空を仰ぐ

田んぼ

髙山 望 容疑者(25)



 人を殺した日の空は、拍子抜けするほど青かった。



 頬に散った、そいつの血が生ぬるい。オーバーサイズの黒いパーカーの裾で拭うと、粘着質な感触が広がった。気持ち悪い。


 頬もそうだけど、服の腹のあたりも、包丁を握る手も、靴も地面もみんな赤く汚れていて、嫌気がさす。この惨状を掃除させられる人間がいるとしたら不憫に思うくらい、汚らしい場所に様変わりしてしまった。


 もともと、立ち並ぶ居酒屋たちの陰になっているこの裏路地は、ゴミやら鳥のフンやらで、お世辞にもキレイと言える状態ではなかったけれど。


 狭い路地に充満する鉄の臭いが、ツンと鼻をさした。


 見下ろす先にいるのは、髪をピンクだか紫だかよく分からん色に染めた男。

 数分前まで生きていたその男は、ガラの悪いスカジャンを赤々と濡らして、壁に背をもたれて座り込んでいる。


 この辺りをうろつくチンピラが、長年の間血眼になって捜していたこいつだと分かったときの高揚といえば、計り知れなかった。


 こいつのよく行くらしい居酒屋を突き止めて、情報を集めて、殺す機会を伺うこと半年。

 ついに俺は、毎日通る裏路地にのこのこと現れたこいつを、背後から急襲することに成功したのだ。


 肉を穿った感触が、まだ手のひらに残るようで、震える拳を握り込む。


 ずっとずっと、憎んできた奴だった。

 俺の親友を憂さ晴らしのためのおもちゃみたいに扱って、ぶっ壊して、自殺に追い込んだ挙げ句、自分は何も関係がないとシラをきって、教師らの追及を逃れた奴だった。


 その時はあまりのショックに転校を決断し、しばらく離れて生活をしていたものだけれど。


 高校を卒業してからは、復讐のために奔走した。


 俺のただ一人の親友をこの世から奪った奴が、今日も馬鹿みたいな面して笑ってるんだと思うと、地獄に落としてやりたくて仕方なかった。


 それが、どうだろう。

 俺の手中に残るのは、目に痛いくらいの赤色と、ぬらりと照る包丁だけ。


 いざ本懐を遂げた俺といえば、歓喜に涙を流すでも、罪悪感に潰れるでもなく、ただ呆気なかったと、死骸の前に立つだけだった。


 どれだけ準備期間が長くとも、実行してしまえばなんのことはない。

 包丁の刃先を横に倒して、腹を滅多刺しにすれば、人は死ぬのだ。


 学生の時はこの男が化け物の類に見えていたことを、懐かしく思う。


 空を見上げたのは、親友を想ったからだ。


 親友を救えなかった自分を許してほしいわけでも、殺人を犯した自分を親友に見てほしいわけでもなかった。

 親友がいつか、空を飛んでみたいだなんて冗談っぽく言っていたのを、思い出しただけだった。


 いま俺が見上げる空なんて、建物と電柱に切り取られた、ごく小さなものだけれど。

 本当の空は、もっとずっと、広いはずだ。


 死後の世界があるなら、親友が空を飛べているといい。

 頭の上に輪っかを浮かべたり、背中から羽を生やしたり、もしくは三角巾みたいな布を額にまいたりなんて、しなくてもいいから。

 ピーターパンみたいに、自由に青空を飛べていたらいい。


 パトカーのサイレンが、だんだんと大きく聞こえる。

 さっきこちらを覗いてから引きつった声をあげた女が、警察に通報したのだろう。


 俺は血に塗れた包丁を持ったまま、その場にしゃがみ込んだ。踏まれた血溜まりが、ぺちゃりと音を立てる。


 そのま目を閉じれば、親友の笑顔が浮かび上がる気がした。

 遠い日の記憶だった。


『お前は、やってみたい事とか無いの?』

『俺? 俺かぁ』


 学校の屋上に、よく二人で行った。

 治安の良い学校じゃなかったから、屋上なんていつでも解放されていた。

 風を受けながら空を見上げて、とりとめのない話をしていたあの時が、思えば一番楽しかった。


 三ヶ月後に親友がそこから飛び降りるとも知らずに、俺は呑気に笑っていた。


『大人になったら、お前と一緒に酒飲みてぇな』


 なんだそれ、と吹き出した親友は、あの時はまだ、大人になるまで生きるつもりがあったのだろうか。


 初めて飲んだビールはまずかった。

 まずかったくせに、缶を二本飲んだ。

 タバコも女も人並みに楽しんだけど、心はちっとも満たされなかった。

 ずっと、空っぽだった。


 知らない男の声が聞こえる。

 近づいてくる足音は、正義感にあふれていた。


「一月十八日、午後四時十四分、殺人の現行犯で逮捕する」


 手首に掛けられた鎖が冷たい。

 ぬるかった頬の血も乾き始めていた、冬の、空。


 今日は親友の命日だ。

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