SCENE#189 おちょけ者
魚住 陸
おちょけ者
第一章:八百八町の道化
陽光が照りつける神田の露地裏、一人の男の笑い声が不自然に響き渡る。長屋の徳次は、今日も今日とて下らない駄洒落を連発し、天秤棒を担ぐ棒手振りや洗濯板を叩く女房連を煙に巻いていた。その軽薄な口調、大袈裟な身振り。誰もが彼を、苦労を知らぬお気楽な放蕩息子だと信じて疑わない。だが、その濁った酒の如き笑みの奥底で、二つの目は冷徹に世相を射抜いていた。
元禄の華やかさは疾うに失せ、享保の改革が庶民の首を絞める昨今、奉行所の役人は重税を課し、商人と結託して私腹を肥やす。徳次は、その不条理を滑稽な仕草で茶化しながら、同時に誰よりも深く大邑(たいゆう)の呼吸を読み取っていた。
「おい、徳さん。またふざけてるのかい!」
隠居の甚兵衛が苦笑いを浮かべて声を掛ける。徳次はひょっとこのような面を作って見せ、無意味な踊りを披露した。周囲はどっと沸く。しかし、徳次の耳には、その笑い声の裏側に潜む、飢えと諦めの溜息がはっきりと届いていた。彼がおちょけるのは、絶望に支配されそうな人々の心に、一時的な酸素を送り込むため。そして、自らの真実を隠蔽するための、最も卑小で効果的な偽装であった。陽が傾き始めると、徳次の表情から微かに色彩が消え失せる。
夕闇は、道化の仮面を脱ぎ捨てるための合図だ。彼は長屋の隅に置かれた、誰も見向きもしない壊れた長持ちの中に、一つの手帳を隠し持っている。そこには、役人の贈収賄、商人の不正な買占め、そして街の隅々から拾い上げた醜悪な真実が、細かな文字で記されていた。徳次は、江戸の闇を攪拌するための毒を、自らの口八丁の中で醸造し続けているのだ。
「さてと、そろそろ夜の出番だ!」
呟いた言葉は、誰にも届かない。徳次は、空っぽの懐を叩き、再び軽薄な足取りで大通りへと躍り出た。背後に伸びる影は、昼間の滑稽な男とは似ても似つかぬ、鋭利な刃の如き輪郭を保っていた。この街を覆う淀んだ空気を切り裂くのは、洗練された剣技ではない。おちょけ者という名の、最も卑怯で、最も正義に近い男の暗躍であった。
彼は再び、無意識の群衆の中に紛れ込み、次なる獲物の足跡を辿り始める。そこには、慈悲も救済も存在しない、非情な情報の等価交換だけが待っていた。徳次の唇が、暗がりで僅かに歪んだ。
第二章:闇に潜む真実
月光すら届かぬ深川の倉庫街。潮の匂いに混じって、焦げた油のような不吉な気配が漂う。徳次は、昼間の軽薄さを微塵も感じさせない、猫のような身のこなしで荷積みの隙間を潜り抜けた。彼の目的は、米問屋「越後屋」と勘定吟味役の鳥居が密約を交わす現場を押さえることにある。彼らは米の価格を意図的に釣り上げ、飢饉を口実に庶民から最後の蓄えまでを絞り取ろうと画策していた。徳次は、蔵の天井裏に張り付き、眼下で行われる醜悪な取引の一部始終を、一文字も逃さず記憶の粘土板に刻み込んでいく。
「これで、江戸の富は我らの思いのままだ…」
鳥居の卑屈な笑い声が、静寂を汚すように響く。徳次は、その貌(かお)をじっと見つめながら、懐の小柄(こづか)を指先で弄んだ。ここで首を刎ねるのは容易い。だが、それでは悪の連鎖は断ち切れない。必要なのは、彼らの罪を白日の下に晒し、民衆の怒りを「瓦版」という名の爆弾に変えて炸裂させることだ。徳次は、あえて床を僅かに鳴らし、存在の断片を敵に悟らせた。
「何奴だ!」
浪人たちが一斉に抜刀する。徳次は再びおちょけ者の顔を被り、天井からひらりと舞い降りた。
「いやあ、いやあ、道に迷いましてね。景気のいい話が聞こえたもんで、お零れを頂戴しようかと…」
間の抜けた声に、浪人たちは一瞬の困惑を見せる。その隙を見逃さず、徳次は煙玉を叩きつけた。爆発音と共に立ち込める濃厚な白煙。混乱の中、彼は越後屋の懐から、不正の証拠となる秘密の帳簿を、鮮やかな手捌きで抜き取っていた。
「逃がすな! 殺せ!」
鳥居の絶叫が背後で遠ざかる。徳次は、暗闇を味方につけ、屋根伝いに疾走した。心臓の拍動は激しいが、頭脳は氷のように冷徹。この一冊の帳簿が、明日には数千枚の瓦版となり、江戸を震撼させるだろう。おちょけ者が命を懸けて拾い上げた真実は、権力者たちの築き上げた虚飾の城壁を、内側から粉々に砕くための毒液となる。徳次は、再び長屋へと戻り、壊れた長持ちの影で、深い安堵の溜息を漏らした。だが、戦いはまだ始まったばかりだ。夜明け前の空気は冷たく、彼の指先を静かに凍てつかせていた。
第三章:墨香の反逆
夜明け前の静寂を切り裂くように、深川の古寺の地下では、澱みのない版木の刻む音が響いていた。徳次は、奪い取った越後屋の秘密帳簿を、世に隠れた凄腕の彫り師へと差し出した。墨の香りが立ち込める狭い空間で、権力者の醜聞が、冷徹な文字となって木片に刻まれていく。摺り師の手によって、真っ白な和紙が次々と黒く染まり、そこには鳥居と越後屋の癒着、そして民を飢えさせるための奸計が、赤裸々に記述されていた。徳次は、その仕上がりを満足げに眺め、自らも筆を執って「おちょけ者」の名を伏せた痛烈な風刺画を添えた。
「さてと、江戸の目覚めを、この紙切れで華やかに飾ってやろうじゃねぇか!」
彼の呟きは、冷たい地下の空気に溶けて消える。数千枚に及ぶ瓦版は、徳次の合図と共に、闇に紛れた配り手たちの手によって、街の至る所へと飛散していった。橋の袂、長屋の入り口、および奉行所の門前。陽が昇り、人々が活動を始める頃、江戸の街はかつてない騒乱に包まれることになった。おちょけ者が命を懸けて拾い上げた真実は、もはや誰にも止められない猛毒となって、権力者たちの血管を駆け巡り始めた。
朝靄の中で、最初の一枚を拾い上げた棒手振りの男が、驚愕の声を上げた。その叫びは連鎖し、一瞬にして群衆の怒りへと転火した。人々は、自分たちを苦しめていた元凶が誰であるかを悟り、越後屋の店先へと押し寄せた。徳次は、その光景を少し離れた茶屋から、相変わらずのおどけた表情で眺めていた。
だが、その瞳だけは、獲物を仕留める直前の鷹のような鋭さを保っている。瓦版の飛散は、単なる告発ではない。それは、沈黙を強いられてきた民衆の魂に、再び自浄の火を灯すための儀式。越後屋の番頭が青い顔をして飛び出し、怒号を浴びせる群衆を制止しようとするが、その声は数万の憎悪によってかき消された。
鳥居の屋敷にも、抗議の石が投げ込まれ、虚飾の平穏は音を立てて崩壊した。徳次は、飲み干した茶碗を置き、腰を上げた。騒動の火種は放たれた。だが、この混乱に乗じて真の獲物を追い詰めるには、さらなる道化の舞が必要となる。彼は再び、狂乱の渦中へと身を投じた。その背中には、夜明けの光が非情なまでの覚悟を照らし出していた。
第四章:猟犬の眼光
騒乱の渦中、奉行所定町廻り同心の瀬嶋は、瓦版の一片を無造作に踏み締め、広場に集まる群衆を冷淡に観察していた。彼は、賄賂に手を染める上役たちとは一線を画す、猟犬の如き嗅覚を持った男。瀬嶋は、今回の情報の流出が、単なる偶然や内部告発ではないことを直感していた。何者かが明確な意志を持ち、組織的に権力の基盤を揺さぶりにかかっている。彼の鋭い眼光は、騒ぎの中で不自然に「おちょけて」いる一人の男、徳次へと向けられた。
「道化を演じるには、それ相応の覚悟が必要なはずだが……」
瀬嶋は独り言を放ち、徳次の背後を密かに追い始めた。徳次は、追跡者の存在を察知しながらも、あえて隙だらけの動作で街を彷徨う。路地裏の角を曲がり、古びた稲荷神社の境内で、徳次は突然足を止めた。振り返った彼の顔には、いつものふざけた笑みが張り付いている。だが、その体勢は、あらゆる攻撃を瞬時に回避し、反撃に転じ得る、極めて洗練された武人のそれへと変容していた。瀬嶋は、腰の十手に手を掛け、じりじりと間合いを詰めていく。
「貴様、その顔の下に何を隠している。瓦版の出所は、越後屋の蔵を襲ったのはお前だな…」
瀬嶋の問いに対し、徳次はひょっとこのような面を作って見せ、無意味な手踊りを披露した。
「いやあ、これはお役人様。私はただの、おちょけ者でございますよ。蔵を襲うなんて、そんな恐ろしいこと、夢にも思いません!」
言葉とは裏腹に、徳次の足元からは微塵の揺らぎも感じられない。瀬嶋は確信した。この男こそが、江戸の闇を攪拌し、権力構造を内側から破壊しようとしている張本人であると。二人の間に流れる時間は、一触即発の緊迫感に満ち溢れていた。瀬嶋は正義という名の規律を重んじ、徳次は真実という名の混沌を愛する。正反対の信念を持つ二つの魂が、神社の境内で激しく火花を散らした。
不意に、徳次の姿が煙のように消えた。瀬嶋が踏み込んだ瞬間、そこには一枚の瓦版が残されているだけだった。そこには、瀬嶋すら知らなかった、奉行所内部のさらなる深い汚職の証拠が記されていた。徳次は、追跡者すらも自らの駒として利用し、さらなる毒を江戸の街に撒き散らそうとしていた。瀬嶋は瓦版を握り締め、暗がりに消えた道化の足跡を見つめた。狩る者と狩られる者の境界が、いま、決定的に曖昧なものへと変わろうとしていた。
第五章:泥中の双龍
振り出した雨が激しさを増し、神田の薄暗い路地裏を泥濘に変えていく。瀬嶋は、抜き身の刀を徳次の喉元へ突きつけたまま、微動だにしない。だが、おちょけ者の顔からは、死への恐怖が微塵も感じられなかった。徳次は、冷たい刃を指先で軽く逸らすと、懐から最後の一枚となった瓦版を、雨に濡れぬよう慎重に取り出した。
「お役人様、この街を焼こうとしている奴らがいるんだ。越後屋と鳥居だ。奴らは焼け太りを狙い、わざと火を放って利権を貪るつもりだぜ!」
瀬嶋の眉間に深い皺が刻まれた。自身が信じていた奉行所の正義が、足元から音を立てて崩れ去る感覚。上役たちがこの計画を黙認し、私腹を肥やすための肥やしに民を捧げようとしている事実。徳次の言葉は、冷たい雨音に混じって瀬嶋の理性へと深く浸透していった。二人は、規律と混沌という対極にありながら、共通の巨悪を前にして、奇妙な共犯関係へと足を踏み入れた。
「……その証拠はどこにある?」
「越後屋の奥座敷、秘密の隠し部屋に、火付けの配置図が眠っている。それさえあれば、奴らの首は洗えるさ!」
徳次の声から道化の響きが消え、一人の武士としての冷徹さが滲み出した。瀬嶋は、静かに刀を鞘へと収めた。規律を破り、おちょけ者と手を組むという選択。それは、彼にとっても地獄への片道切符を意味していた。だが、泥の中でもがく龍のような二人の意志は、今、一つの殺意へと収束していった。
「お前のそのふざけた面、最後まで通すことができるか?」
「へへ、死ぬまでおちょけて見せますよ。それが、俺なりの矜持(きょうじ)ってやつですから!」
二人は、濡れた石畳を蹴り、越後屋の本拠地へと向けて疾走を開始した。雨はさらに勢いを増し、江戸の街を一層深く塗り潰していく。闇の中に消える二つの影は、もはや追う者と追われる者ではない。この腐った世に風穴を開けるための、鋭利な一対の刃となっていた。背後で稲光が走り、一瞬だけ彼らの決意に満ちた貌(かお)を白日の下に晒した。二つの魂が雨に塗れながらも、江戸の灯火を守るために加速する。
第六章:虚飾の業火
江戸の夜空が、不吉な朱色に染まった。越後屋が雇った火付け部隊が、密集する下町の長屋に一斉に松明を放った。乾燥した冬の空気が、焔を巨大な獣へと変え、すべてを飲み込んでいく。鳥居の狙いは、邪魔な貧民街を一掃し、跡地に豪奢な遊郭を築き上げること。越後屋の秘密部屋には、莫大な利権の契約書が、血の色をした欲望のように積み上がっていた。
徳次は、燃え盛る火柱の中を、おちょけ者特有の軽妙な身のこなしで潜り抜けた。瀬嶋は、奉行所の制止を振り切り、逃げ惑う民衆を安全な場所へと導きながら、同時に敵の浪人たちを次々と斬り伏せていった。業火の中、徳次は越後屋の奥座敷へと辿り着く。そこには、金銀に目が眩んだ主の越後屋と、高笑いする鳥居の姿があった。
「貴様ら、地獄の業火に焼かれるのは、ここの住人じゃない。お前たち自身だ!」
徳次の手には、既に火付けの証拠となる密約書が握られていた。越後屋は泡を食って叫び、護衛の隠密たちを解き放った。白刃の閃光が、炎の影の中で激しく交錯した。徳次は、飛来する手裏剣を紙一重でかわし、隠し持っていた短刀を越後屋の足元へ投げつけた。瀬嶋もまた、崩落する梁を回避しながら、鳥居の退路を断つべく現れた。炎の熱気が肌を焼き、酸素が奪われていく極限状態。だが、徳次の笑みは、かつてないほど清々しく、そして凶悪だった。虚飾で塗り固められた悪党たちの人生が、本物の炎によって剥がれ落ちていく。
「おちょける暇もないほどの熱狂だな、越後屋よ…」
徳次は、燃え移った襖を蹴散らし、確実な死の宣告を突きつけた。瀬嶋の剣が、鳥居の権威という名の虚像を真っ二つに切り裂く。崩壊する建物の中で、おちょけ者と猟犬は、最後の断罪を下すための牙を研ぎ澄ませた。江戸の空は、欲望の終焉を告げる、凄惨な紅蓮に包まれていた。すべてが灰に還る前に、彼らは真実の楔を打ち込んだ。崩れゆく床、立ち込める煙。絶望の淵で、徳次の笑いが響いた。死線を超えた道化の舞が、悪の根城を内側から食い破っていった。
第七章:八百八町の陽炎
紅蓮の炎が鎮まり、江戸の空に白々と白銀の夜明けが訪れた。越後屋の奥座敷は崩落し、灰の中から、鳥居の権威を象徴する葵の紋が刻まれた調度品が、無惨な姿を晒していた。徳次と瀬嶋が命を懸けて奪い取った密約の証拠は、町火消しの手から、辛うじて生き残った正直な役人たちの手へと引き渡された。鳥居は自らの罪が白日の下に晒されるのを拒み、燃え盛る建物の奥で自刃を遂げ、越後屋は捕縛され、彼が築き上げた虚飾の財は、没収されて被災した民への救済金へと充てられることが決定した。すべては、おちょけ者が仕掛けた瓦版という名の毒が、民衆の怒りを正義の奔流へと変えた結果だった。
「さて、お役人様。俺の出番はここまでだ。あとは、あんたの正義でこの街を立て直してくれ!」
瓦礫の山を背に、徳次は瀬嶋に背を向けた。焼け焦げた着物の裾を払い、懐から取り出した手拭いで、煤けた顔を拭う。そこには、もはや鋭い武人の貌はなく、いつもの頼りない、おどけた男の笑みが張り付いていた。瀬嶋は十手を腰に収め、その去りゆく背中を呼び止めることはしなかった。
法が裁けぬ闇を、笑いという名の毒で浄化した男。その存在は、歴史の表舞台には決して記されない、江戸の陽炎。江戸の街には、光があれば必ず影がある。そして、その影こそが、街の温度を保つための真実の源。数日後、神田の長屋には、以前と変わらぬ徳次の笑い声が響き渡っていた。
「おい、甚兵衛さん。火事のあとの景気付けだ、一曲踊ってやろうか!」
滑稽な手付きで、徳次は再び道化を演じ始める。周囲の人々は、彼が江戸の危機を救った張本人であることなど露ほども知らず、その下らない駄洒落に声を上げて笑っている。瀬嶋は遠くからその喧騒を見守り、僅かに口角を上げた。街を覆っていた毒は消え、新しい江戸の香りが風に乗って運ばれてくる。
おちょけ者とは、人々の記憶から消えることで、永遠にこの街の守り人であり続ける。八百八町の陽炎は、昇る朝日に溶け、再び賑やかな日常の中に紛れていった。徳次の瞳には、再生を誓う民の力強い足音が、誰よりも鮮明に映り込んでいた。そこにはもう、淀みなど微塵も存在しなかった。いやはや、痛快!
SCENE#189 おちょけ者 魚住 陸 @mako1122
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