山呼

壱原 一

 

昼下がりのさびれた山へ着く。


路肩に車を停め、降りて道端で斜面を見下ろす。


爪先をやぶに洗われ、頭上まで木々に覆われる。


ぞぞぞ、ごうごうと微かにうねる樹海の波音を聞きながら、一閃、平らにぐ気合で、鋭く確然と妻を呼ぶ。


呼声こせい隠々いんいんと反響し、深い山間やまあいへ溶けて消える。


余韻が絶えて暫ししたら、再び大きく息を吸う。


足を踏ん張り、腰を落とし、丹田たんでんを固く力ませて、山肌を吹き下ろす風ならんと、全霊で妻の名を呼ばわる。


この山の何処どこかで眠る筈の、妻に呼び掛けて招き寄せる。


普段通りに見えた姿を、普段通りに見送った、後悔に焼かれ続けている。


むくろは連れ戻せなくとも、魂は必ず呼び戻す。


こんな寂しい山の中へ、決して放って置きはしない。


*


2度目の声も消え入って、我知らず両のまぶたを閉じる。


淡い闇に閉ざされた周りを、はらはら、さわさわ、かさこそと、幾重も葉擦れの音が囲う。


遥か底の暗黒に横たわる妻の姿を思い描く。


仰向けで、首は横へ倒れ、利き手は横へ伸べられて、もう片手は腹に乗っている。


静かに止まる死の床へ、妻を呼ぶ己の声が届き、腹に乗った手の指先が動く。


瞼が痙攣して、開き、忙しく辺りを探って、上体を起こして耳を澄まし、方角を見定めて立ち上がる。


そしてにわかに走り出す。


髪の一筋まで思い描いて、目を見張り、3度目を呼ばわる。


妻が走る先へ回り込み、両腕を広げて待ち受けて、強く抱き留める意志を込めて、妻の魂を呼び寄せる。


1*の男と情死なんて、どれほど恥を掻いた事か。


絶対に其処そこから呼び戻す。


*


3度目の声も消え入ると、程なく、ぽっと声が返る。


遠大に波打つ樹海の、無数の波間の1つから、太くひび割れた絶叫が、猛り狂って長々と続く。


こずえに隠された山肌を、凄まじい速さで縫うように、ほんの少しずつ迫っている。


それもやがて山間に溶けて、後には年次の山呼さんこを済ませ沈静した山が佇む。


今年も妻の声を聞き遂げて、堪らず頬をりながら、振り返りって車へ乗り込む。


この頃だいぶ近くなった。


もうぐ引き寄せられるだろう。


草臥くたびれた愛車を励まして、昼下がりの寂れた山を下る。



終.

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山呼 壱原 一 @Hajime1HARA

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