第7話
板張りの天井が見えた。寝返りを打つと鼓動が上がる。隣の敷き布団で寝ていたはずの、ちえの姿がない。
掛け布団を払いのけ、急いで起きた開多は部屋を飛び出した。階段を駆け下り、玄関前まで来ると居間の方から話し声が聞こえた。ちえの声ともう一つはミサキのものだとわかった。安心してため息がもれ、居間の引き戸を開けた。
「おはようございます。早いですね」
二人は食卓を囲み朝食を取っていた。ミサキは愛想よく、おはよう、と返した。
「あんたの分もあるよ。レアから三食しっかり食べさせるよう言づて貰ってるからね」
「すみません、朝は食べないんです。吐いちゃうので」
「なにかの病気かい?」
「いえ、習慣で」
地下墓地は早朝から潜ることが多かった。寝起きに胃へ何か入れてしまうと、地下の悪臭で道中に吐いてしまうから、そのうち朝食は抜くようになっていった。
「あの、俺ちょっと換金所に用があるので、ちえを見ていてもらえませんか」
「いいよ、行ってきな」
部屋へリュックを取りに戻り、開多は民宿を出た。
ウォールハーデンは南北東西と綺麗に四つの区域に分かれている。民宿があるのは北東。換金所も同じ区域内にあった。
中央から少し北に上がると、この町で最も標高の高い学府が町を見下ろすようにそびえ立っている。路地を歩きながら、開多はその姿をちらっと見た。
ウォールハーデンは初めてではない。何度も出入りしている。
手押し車を地下墓地から地上へ運ぶと、皮と山羊の頭を他の潜りへ預け、大瓶だけを載せた手押し車を曳いてエルフブリッジを渡る。地下墓地への入り口となる地上の遺跡は、市街地のただ中にあり、治安維持衛生局も巡回しているので警戒すべきことは多い。大抵の潜りはここで見つかり、リバーゲート行きとなる。蓋ノ騎士が交代制で地下墓地を巡回することを潜りたちは知っていて、開多のような古参は巡回のある曜日と、曜日によって異なる巡回の時間、巡回経路を把握している。蓋ノ騎士は基本的に、市街地には姿を見せない。エルフブリッジの西詰から広がる荒原を抜けてウォールハーデンへ行き、町の仲介業者にヘルデの血を買い取ってもらう。現金を受け取ると空き瓶を荷台に載せられるだけ受け取り、また手押し車を曳いて町を出る。ダックリバーへ戻ると、同行者たちと山羊汁を食べながら皮と血の売値を分配する。開多の取り分は他の潜りよりも少ない。ヘルデとの戦闘に直接参加しておらず、死亡するリスクが少ないからだ。
という工程を約一〇年間、同行者をとっかえひっかえしながら繰り返してきた。耳絶ちは使えないが足はいいことから、そのうち〈蓋魔の瓶夫〉と呼ばれるようになった。
いつもの雑貨屋に到着し、店の窓口で八リットル大瓶を一本卸そうとしてリュックを開く。開多の手が止まった。ない……。小物類をかき分けリュックの底まで探すも、ガラス瓶は入っていなかった。
大事な資金だ。脂汗がじんわりと吹き出る。
そこで思い出す。アパートを出た前日の夜、クローゼットの天井に隠したことを。
静かにリュックを閉じた。顔を上げる。カウンターの向こう側にいる店主と目が合う。世捨て人のような仏頂面。畳の上に座布団を敷き、その上に鎮座している。
「なんでもないです」
そう言って苦笑いしながら、カウンターを後にする。開多は店内を徘徊した。
ため息が漏れる。どちらにしろ、仮にリュックに八リットル大瓶を詰めていたとしても、あの逃走劇の最中に割れていたかもしれない。そう思うことにしよう。
天井から吊された目玉の大きな人形、大々的に飾られたシャツやズボン、パーカーなどの衣類、ヘルデをマスコット化したような置物、書籍類──教典だろうか? お菓子、アクセサリーなど、店の中はカテゴリーのばらばらな物品で溢れている。
節約すれば一ヶ月と半月は持つだろうか。そんなことを考えていると、視界の隅に白い服を見つけた。手に取って広げてみると、ノースリーブのワンピースだった。ちえが着ている姿が脳裏に浮かんだ。そこへ友心の姿が重なる。生前の友心がノースリーブをよく着ていた。日々服装は変わっていたはずだが、何故だかそういう印象が強く残っている。首を吊っていた時もノースリーブだった。丈が長かったどうかは記憶が薄い。ワンピースではなかったかもしれない。
──地面が揺れた。
突然だった。乱雑に陳列された商品が棚から一斉に落ちた。開多はワンピースを手に握りしめたまま片膝と手をついた。直前にきこえた落雷のような轟音が頭の中で反響する。
「外、外へ出な」
目が死んでいたはずの店主が、目玉をひん剥いて言った。揺れは続いている。開多は言うとおりにした。
千鳥足で外へ出ると、目の前の路地を駆けていく群衆の姿が目に入ってきた。埃が舞っている。人の動線の先へ目をやるが、群れと戸惑う表情しか見えない。
流れに混ざり少し走る。店から少し離れたところで、何かに気づいたような顔をして足を止めた。と同時に、店の裏手へ振り返った開多の目が点になる。西の空に、何か巨大な塊が見えていた。目を凝らす。球体か?
店の屋根の背景──遠くに、濃茶褐色の球体の天辺の弧が、空の一部を下から覆い隠していた。夕日のように。
球体はゆっくりとだが動いているようだった。徐々に勢いを増し、町の南へ向かって転がり落ちていく。やっぱり球体だ、と開多は思った。
球体が視界を左に向かって動くと、その後を追いかけるように右側で次々と煙が上がった。煙の柱が何本も見えた。ここから遠くない。
すぐに蓋ノ騎士の姿を連想した。まさか、奴らが奇襲をしかけてきたのか。
「すみません」
逃げ惑う人へ訊ねようとするが、誰一人とまろうとしない。開多の声が聞こえていない。何があったんですか、と声をかけた傍から通り過ぎていく。
ちえの笑顔が脳裏に過った。開多は心臓を掴むように、胸の辺りを掴んだ。
民宿の前まで戻ってくると、悲鳴がきこえた。すぐにちえの声だと気づき、開多は玄関扉を開け放った。
バスタオル姿のちえを、脱衣所の前に見つけた。廊下の先の奥まったところだ。唇の前で重なる両手は浅く握られ、弱々しく震えている。その足元で、ミサキがうずくまるようにして倒れていた。
中へ上がり急いで駆け寄ると、ミサキの口元にあぶくが見えた。赤が混じっている。
「家が、揺れて……」
その拍子に、ミサキが自分に素手で触れてしまったのだと、ちえは声を絞り出した。
開多はちえを抱きしめ、
「ちえのせいじゃない。仕方なかったんだ」
それ以上強く抱きしめると折れそうなくらい、ちえの体は小さく、細かった。
何かに気づいたように開多の顔つきが変わる。玄関口へ振り返った。左上へ視線がずれる。階段の手すりと廊下の天井の間から、色白な金髪の男がこちらを覗いているのが見えた。
「おい!」
開多は怒鳴った。ちえの半裸を覗かれたと思った。
男はびくっとして、苦笑いを浮かべながら二階へ駆けていった。
「おばちゃんが」
泣き出しそうなちえの頭を撫でる。仕方なかったんだ、と言って、手に握りしめていた白いワンピースを広げて見せた。
「これ、買ってきたんだ。下着は?」
ちえが脱衣所を指差す。
「着替えてきたら?」
開多が優しく言うと、ちえは落ち込んだ様子で脱衣所へ入っていった。
遺体をどうすべきか。さっきの金髪の男も処理しなければいけない。幸運にも、外は騒ぎで誰もが他人のことに構っていられない。あの巨大な球体はなんだろうか。蓋ノ国が攻めてきたのだろうか。騎士の姿は見えないが……。
ちえを犯罪者にするわけにはいかない。
玄関から伸びる廊下は、L字を逆さにした形をしている。曲がり角の上部に脱衣所があり、ミサキはその前に倒れている。
ミサキの両腕を持ち、逆さL字の奥──階段下へ移動させ、ひとまず勝手口の前で下ろした。人の死体は、想像していたよりも重く、ヘルデの皮くらいあった。
脱衣所の暖簾が揺れる。ちえがワンピース姿で出てきた。
「似合ってるよ」
頭にかかっていた暗雲が晴れるようだった。友心と瓜二つだ。
ちえの表情は強ばったままだ。笑顔がぎこちない。
ひとまず遺体はこのままにしておこう。開多はちえの手を取り階段を上がっていく。部屋に戻って荷物をまとめよう。
二階へ上がると、ベージュ色のコートを着たの男が立っていた。逆さL字の廊下の先──曲がり角のところだ。最後の段に足をかける前に、開多の体は硬直したように止まった。
男がこちらをじっと見ている。跳ね上がる鼓動。ちえが腕にしがみつく。体が震えている。
浅く呼吸しながら、すぐ目の前にある部屋の扉を開け放つ。ベランダにベージュコートが三人立っているのが見えた。窓枠の幅に合わせるように整列している。薄暗い目で、じっとこちらを見ている。
身体に震えが走るのを感じた。震えは、肩甲骨のあいだをかけあがった。部屋に踏み入っていた片足が、ゆっくりと後ずさる。思考が酩酊寸前だった。夢の中のように揺れている。
階段へ逃げた。数段下りたところで、ひとり玄関に立つベージュコートの姿が見えた。真顔に上目遣いでこちらをうかがっている。身をひるがえし二階へ引き返すと誰かに腕を掴まれた。ちえと引き離された。
「ハル!」
ちえの叫び声が廊下に響く。
先ほどちえの半裸を覗いていた、色白な金髪男がちえの腕を掴んでいた。
「暴れない暴れない」
開多は歯茎をみせ、獣のように男を睨んだ。
「未成年誘拐のロリコンが、何を勇ましい面みせとるんじゃ。変態であることを自覚しなさい」
二メートルはありそうな身長とボディービルダーのような体格。頭が天井についている。ツーブロックの金髪。後ろで髪を結んでいる。八の字に垂れた眉は、こちらを哀れんでいるようにも見える。カッターナイフで切ったような細い目の隙間から、黒い粒がこちらを覗き、見下ろしている。頬骨、咀嚼筋、口周りの筋肉が隆起したようにくっきりと浮き上がっている。
腕力で簡単にねじ伏せられてしまうだろう。開多はひるんだ。今にも殴られそうだった。
「まだ乾かしていないんですか」
ちえの濡れた髪を指でとかしながら男が言った。黒い革の手袋をはめている。手つきがいやらしい。
ちえの体が発光した。すかさず男がチエの目元を手で覆った。光がしぼむ。消えていく。
「陛下の仰った通り。瞼が閉じている間は能力は使えないようですね。素手で触れなければ恐るるにたらず」
と笑みを浮かべた。
ちえは気絶してしまったようだ。男の方へもたれかかっている。
「羅官様、この男はどうされますか」
「殺しなさい。あー、耳絶ちを使わずにですよ。彼には耳絶ちが通用しないそうですから。蓋魔だからでしょうか。あれにそんな性質はなかったはずですがねぇ。配給された短刀を使いなさい」
蓋ノ騎士が懐から脇差のような短い刃物を取り出した。開多の足元がびくっと階段の方へ一歩逃げる。騎士は開多の動きに張り付く。
「あらぁ、この子をおいて逃げるつもりですか。心変わりの早いこと」
「すぐ助ける」
「嘘はよくない」
羅官──と呼ばれた男の腕が、ちえの体の後ろからぬっと伸び、開多の背中を刺していた。すかさず廊下先の騎士が距離を詰め、開多の胸を刺す。
開多は喉のつまったような声を出し、壁に手をついた。体重を支えきれず、階段を転がり落ちていく。玄関扉に当たって止まると、玄関で待機していた騎士に、逆手に持った短刀で首元を刺された。
開多たちの部屋から三人、騎士が出てきて、階段を駆け下りていく。もう一人も続いて下りる。玄関にいた一人を合わせた五人から、開多は次々に、体のあちこちを滅多刺しにされた。悲鳴はない。すでに痛みはなかった。重みがあるだけだ。体が揺れるたび、口から吐息が漏れる。
虚ろな目。狭まる視界。天井の豆電球が見える。
ちえを抱いて羅官が、階段をおりてくる。
「そのくらいでいいでしょう」
開多を跨いで玄関先へ出た。
「行きましょう。陛下がお待ちです」
玄関アプローチを抜け、塀の外──路地へ出ると羅官の足が止まった。「これはこれは」
民宿の周りをアカデミックガウンを着た学徒たちが、開いた教典を手に囲んでいた。
「あなた方と一喜一憂している暇はありません」
学徒全員が一斉に地に伏した。体勢がよろめいたと思うと片膝が崩れ、すぐにもう一本も崩れ、腹ばいに倒れ、路地でうつ伏せになった。地面のタイルがめきめきとひび割れていく。何か圧力がかかっていることが見てわかった。
「カヴァーアップしてしまいましょうか」
羅官がそう言うと、学徒たちは「嫌だ」「やめろ」「それだけはやめてくれ」と口々に嘆願し始めた。
大きなため息がきこえた。
「敵に情けを求めるんですか? 生きて虜囚の辱を受けず、とは思わないのですか。情けない」
羅官がそう言うと、追いついた蓋ノ騎士らによって、叫びと共に、学徒たちは蓋をされてしまった。
「帰りましょう」
すぐに羅漢が足を止める。五人の蓋ノ騎士も従って止まる。背後から地面を擦る音がきこえた。羅官が振り返るのに合わせ、一行も振り返る
塀の端をつかみ、ほふく前進しながら開多が路地へ出てきた。
羅官がにんまりと微笑む。
焚豊が路地の先から駆けつけた。
開多はゆっくりと立ち上がる。体は刺し傷だらけで流血している。開多は、切り裂かれた衣服を脱ぎ捨てた。
「カヴァーアップいたしますか?」
蓋ノ騎士の一人が言った。開多の足元のタイルがひび割れだす。めきめき、と。すぐに棒立ちの開多の姿を見て、騎士は「ん?」と首を突き出し眉間に皺を寄せた。
「だから効かないと言って……」
羅官から笑顔が聞こえた。真顔から、目がぐっと驚いたように見開く。
開多の体の刺し傷が、みるみる塞がっていくのがはっきりと見えた。
「傷が……」
開多は卑しい笑みを浮かべ、
「殺してみろよ」
「貴様ぁ」
羅官が歯ぎしりした。
足元のタイルがさらにひび割れた。砂埃が開多を中心に三六〇度方向へ拡散する。騎士のコートや辺りの木々が激しく揺れた。向かい風に襲われ、焚豊も足止めをくらう。
開多は棒立ちだった。ズボンは扇風機の強風を受けたように動いているが、それ以外は髪の毛の一本に至るまで変化がない。
「才能ねぇんじゃねぇの、お前? 騎士やめろよ」
一人の騎士が「貴様ぁ」と声を張り上げる。
「よしなさい」
羅官が静止した。風がぴたりと止む。
「本当に、耳絶ちが効かないのですねぇ……不快な人だ」
開多が白目をむいて、ばたりと倒れた。羅官は呆気にとられたような顔をしてから、
「いかなる優れた能力も、無限には使えない、ということでしょうか。 この世の摂理は有限ですからねぇ」
蓋ノ人たちが去ると、焚豊がかけ寄る。開多の傍で片膝をついた。
「……」
開多の口元がわずかにに動いたのを見て、焚豊は口元へ耳を近づけた
意識が戻ると煙草のにおいがした。
ぼやけた視界が徐々に鮮明になると、路地にアカデミックガウンを着た人だかりが見えた。
生徒か、教授か職員かはわからない。
丁度、担架が民宿の玄関から出てきたところだった。岬が運ばれていく。
開多は、民宿を囲む塀にもたれ座り込んでいた。焚豊が隣で煙草をふかしながら腰を下ろしている。
学徒たちが騒がしい。路地のタイルの上に見える、複数のステーキカバーを囲って話し込んでいる。それらが反り返った楯蓋だと、開多はすぐに気づいた。
議論しているように見えた。追い込まれたような表情がほとんどで、口喧嘩をしている者も見られる。中には誰かの胸に顔をうずめ、むせび泣く姿も。
「ちえは?」
思い出したと同時に、口からついて出た。何が起きたのか、記憶が蘇っていく。
煙を吐くと焚豊が、
「連れていかれたよ」
疲れた声だった。
「覚えてないのか」
「思い出してきたところです」
「誰が連れていかれた」
「誰?」
と聞き返す。何を聞かれているのかわからなかった。
もう一口吸い、民宿の塀に煙草を擦り付けて火を消すと、
「何でもない」
焚豊は立ち上がり、学徒たちの方へ歩いていった。
同じように立ち上がろうとして、開多は尻餅をつく。体に力が入らない。もう一度試してみると、どうにか立つことはできた。
学徒たちのところまで少しずつ近づき、焚け豊の隣で止まる。
「こうなったら、もうどうしようもない」
「カヴァーアップですか」
「この島の東に住み着いたその日から、奴らはこうやって、何人もの不都合な者を悪戯にカヴァーアップしてきた。蓋をすると、真下に特殊な隔絶された空間ができるという。その空間の中では時間が進まず、人や生物は年を取らない。物は劣化しない」
「蓋をした本人以外には開けられないんでしたっけ」
開多の声は、何故だかすっきりしていた。
学徒の一人が蓋の取っ手を持ち、必死に開けようと引っ張っている。その顔は涙でぐちゃぐちゃだ。後ろの男性が「もうやめろ」と気の毒なものを見るように言った。
「懐かしい」
開多は薄ら笑みを浮かべ、
「小学生の頃、よく幼馴染とカヴァーアップの練習をしたんです」
そう言いながら、反り返った楯蓋に近づいていく。何人かの学徒が不愉快そうに見ている。
「俺には耳絶ちがなかったから、授業で使ったカヴァーアップ後の、こういう反り返った楯蓋を教員から借りて」
なんの気なしに取っ手を握ると、楯蓋が簡単に持ち上がった。綿飴を持ち上げる程度の感覚だった。
「あれ?」
目を丸くし、
「あのぉ、これカヴァーアップできてませんよ?」
反り返った楯蓋を片手に、開多は学徒たちへ知らせた。
開多の背後、足元に穴があった。楯蓋が蓋をしていた位置だ。
穴の中から息づかいが聞こえた。何かを擦る音、咳き込む声。
穴から血の気の引いたような顔が突き出て、辺りを見渡した。学徒たちを見て、「ここは」としみったれた面が訊ねた。目の挙動に落ち着きがない。すぐに数名の学徒が駆け寄った。手を借り、穴から這い出てきた男はアカデミックガウンを着た学徒だった。悲壮に満ちた表情で「何年だぁ、何年だぁ」と怯えた声を繰り返す彼に、学徒の女が抱きついた。
「大丈夫よ、まだ一時間も経ってない」
学徒の男は膝から崩れ落ち、大声で泣き出した。
「いや、だから……」
と何か言いかけた開多の言葉が止まる。周囲の生徒たちが、開多を不振な目でじろじろ見ていた。
「こっちの蓋も取ってくれ」
軽い声が言った。焚豊だ。
「なんで」
「いいから」
空気が悪い。まるで何か責められているようだ。開多の右目、目元がぴくぴくと痙攣する。
意味が分からず、開多は苛立ちを浮かべながら、不服そうに、
「自分でやればいいでしょ」
言われるがまま楯蓋の取っ手を握った。また簡単に持ち上がる。穴から人が顔を出すと、学徒が数人駆け寄って、彼を穴から出した。そして抱きしめ合った。穴から出てきた学徒は、そのうち安堵して泣き出す。
「俺には開けられない」
焚豊が平坦な声で告げる。
「はい?」
「見てろ」
焚け豊は、一つ選んで楯蓋へ近づき、袖をまくしあげて少し屈み、取っ手を両手で握った。細腕に血管が浮き上がる。顔が真っ赤になり、首にも血管が浮いた。腹から声を張り上げ、さらに力を入れた。
開多はおざなりに、
「上手いもんですねぇ、パントマイムですかぁ」
馬鹿にされていると思った。
取っ手から手を離し、肩で呼吸しながら焚豊が上体を起こす。
「違う」
穴から出てきた一人が急に開多の手を掴んだ。
「ありがとうございます。あなたが蓋を開けてくれたと聞いて」
「ちょっと」
気持ち悪い気がして、開多は上半身をやや仰け反る。男は濡れた満面の笑みで、
「命の恩人だ」
また一人が開多の片方の手を取り感謝した。
集まった学徒たちの無言、視線が、少し違ったものに見えてくる。不振がってはいるが、突き放されているようではない。
「なんなんですか」
心が落ち着かない。体は気怠い。
「お前にしか開けられない」
焚豊の目が据わっていた。
開多を囲む学徒たち。騒がしさが歓声へ変わる。どうか次を開けてください。早く次を。人と人の隙間の奥で、焚豊の据わった目が開多を凝視している。
その気味の悪い視線に気怠さを感じ、どっと疲れが出てきて、開多は上を向いた。空が見えた。何も頭に入ってこない。
ちえを追いかけないと。
ワンピースの代金を払い忘れていることを思い出した。
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