笑んだ。

「この踏切はね、誠二。昔、戦争の時に使われていた場所なの」

 母は踏切の下を指差した。

「苦しんでいる人を、愛する人が楽にしてあげた場所。愛ゆえに、殺した場所」

 誠二の背筋が凍った。

「じゃあ、この警報機が鳴ったってことは……」

「そう。あんたの中に、私を殺したいという気持ちがあるってこと」

 母は優しく言った。非難する様子はなかった。

「違う! 俺は母さんを……!」

 その瞬間、警報機の音が大きくなった。耳を塞ぎたくなるほどの音量で。

「嘘をつかないで、誠二」

 母は誠二の手を取った。

「愛しているから、殺したいと思うの。それは悪いことじゃないわ。人間だもの」

 誠二は膝をついた。涙が止まらなかった。

「ごめん……ごめんなさい……」

 母は誠二の頭を撫でた。

「でもね、誠二。神様はね、耐えられない苦しみは与えない。その代わり、耐えられないほど綺麗な出口を用意してくれるのよ」

 母は再び空を指差した。菜の花が降り注ぐ、逆さまの世界を。

「あそこに行けば、あんたは楽になれる。幸せだった頃に戻れる」

「でも……母さんは……」

「私は行けないの。あんただけ」

 母の姿が揺らいだ。若く美しい母の姿が、一瞬、あの認知症の母の姿に変わった。

「お前は誰だ! 泥棒!」

 そしてまた、優しい母に戻る。

 点滅するように、二つの母が交互に現れる。

 誠二は気づいた。

 母が若返るたびに、自分の記憶が薄れていく。

 目の前の女性が誰なのか、わからなくなっていく。

 美しい。優しい。でも、誰?

 これが、代償だった。

第五章 選択

「さあ、誠二」

 母が手を差し出した。

「私の記憶を置いていきなさい。そうすれば、あんたは自由になれる」

 空が光っていた。菜の花が踊っていた。

 その向こうに、幸せな日々が見えた。

 庭で遊ぶ幼い自分。笑っている母。温かい食卓。何もかもが完璧だった頃。

 手を伸ばせば、届く。

 母の記憶を捨てれば、救われる。

 誠二は母を見た。

 若く美しい母が、微笑んでいた。

 でも、次の瞬間、その姿は老いた母に変わった。

 混乱した目で誠二を見る母。「誰……? あんた、誰……?」

 そしてまた、優しい母に戻る。

 点滅。

 点滅。

 誠二は笑った。

「母さん」

 誠二は母を抱きしめた。

「俺、母さんを助けに来たんだと思ってた」

 涙が頬を伝った。

「母さんを殺しに来たのに、なんで母さんに助けられてるんだよ……!」

 母は何も言わなかった。ただ誠二を抱きしめていた。

「この踏切は、人を捨てる場所じゃない」

 誠二は呟いた。

「自分の地獄を置いていく場所だ」

 そして、誠二は選んだ。

 母の記憶を捨てて、一人で光の中へ行くことも。

 母を抱いて、現実の崖へ墜ちることも。

 どちらも選べた。

 でも、誠二が選んだのは――

エピローグ

 翌朝、岬には誰もいなかった。

 軽自動車が一台、駐車場に停まっていた。エンジンは切れていた。

 踏切の遮断機は降りたまま、空に向かって伸びていた。

 警報機は沈黙していた。

 後部座席に置かれたドライブレコーダーは、まだ回っていた。

 映像には、深夜二時からの記録が残されていた。

 老いた母を力ずくで車から引きずり出す男。

 抵抗する母を背負い、踏切へ向かう男。

 警報機が鳴る。遮断機が降りる。

 男は踏切を渡る。

 そして――

 映像は、そこで途切れていた。

 いや、正確には途切れていなかった。

 最後の数秒間。

 男は母を抱きかかえたまま、踏切の向こう側へ一歩を踏み出していた。

 無表情に。

 しかし、涙を流しながら。

 崖の向こうへ。

 いや――

 映像を逆再生すると、それは違って見えた。

 男と母は、墜ちているのではなかった。

 菜の花が降り注ぐ、逆さまの空へ。

 飛んでいた。

 その日、地元の新聞には小さな記事が載った。

『岬の廃駅付近で、親子と思われる二名が行方不明。警察は崖からの転落事故の可能性も含め捜索中』

 遺体は見つからなかった。

 ただ、踏切の線路の上に、一輪の菜の花が残されていた。

 この季節には咲かないはずの、満開の菜の花が。

(了)

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