第9話
湿った落ち葉と土のにおいがする。朝の山のにおいに似ている。
それは姥捨照の自殺山のものではなく、開多の目の前には、坑道の内部だというのに外の光を帯びた空間が広がっていた。
巨大な大樹の幹と、地面から突き出し曲がりくねる太い根っこ。樹冠の天辺の葉の隙間から差す日光のような光。透けた黄色と黄緑の葉の裏。黄緑色の芝生。川底が見えるほど透き通った沢の水面が、日差しを反射しきらめいている。
沢にエルフたちの姿があった。水遊びをしている。エルフたちの周囲を、見たことのない小さな生き物が飛び交っている。手の平に収まりそうなくらいの生き物だ。小さい、ということを除けば、姿は人と違いがない。
芝のあちこちに白い丸テーブルがあり、ご馳走が並んでいた。開多はシャンパングラスを片手に、なんの果物なのかわからない果実酒を一口含む。
「おじさん、蓋ノ人?」
声に振り返ると、誰もいなかった。
「そっちじゃないよ、こっちだよ」
鼻先に小さな生き物が飛んでいた。開多のびっくりして仰け反る姿を見て、小さな生き物が腹を抱えて笑った。
「どうして、俺が蓋ノ人だと?」
虫のような筋の入った羽が四枚、背中で羽ばたいている。光沢を帯びている。黄金虫の表面のように、角度によって色が変わった。
「においでわかる」
開多は呆気に取られたまま頷く。
「君は?」
「君、じゃないよ、フェイだよ」
「フェイ?」
「耳絶ちを見せてよ」
「俺は……使えないんだ、耳絶ちが」
「あれ、蓋ノ人じゃないの? ウォールハーデンの人?」
「いや、蓋ノ人であってるよ」
「じゃあなんで使えないの?」
「芽吹かなかったんだ。蓋魔だから」
「フタマ? なにそれ? あ、じゃあ〈リトルバース〉でもいいよ」
「リトルバース?」
フェイが手巻きした。
なんの疑いもなく誘導された芝の先に、大きな湖が見えた。
湖畔にエルフたちの姿があった。険しい表情で湖を睨み、湖にむかって片手をかざしている。
一人のエルフが手から何かを放った。見えない何かが水の上を直進しているのが開多にはわかった。それを避けるように、左右に水面が波打っている。何かが宙を駆け抜けた。
「ねえ、やって見せてよ」
「あれが、リトルバース?」
耳絶ちに似ているかもしれない、と開多は思った。
「そうだよ? ねえ、見せてよ。蓋ノ人のが見たいんだ」
フェイが開多の頭の上を悪戯のように飛びまわった。
「できないんだって」
「リトルバースも?」
「うん」
「つまんないぃ!」
足をばたつかせ、宙で駄々をこね始めた。
「そのくらいにしなさい」
こちらに近づいてくる沙汰彦の姿が見えた。
「他のフェイが探していたよ」
それを聞いてフェイは思い出したように、何かの遊びの最中だったと言って、一目散に飛んでいった。
「すまないね。ただ無邪気なだけなんだ」
開多は湖畔のエルフたちに目を奪われていた。手の平から放たれるそれに。
「リトルバースの練習だ」
開多の視線の先を追ってから、沙汰彦は言った。
「耳絶ちみたいですね」
と口走ってすぐに開多は口を押える。
「そう思うか」
「いえ、その……」
力には信仰がつきものだということを、開多は思い出した。蓋ノ人も耳絶ちを教典と一緒くたにされることを嫌う。
「ここへ訪れた蓋ノ人は、大抵そのように言う」
「蓋ノ人が来るんですか?」
「時々ね。リトルバースは耳絶ちに似ている。圧縮した空気の噴射や爆発を利用して、推進力を得た空気の塊を飛ばしているんだよ。耳絶ちは風そのものを操るが、結局はどちらも同じことだ。あそこにいるのは、最近フェイからエルフになったばかりの子らだよ」
「フェイからエルフに? フェイというのは、さっきの子の名前じゃないんですか?」
沙汰彦が人差し指をぴんと立て、宙を指した。上空に人の形の小さな生き物が飛び交っている。背中の羽が反射して、虹の輝きを放っている。
「一三の年に我々は成人化し、今の姿になる。羽を失う代わりに、リトルバースを授かるんだ」
「蓋ノ人も、一三歳で耳絶ちが使えるようになるんです」
「似ているだろ、我々は」
まるで最初から知っていたような口ぶりに思えた。沙汰彦は、やわらかい笑みを浮かべながら、離れていくフェイの後ろ姿を愛おしそうに見つめた。
「あの子にはまだ名はない。湖畔の彼らは先日一三歳になったばかりだ」
「蓋ノ人みたいですね」
「君たちも、一三歳で耳絶ちを授かるんだろ。昔は六歳で使えたらしいが。発現のタイミングはエルフも蓋ノ人も年々おそくなっている」
「俺の生まれた土地では、耳絶ちが芽吹くまで名が与えられないんです」
「ハルタくんは蓋魔だったね」
「はい。だから開多というのは名前ではなく、苗字なんです。俺に名前はありません」
湖畔を離れ、エルフと学徒たちで賑わうパーティー会場へ二人は戻った。
「ここは外なんですか」
「坑道の中さ。〈菩提樹ミナ〉が光を放っているんだ」
ひときわ巨大な樹木がそびえ立っている。樹冠には淡黄色と黄緑色が重なって見え、真下に散った落ち葉が芝を淡い黄色に彩っている。
「この部屋が甘い香りで満たされているのも、あの樹のおかげだ」
「菩提樹って、確か〈浮遊城〉に出てくる」
「〈浮遊城〉を知っているのか」
友心を思い出した。脳裏に立ち込める暗雲を開多は振り払う。
「あれはヘクター・ヴァッケンの
「ヘクター・ヴァッケン?」
「〈浮遊〉の原本、──その著者だ」
「……原本?」
「浮遊する大地に何もないではつまらないからと、翻訳者が城を生やしたらしい。それがそのまま広まってしまったんだよ。本物には城もなければ、題名すらない。流通版は翻訳者の創作と言っていい」
開多は〈浮遊城〉の内容を思い出し、話を要約しながら、
「──
「私も子供のころに憧れた。アルカは、浮遊城はどこにあるのか」
「この世界の名前もアルカですよね?」
「古い本だからね。おそらく〈浮遊城〉から取って付けたのだろう。翻訳者のミスが、そんなところにまで影響してしまった」
「原本とどこが違うんですか?」
「倒せなかったのよ」
女性が沙汰彦の隣に寄り添った。円卓で会談した際に、沙汰彦の隣に座っていた女性だった。
「妻のフィーナディーアだ」
開多は簡単に会釈し、
「倒せなかった?」
「四大英雄は、開闢王を倒せなかった。うち二人が足止めをし、ヘクターとグルーシェニカを逃がした。二人は民を引き連れ、滅びゆく世界を去り、浮遊する大地を目指した。これが原本の内容よ。世界は救われていないし、開闢王と残された二人の英雄がどうなったのかはわからない」
「きっと叢書のどこかに続きがあるのだろうと、人間愛護保管協会を筆頭に、学徒たちが続きを探している」
開多のひそめ顔が元に戻り、
「あの、原本はここにあるんですか?」
「いや、随分むかしに協会へ寄付した」
「
沙汰彦は頷き、
「その方がいいだろうと思ってね。その後、東陸の大書庫へ移送されたそうだ。それっきりだよ。読んでみたくなったか?」
「少しだけ」
友心が生きていたら、きっと読みたいといったはずだろう。夢のある物語でないにしても。
「開多くんは、教典は好きかしら?」
フィーナディーアが訊いた。
「教典ですか? 最近しったばかりで、なんて言ったらいいのか、あまり詳しくは知らないんです」
「ヘクターの叢書から生まれたのが、のちの教典よ。彼はすべての教典の生みの親と言っていいわ。いわば教典そのものの著者ね」
開多は恥ずかしそうにうなじの辺りをさすりながら、
「本は、その……あまり好きじゃないんです。〈浮遊城〉は、幼馴染が好きだったから読んだだけで」
「それは残念ね」
「楯蓋と教典、そして局地樹に菩提樹、これらはすべて繋がっているわ。ウォールハーデン島に学府があり、世界から学徒が集まるのは、かつて島の西側に局地樹があったからよ。だからこそ、蓋ノ国との協定を簡単に切り捨てることはできない」
「焚豊もいずれ理解してくれるだろう」
二人は同じ表情だった。やわらかで、思い悩んでいる。
芝を踏みしめる音がした。「焚豊?」と沙汰彦が開多の後方へ目をやる。開多は振り返る。
一礼する焚豊の姿が、少し距離を置いたところにあった。立ち止まっている。
「ん、どうした?」
焚豊の口元がもごもごと動くのが見えた。沙汰彦は疑問を浮かべ、「ん?」と訊き返す。
「申し訳ございません」
あとくされのない、澄んだ声だった。
焚豊が何か放り投げた。宙を放物線を描くようにこちらへ飛んでくるそれを、開多は無意識に目で追う。卵? 形は卵。透明で、中が透けている。何かの液体が中で波打っているのが見える。
瞬間、視界が真っ白になった。
耳鳴り。その耳鳴りが、爆発だと思うころ、視界は白からオレンジ、赤、黄色、白が混ざり、曲がりくねった流体のように変わる。熱を感じた。熱が上がる。熱い。火だ。熱い。
沙汰彦とフィーナディーアへ炎が多い被さる。反射的に開く目と口。のけぞる直前の首。引き攣る直前の表情と皺。
引火した。開多のガウンの裾を火が走る。
くねる炎。発光と熱。爆発。
菩提樹の幹の辺りで巨大な爆発が起こった。ラフレシアが咲いたような爆発。けたたましい光に呑まれ、芝の広範囲にあった賑わいが静止する。坑道が揺れる。静止の奥の耳鳴り。
耳鳴りが収束していくと、囁き声のような悲鳴が聞こえてくる。悲鳴が大きくなっていく。
逃げ惑うエルフ。菩提樹から離れるよう避難を扇ぐエルフ。菩提樹付近の沢に固まり、呆気に取られるエルフやリトルフェイ。
戸惑い顔で、慌てながら、坑道から出ることだけを考えた逃走する群れがやってくる。炎と爆炎を背景に、土埃が舞う。
すべって転んだ者もろとも芝を踏みしめた。初めは気づいた者から避けるのだが、後続の者から踏んでいく。何度も踏まれる。踏み外して転倒した者から芝の一部になる。踏まれる。
芝の上で体をくねらせる開多、沙汰彦、フィーナディーアに大群が到達すると、彼らも芝も一部になった。踏み潰された。仰向けやうつ伏せの三人の腹や顔を、成人したエルフたちは構わず踏みつけていった。呻き声は、我先に逃げる者たちの喧噪にかき消された。
焚豊は観察するように、注意深く開多の様子を凝視し続けていた。
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